長尾景虎の家督相続以前
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「宇佐美定満」の記事における「長尾景虎の家督相続以前」の解説
宇佐美定満は「宇駿」「宇佐美駿河守」「宇佐美駿河守定満」「宇駿定満」の名で一次史料に登場し、その活動が確認出来る。越後守護上杉定実に味方して、守護代長尾為景と抗争していた宇佐美弥七郎房忠は、永正11年(1514年)越後岩手城にて敗死。新沢佳大はこの時に城より逃げ落ちた「弥七郎息」を定満に比定し、従来、定満の祖父とされてきた宇佐美孝忠と父とされてきた房忠は同一人物であり、房忠は孝忠の晩年の名前であったとする。 岩手城落城の約20年後、定満は為景と守護上杉家一門上条定憲との抗争(越後享禄・天文の乱)において定憲側の武将として登場する。当初為景側であった定満は離反した後、諸方へ計略を巡らせ、天文4年(1535年)5月に上田衆・妻有衆・藪神衆・大熊氏らと共に定憲側に集結した。宇佐美・柿崎勢は天文5年(1536年)4月10日に行われた三分一原の戦いで為景勢に敗北しているが、この戦いの後に為景は隠居しているため、定満にも相応の成果があった戦いと言える。一説には定満率いる宇佐美勢はこの戦いで為景を討ち死に寸前まで追い詰めたといわれている。なお、この時期「宇佐美四郎右衛門尉」なる人物が定憲側の武将として活動している。新沢はこれを定満に比定しているが、『越佐史料』や『上越市史資料編3古代・中世』では別人として扱っている。
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