菟道稚郎子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 23:50 UTC 版)
概要
菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。
郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。
『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。
名称
表記は次のように文書によって異なる。本項では「莵道稚郎子」に統一して解説する。
- 宇遅能和紀郎子 - 『古事記』[原 1]
- 菟道稚郎子皇子 - 『日本書紀』[原 2]
- 宇治若郎子 - 『山城国風土記』逸文[原 3]
- 宇治稚郎 - 『日本後紀』[原 4]
- 菟道稚郎子 - 『日本後紀』逸文[原 5]
- 宇治稚彦皇子 - 『続日本後紀』[原 6]
- 兎道稚郎皇子 - 『先代旧事本紀』「天孫本紀」[原 7]
- 兎遅稚郎子 - 『先代旧事本紀』「天孫本紀」[原 7]
- 菟道稚郎皇子 - 『延喜式』諸陵寮[原 8]
これらのほか、『播磨国風土記』に見える「宇治天皇」[原 9]も菟道稚郎子を指した表記と指摘される[1]。
「ウジ」について
名前の「ウジ・ウヂ(莵道/宇遅)」は、京都府南部の地名「宇治」と関係する。「宇治」の地名は古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されたが、平安時代に「宇治」に定着したとされている[2]。『古事記』では母・宮主矢河枝比売が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まっていた旨が記され、郎子と当地との関係の深さが示唆される。なお現在も「菟道」という地名が宇治市内に残っているが、読みは「とどう」である。
地名「宇治」について、『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子の宮が営まれたことが地名の由来としている。しかしながら、『日本書紀』垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀にはすでに「菟道河(宇治川)」の記載があることからこれは誤りと見られ[3]、むしろ菟道稚郎子の側が地名を冠したものと見られている[3]。現在では、北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられている[4][5]。実際、宇治はヤマト王権の最北端という影響の受けにくい位置にあることに加え、菟道稚郎子の説話や「宇治天皇」という表現からも、宇治に1つの政治権力があったものと推測されている[3]。なお、文字通り「兎(ウサギ)の群れが通って道になった」ことを「莵道」の由来とする南方熊楠による説もある[6]。
「イラツコ」について
「イラツコ(郎子)」は、名前に付される敬称である。史書に「郎女(いらつめ/いらつひめ)」は頻出するが(『古事記』で43名[7])、「郎子」が使われたのは『古事記』では莵道稚郎子含め4名のみで[7][注 2]、一般に使われる「命(みこと)」や「王(おう/みこ/おおきみ)」のいずれでもない特異性が指摘される[7][注 3]。「郎子」の用法の性格には、愛称とする説と「郎女」の対とする説がある[7]。「郎女」の多くが皇女に用いられていることから「郎子」も皇子を指したものという見方が強いが、菟道稚郎子以外の3名はいずれも「王」とも表記されており、皇位継承者に付される「命」ではなく「王」に近い用法と考えられている[7]。
なお、「郎子」の前の「ワキ」は「若(わか)」の転訛とされる[7]。
系譜
古事記・日本書紀
(名称は『日本書紀』初出を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)
『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇と和珥氏(丸邇氏)祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女 の宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)との間に生まれた皇子である[原 10]。同母妹には矢田皇女(やたのひめみこ、八田皇女/八田若郎女:仁徳天皇皇后)、雌鳥皇女(めとりのひめみこ、女鳥王)がいる。
応神天皇と仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命)との間に生まれた大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命:仁徳天皇)は異母兄にあたる。また関連する名前の人物として、宮主宅媛の妹の小甂媛(おなべひめ、袁那弁郎女)から生まれた菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女)がいる。
なお、菟道稚郎子の妻子に関して史書に記載はない。
10 崇神天皇 | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊城入彦命 | 11 垂仁天皇 | 丹波道主命 | 山代之大筒木真若王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 | 12 景行天皇 | 倭姫命 | 迦邇米雷王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 13 成務天皇 | 息長宿禰王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 仲哀天皇 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16 仁徳天皇 | 菟道稚郎子 | 稚野毛二派皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 履中天皇 | 18 反正天皇 | 19 允恭天皇 | 意富富杼王 | 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 木梨軽皇子 | 20 安康天皇 | 21 雄略天皇 | 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯豊青皇女 | 24 仁賢天皇 | 23 顕宗天皇 | 22 清寧天皇 | 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) | 彦主人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手白香皇女 (継体天皇后) | 25 武烈天皇 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
先代旧事本紀
『先代旧事本紀』では、饒速日命(物部氏祖)九世孫の物部多遅摩連(もののべのたじまのむらじ)の女の山無媛連(やまなしひめのむらじ)を母とする[原 7]。また『古事記』『日本書紀』同様、山無媛連は矢田皇女と雌鳥皇女の母でもあるとしている[原 7]。
この記載と関連して、後述のように、菟道稚郎子の御名代の部との関係がうかがわれる宇治部氏や宇治氏は、物部氏一族とされている。これらが物部氏を称したのは『先代旧事本紀』の伝えるように菟道稚郎子の外戚が物部氏であったことに基づくと推察して、母を和珥氏とする『古事記』『日本書紀』の記述は誤りの可能性があるという指摘もある[8]。
- ^ 壬申年は応神天皇41年(崩御時)の2年後で、仁徳天皇元年(即位時)の前年にあたる(いずれも『日本書紀』による)。
- ^ 他の3名は、応神天皇孫の大郎子(意富富杼王)、仁徳天皇皇子の波多毘能大郎子(大日下王・大草香皇子)、継体天皇皇子の大郎子(大郎皇子)。
- ^ ただし現在、宇治神社等においては郎子・命を重ね「菟道稚郎子命」という表記も見られる。
- ^ 『日本書紀』によれば、百済から貢上された阿直岐と王仁を師に典籍を学んだとされるが、これらの史実性は確かめえない[9]。そもそも、阿直岐や王仁が実在したか否かは不明である[9]。津田左右吉は、後人の造りごととしている[10][11]。一方、阿直岐や王仁は中国系百済人という指摘がある[12]。
- ^ 宮阯は、宇治上神社(平凡社) & 1981年で宇治上神社、宇治(国史) & 1982年で宇治神社とする。
- ^ 出生以前から記す扱い、天下を譲られたという表現、「百官」「崩」という表現が指摘される (金澤 & 2007年)。
- ^ 『続日本紀』養老7年(723年)2月13日条、『続日本紀』天応元年(781年)正月15日条には、いずれも常陸国那賀郡大領として「宇治部直荒山」「宇治部全成」の名が見える。また、茨城県水戸市の大井神社は郡領の宇治部氏の奉斎と伝えている(大井神社<茨城県神社庁>)。
- ^ a b c 『古事記』応神天皇記。
- ^ 『日本書紀』応神天皇紀。
- ^ a b 『山城国風土記』逸文「宇治」(『詞林采葉抄』所収)。 - 武田祐吉編『風土記』(岩波書店、1937年、国立国会図書館デジタルコレクション)139コマ参照。
- ^ a b c 『日本後紀』弘仁6年6月27条。
- ^ a b 『類聚国史』所収『日本後紀』逸文「渤海使」(天長3年3月1日条)。 - 『国史大系 類聚国史』(経済雑誌社、1913年、国立国会図書館デジタルコレクション)663コマ参照。
- ^ a b c 『続日本後紀』承和7年5月6日条。
- ^ a b c d e f 『先代旧事本紀』「天孫本紀」。 - 『国史大系 第7巻』(経済雑誌社、1897年-1901年、国立国会図書館デジタルコレクション)152コマ参照。
- ^ a b c 『延喜式』諸陵寮 宇治墓条。 - 『延喜式 第4』(日本古典全集刊行会、昭和4年、国立国会図書館デジタルコレクション)90コマ参照。
- ^ a b 『播磨国風土記』揖保郡大家里条。 - 武田祐吉編『風土記』(岩波書店、1937年、国立国会図書館デジタルコレクション)102コマ参照。
- ^ 『古事記』応神天皇記、『日本書紀』応神天皇2年3月条。
- ^ 『日本書紀』応神天皇15年8月条、応神天皇16年3月条。
- ^ 『日本書紀』応神天皇28年9月条。
- ^ 『日本書紀』応神天皇40年1月条。
- ^ 『日本書紀』仁徳天皇即位前条。
- ^ 『万葉集』巻9 1795番。 - 09/1795(万葉集検索システム<山口大学>)参照。「柿本朝臣人麻呂之歌集出」は1796番において、1795番1首と1796番4首の「右五首」に対する左注として記載のもの。
- ^ 『万葉集』巻1 7番。 - 01/0007(万葉集検索システム<山口大学>)。
- ^ 『新撰姓氏録』河内国 神別 宇治部連条、和泉国 神別 宇遅部連条。
- ^ a b 菟道稚郎子皇子(国史) & 1982年.
- ^ 井上満郎「宇治」(『日本古代史大辞典』大和書房、2006年)。
- ^ a b c 宇治(角川) & 1982年.
- ^ 『宇治市史 1』(宇治市役所、1973年)pp. 204-205。
- ^ 宇治市(平凡社) & 1981年.
- ^ 南方熊楠「兎に関する民俗と伝説」(『十二支考』岩波文庫、1994年、青空文庫より(大正四年一月、『太陽』21巻1号))。
- ^ a b c d e f g h i j 金澤 & 2007年.
- ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』(角川書店、1963年)「宇治部」 11 宇治部連項。
- ^ a b 『阿直岐』 - コトバンク
- ^ 斎藤正二『日本的自然観の研究 変容と終焉』八坂書房〈斎藤正二著作選集4〉、2006年7月1日、129頁。ISBN 978-4896947847。
- ^ 菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社、1996年1月1日、24頁。ISBN 978-4393191057。
- ^ 馬渕和夫、出雲朝子『国語学史―日本人の言語研究の歴史』笠間書院、1999年1月1日、17頁。ISBN 978-4305002044。
- ^ 訓読・仮名の解釈は、小島憲之ほか校注・訳『日本書紀 2』(小学館、1996年)による。
- ^ 訓読・仮名の解釈は、倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫、1963年)による。
- ^ 小島憲之ほか校注・訳『萬葉集 三』(小学館、1978年)pp. 433-434。
- ^ 宇治神社(平凡社) & 1981年.
- ^ 小島憲之ほか校注・訳『萬葉集 一』(小学館、1978年)p. 68。
- ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)10コマ。
- ^ a b c d e f 宇治墓(国史) & 1982年.
- ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 403。
- ^ 宇治墓(平凡社) & 1981年.
- ^ 莵道稚郎子伝説(【2007年1月19日掲載】 京都新聞)。
- ^ 『日本後紀 中 全現代語訳』(講談社学術文庫、2006年)p. 372。
- ^ a b 喜田貞吉「火葬と大蔵 -焼屍・洗骨・散骨の風俗-」初出:「民族と歴史 第三巻第七号」1919(大正8)年6月(『先住民と差別 -喜田貞吉歴史民俗学傑作選-』河出書房新社、2008年、青空文庫より)。
- ^ 中山太郎『本朝変態葬礼史』初出:「犯罪科学 増刊号 異状風俗資料研究号」1931(昭和6)年7月(河出書房新社、2007年、青空文庫より)。
- ^ 『続日本後紀 上 全現代語訳』(講談社学術文庫、2010年)p. 348。
- ^ a b 仁藤敦史 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 13-16。
- ^ 『宇治市史 1』(宇治市役所、1973年)p. 210。
- ^ 神田秀夫による説 (金澤 & 2007年より)。
- ^ 三浦佑之『口語訳 古事記 完全版』」(文藝春秋、2002年) p. 248 注(40)。
- ^ 吉井巌による説(金澤 & 2007年より)。
- ^ 金澤和美「ウヂノワキイラツコと「古代」」の博士論文要旨 (昭和女子大、2009年)。
- ^ 菟道稚郎子(古代氏族) & 2010年.
- ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』(角川書店、1963年)「宇治部」 1 山城の宇治部項。
- ^ a b c d 宇治部氏(古代氏族) & 2010年.
- ^ 『国史大辞典』(1980年)名代・子代項の「御名代部名一覧(ほぼ確かなものに限る)」表に記載がないことに基づく。
- ^ 宇治氏(古代氏族) & 2010年.
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