定行の事跡とは? わかりやすく解説

定行の事跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 19:44 UTC 版)

宇佐美定行」の記事における「定行の事跡」の解説

北越軍記』やその派生本等によると、琵琶島城城主宇佐美定行は、兄長尾晴景から命を狙われ栃尾城逃げ込んだ上杉謙信当時長尾景虎)に招かれ彼の軍師となり、敵対躊躇する謙信説得して兄への挙兵決意させる。米山合戦における定行活躍などもあって晴景は敗死し、天文17年1548年謙信上杉家当主の座につく。天文23年1554年8月川中島合戦では謙信窮地を救う活躍したその後謙信に従って関東出兵して、永禄5年1562年)、厩橋城北条氏邦攻撃から守り切るも、嫡男定勝を失う。そして永禄7年1564年定行謙信への叛意を抱く長尾政景暗殺するため政景を野尻湖(一説には坂戸城近く野尻池とも)へ舟遊び誘い舟底の栓を抜いたうえで、政景もろとも湖底沈んだとされる定行謙信宛て遺書残しており、そこには上田長尾側から遺恨抑えるため宇佐美家取り潰し、兄の死によって嫡男となった勝行を追放するようにと.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}認(したた)めてあった、としている。また『北越軍記』や宇佐美家伝えられ系譜類によると、上杉家追放された勝行はその後三好秀次豊臣秀次)の家臣渡瀬左衛門大夫、さらに仙石秀久黒田孝高蒲生氏郷小西行長らの許を転々とし、最後旧家復帰望み賭けて関ヶ原の戦い上杉家の陣に加わるが、敗戦により叶わず、越後没したとしている。 しかし、これら定行・勝行の事跡定勝存在一次史料からは確認されない。『北越軍記』は永正4年に孝忠が病死したのち定行宇佐美家継いだとするが、前述通り定満の父に比定される房忠が永正11年までは生存しており、矛盾生じている。また『北越軍記』は定行永禄5年1562年)に定満へ改名したとするが、天文18年1549年時点で定満の名が確認出来史料存在しており、永禄5年改名説は根拠が薄い。さらに長尾晴景没年天文22年1553年)であり、謙信争って敗死したという事実は無い。

※この「定行の事跡」の解説は、「宇佐美定行」の解説の一部です。
「定行の事跡」を含む「宇佐美定行」の記事については、「宇佐美定行」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「定行の事跡」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「定行の事跡」の関連用語

1
宇佐美定行 百科事典
10% |||||

定行の事跡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



定行の事跡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの宇佐美定行 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS