長尾景虎の家督相続以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 07:34 UTC 版)
「宇佐美定満」の記事における「長尾景虎の家督相続以後」の解説
天文17年(1548年)に長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぐと定満はこれに従い、景虎と対立した上田長尾家の当主長尾政景に備えて要害に入る。天文18年(1549年)6月、景虎の家臣平子孫太郎に宛てた書状によると、定満は政景側の計略や脅迫を受けており、まだ自身に力が無く、家臣も士気が低下しているため、自分達だけに備えを任せれば後悔するであろうことを訴えている。 一時景虎より離反するが、後に復し、天文20年(1551年)正月には政景側の発智長芳・穴澤長勝らと交戦。一方、同年夏頃に定満と平子孫太郎の間で多劫小三郎の遺領を巡っての対立が発生したらしく、孫太郎や大熊朝秀・直江実綱・本庄実乃ら景虎の奉行人に対して裁定への不満を訴えるとともに、知行の加増が無く、家臣の戦意も失われている状況を嘆いている。 その後、景虎と政景の抗争が終結すると定満の名は確実な史料上から消える。高橋修は定満は景虎に重用されず宇佐美家は没落したとする。ただし宇佐美家そのものが断絶したわけでは無く、永禄10年8月、武田信玄の信州侵攻への防備強化に携わった者の中に「宇佐美平八郎」の名が見えている。
※この「長尾景虎の家督相続以後」の解説は、「宇佐美定満」の解説の一部です。
「長尾景虎の家督相続以後」を含む「宇佐美定満」の記事については、「宇佐美定満」の概要を参照ください。
- 長尾景虎の家督相続以後のページへのリンク