長尾晴景とは? わかりやすく解説

長尾晴景(ながお はるかげ) 1510~1553


長尾晴景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/23 00:07 UTC 版)

 
長尾 晴景
時代 戦国時代
生誕 永正6年(1509年[注釈 1]
死没 天文22年2月10日1553年3月23日
改名 道一丸(幼名)→定景→晴景
別名 通称:弥六郎、六郎
戒名 千巌院殿華岳光栄
官位 左衛門尉(受領名)
幕府 室町幕府 越後守護代
主君 上杉定実
氏族 越後長尾氏
父母 父:長尾為景、母:上条氏(上杉弾正少弼)の娘[2]
猶父:上杉定実
兄弟 晴景加地春綱正室[3]仙桃院長尾政景正室)、景康、長尾景房、上条頼房正室、景虎(上杉謙信)
正室:上杉定実の娘[4]
猿千代、女子(上杉信虎室)[5]
養子:景虎(実弟)
テンプレートを表示

長尾 晴景(ながお はるかげ)は、戦国時代武将越後国戦国大名。越後長尾氏8代当主。

生涯

家督相続

越後国守護代長尾為景の子として生まれる。母は上条上杉氏。幼くして主君の越後守護上杉定実猶子となる[注釈 2]。定実の娘を娶ると共に偏諱を受け、定景(さだかげ)と名乗る。のちに12代将軍・足利義晴から偏諱を与えられ、晴景(はるかげ)に改名。

天文9年8月3日1540年9月13日)、父・為景の隠居により、家督を譲られて[注釈 3]春日山城主となると共に越後守護代を補任された。

父の為景と異なり穏健な政策をとり、領内の国人との融和を図った。越後における争乱を鎮めることにはある程度成功したが、主君である越後守護の上杉定実養子縁組問題で伊達氏から伊達時宗丸を迎えるか否かで越後国内が乱れた際(天文の乱)、中条氏らを抑えることはできなかった。

実弟・景虎の台頭

そのような情勢の中、城下の寺院へ入門していた弟の虎千代(景虎、後の上杉謙信)が還俗して栃尾城主となり、反乱を鎮め家中での名声を高めると、家臣の一部の間で景虎の擁立を望む(晴景の嫡子・猿千代は早世していた)ようになり、長尾家は家中分裂の危機を迎える。

天文17年(1548年)頃、長森原の戦い以来長く関係が断絶していた関東管領山内上杉家との関係を修復し、関東管領上杉憲政と越後長尾氏の書状のやりとりが再開される。これが、後に憲政が景虎を頼って越後に亡命する布石となる[7]

天文17年(1548年)12月、晴景は定実の仲介のもとに、景虎に家督を譲って隠居する。近年において、景虎擁立は守護権力の巻き返しを図る定実が関与しているとする説がある他、従来は晴景に対する謀叛と言われてきた黒田秀忠の反乱の発生時期が繰り下がったことによってむしろ晴景擁護の動き(景虎打倒の動き)であった可能性が指摘されている[8]

天文19年(1550年)2月、定実が後継者を遺さずに死去したため、景虎が将軍・足利義輝より越後国主の地位を認められた。

天文22年(1553年)2月10日、死去した。享年45。

人物

病弱なうえ戦よりも芸事を好んだ人物であったことが謙信の書状ほか諸史で伝わっている。また、後年一部の史書には景虎が晴景を殺害して家督を奪ったとする記述もあるが、多くの史書と食い違いがあり、創作と見るのが一般的である。

また、中条氏と色部氏の抗争に関し、為景が当主の時代には中条氏を支持していたのに、晴景が当主になると一転して色部氏を支持していることから、伊達時宗丸の越後上杉氏入嗣を巡る家中の対立を背景に晴景が反為景派の支持を受けて為景を追い込んで家督を奪ったとする説も存在する[9]。更に天文11年4月5日付で出されたとされる上杉玄実(定実)が政治からの引退を表明するために晴景に出したとされる起請文も実態としては、晴景が軍事力を背景に定実を政治的引退に追い込んだとする説も存在する[10]。つまり、晴景は父と主君を実力で排除して越後の実権を握った可能性が浮上していることになる[10]

脚注

注釈

  1. ^ 長尾為景は享禄元年12月に将軍・足利義晴から毛氈鞍覆・白傘袋が免許された際に嫡男(晴景)に偏諱が与えられているが、この時に晴景の元服が行われたとする見方もあり、事実とすれば生年が永正11年(1514年)頃まで繰り下がる可能性がある[1]
  2. ^ 「日本随筆大成」[要文献特定詳細情報]に拠ると、定実が為景の姉妹を娶った際に、為景の嫡子・六郎(のちの晴景か)を猶子とする約定を取り交わしたと云われる。
  3. ^ 上杉家文書(『新潟県史』資料編一、109号文書)。なお、同文書は天文5年(1536年)作成と見られ家督移譲もこの時とされることが多いが、同書における為景の署名形式や、天文9年9月以降に晴景による発給文書が確認され、同月に晴景に対して敵追討の綸旨が発給されていること、更にこれ以降為景発給文書が確認できないことから、家督交代は天文9年だと考えられる[6]

出典

  1. ^ 黒田基樹 著「総論 長尾為景の研究」、黒田基樹 編『長尾為景』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三四巻〉、2023年 ISBN 978-4-86403-464-7 15頁
  2. ^ 福原圭一; 前嶋敏 編『上杉謙信』前嶋敏、福原圭一、片桐昭彦、森田真一、阿部哲人、竹下多美、今福匡、村石正行、田嶋悠佑、簗瀬大輔、萩原大輔、矢部健太郎執筆、高志書院、2017年、39-41,52-53頁。ISBN 978-4-86215-174-2 
  3. ^ 大日本史料 上杉三代日記北越軍談より。
  4. ^ 豊田武『戦国の群雄』読売新聞社、1966年。 
  5. ^ 米沢藩諸士系図
  6. ^ 前嶋敏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成ー伊達時宗丸入嗣問題を通してー」『日本歴史』第808号、2015年、46-47頁。 
  7. ^ 森田真一 著「北条氏と山内・扇谷両上杉氏」、黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年7月、236-237頁。 ISBN 978-4-86403-391-6 
  8. ^ 福原圭一「上杉謙信」五味文彦 監修『歴史文化遺産 戦国大名』山川出版社、2018年、P49-53.
  9. ^ 黒田基樹 著「総論 長尾為景の研究」、黒田基樹 編『長尾為景』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三四巻〉、2023年 ISBN 978-4-86403-464-7 45頁。
  10. ^ a b 福原圭一「上杉謙信」五味文彦 監修『歴史文化遺産 戦国大名』山川出版社、2018年、P49-51.

長尾晴景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 10:21 UTC 版)

天と地と」の記事における「長尾晴景」の解説

為景の嫡男謙信実兄だが、謙信が為景の晩年の子なので親子ほどの歳の差がある。為景の死後、跡を継いで守護代となるものの父に似ず器量凡庸であり、国の乱れ抑えることができずに越後分裂させてしまった。

※この「長尾晴景」の解説は、「天と地と」の解説の一部です。
「長尾晴景」を含む「天と地と」の記事については、「天と地と」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「長尾晴景」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「長尾晴景」の関連用語

長尾晴景のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



長尾晴景のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2025 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの長尾晴景 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの天と地と (改訂履歴)、雪花の虎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS