綿ふき病 肯定派と否定派の対立

綿ふき病

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 15:03 UTC 版)

肯定派と否定派の対立

綿ふき病への疑問

前述の1964年(昭和39年)に4例目として国立福知山病院で27歳女性患者の対応を行い、患者本人による作為的なものとの判断を行った健田恭一は、類似するN農婦の事例に興味を抱いた。健田は田尻と何度か連絡を取り、綿ふき病について互いに書簡を送り合う間柄になった。その後京都府立医科大学小児科に勤務するようになった健田は、田尻に宛てた書面で次のような疑念を伝えた[注 19]

…自分で治療代を負担する責任のない患者が傷の治療を遅らせるために、綿や布切れなどの異物を、医師の気付かない間に傷口に押しこむことは決して珍しくない。…
…金属の管を使用すれば綿の挿入が可能では…、これを防ぐために、葛口の部分を石膏包帯(ギプス包帯)で巻いてしまうのが手っ取り早い方法なのである。…
『健田恭一より田尻保へ宛てた書状』より一部抜粋引用[99]

このように健田はN農婦に石膏包帯(ギプス)を使用するよう要求し、さらに「患者は多数の膿瘍のため衰弱しているにもかかわらず、作為的な綿の挿入防止に全力を尽くさないのは医師としての良心に反すると言わざるを得ない。」と付け加えた。それに対する田尻からの返信はしばらくなく、1か月ほど経過したころ田尻から健田へ宛て次のような趣旨の返信が届いた。

…従来の自然科学の常識で判断できないものは凡てインチキと断定してはばからない偏見はお捨てなさい。…
(返信が遅れた理由として)…あの綿塊の通る程の太い内腔の金属管を皮膚切開を行わないで健常な皮膚へ挿入可能だ等と非常識な言の出る貴兄の医学知識に見切りをつけて回答を止めた訳です。…
…患者が精神異常者と云うかも知れませんが、患者の精神状態は健常です。…、
…百聞は一見にしかず、一度、土、日とでもかけて一泊予定でこちらへおいでになりませんか、そうして私と一緒にギプスを捲いて5.6時間もすれば充分綿は出来ますから、…
…私が「良心のない医師」かどうかわかっていただけると存じます。
『田尻保より健田恭一へ宛てた書状』より一部抜粋引用[99]

これまで往復した書簡の丁寧な書きぶりと異なり、喧嘩腰に近い激しい口調の返信を受け取った健田は、1965年(昭和40年)2月19日、京都府立大学眼科の足立興一と国立福知山病院外科の中川幸英の2人(健田を含め3人とも勤務医)を誘い、計3名で京都から鉄路山陽線を西へ向かい、姫路駅姫新線津山行きの列車に乗り換え3時間ほど乗車し、ようやく田尻医院最寄りの林野駅に到着した[99]

健田らによるN農婦の観察と『自然Nature』誌への寄稿

田尻医院での1泊2日の観察経過

姫新線沿いに所在する田尻病院。列車右端の電柱の後方上部に田尻病院の表記が小さく見える。2021年3月25日撮影

健田らが来訪する連絡を受けていた田尻は風邪で体調を悪くしていたものの約束通り3名を迎え入れ、ガラス瓶や空き缶に保管された、これまでに排出された驚くべき量の綿を見せた。また、見知らぬ人たちに見られることを常々嫌がっていたN農婦へは、あらかじめ田尻が事情を話して説得しており、健田ら3名はN農婦の入院する病室へ支障なく通された[100]。この日、はじめて田尻と対面した健田は「一見して行動力のある真面目な外科医という印象を受けた」と記している[99]

この日の夕刻から翌日にかけて行われたN農婦の観察の様子は健田によって克明に記録された。この時のN農婦は右下のふくらはぎと大腿部に複数の創口があって、いずれも多かれ少なかれ綿を噴き出しているが、ふくらはぎを観察部位とした。この段階で、健田らが確認したふくらはぎの創口は大小4か所、そのうちの1つが深くて大きく、その創口の周囲の皮膚は大きく膨隆(ぼうりゅう[101])している。17時少し前に田尻によって創口内部の綿はきれいに除去された。通常であればその後、包帯を巻くのであるが、目の前で綿が出来る様子が見られるだろうという田尻の意向により、この創口は開いた状態で観察することになった。ベッドの横の狭い空間に3個の椅子が並べられ、健田、足立、中川の3名はN農婦の創口を凝視し観察をはじめた。N農婦は非常に協力的で、自ら進んで創口を見せてくれたといい、健田は4か所の創口と一部が膨隆しているふくらはぎの様子をスケッチした[27]

観察の経過を以下に記す。

17時少し前に田尻によって創口の処置(綿の排出と消毒)が行われる。

  • 2月19日 17時25分
4つある創口のうちの一番大きく深い創口から血液の混ざった滲出液(しんしゅつえき[102])が滲み出しはじめる。
  • 同日 17時40分。
次第に滲出液が増加してくる。
  • 同日 17時54分。
創口の一部に繊維素の疑塊を認める。
  • 同日 18時05分。
綿らしきものはまだ出てこない。
  • 同日 18時38分。
N農婦が心悸亢進[103]を訴える。脈拍128。田尻により強心剤抗生物質の注射が行われる。
  • 同日 18時50分。
滲出液の中に絮状膿片(綿状の膿)が浮遊してくる。
  • 同日 19時15分。
綿はまだ出てこないが、田尻から風邪気味であるため帰宅の希望があった。そのまま3人だけで観察を続けても構わないとのことであったが、これ以上創口を露出させた状態を続けるのはN農婦に負担がかかることから、3人は一旦観察を中断することにし、創口内部を消毒、ガーゼを重ねてポリエチレン布を当て、さらに大型のガーゼで覆い、その周囲をアクリル系の接着剤でとめ、その上に包帯を巻いた。こうすることで、もし仮に創口に触れようとすれば必ず接着剤を剥がさなければならず、夜中にN農婦が創口を触ったり開いた場合、接着剤の剥がされた痕跡が残るはずである[27]

こうして3人は近くの旅館へ宿泊し、翌朝の9時前に病室を訪れた[27]

  • 2月20日 09時
早速3人は昨夜に巻いた包帯を解いてみたが、接着剤を剥がした形跡はなかった。主治医の田尻は津山市の自宅で静養中であったため、代わりに中川が包帯の交換を行うと、何と膿にまみれた綿繊維の小さな塊が次々に出てきて全部で18個に達した[27]。この時、健田は再度スケッチを行った。昨夕とは少し形状が異なっており、最も大きく深い創口は明らかに大きくなっており、その他は小さく治癒傾向が強い。そして膨隆していた部位は小さくなっていて、その周囲に2つの小さな創口が見つかった。この2つの創口が昨日見逃したものなのか新たに生じたものなのか判別できなかったが、2つの小さな創口と昨日から確認中の大きな創口との間をゾンデを使って確認すると貫通していることが判明した。健田はさきほど出てきた18個の綿の塊は、昨夜確認した膨隆部の皮下に最初から挿入されていたのではないかと考えた。昨夜は貫通しているかどうか確認できなかった創口間が、ゾンデで容易に通るようになったことも、この疑いを強める一因になった。3人は引き続き昨日と同様に厳重に包帯を施し観察を続けた[22]
  • 同日 12時30分
包帯交換を行うが、全く綿は認められなかった。ハイアミン綿球(逆性石鹸)を使い創口を消毒して3回目の包帯を施す。もう綿は現れないかもしれないという雰囲気が3人の間に感じられ、見切りをつけた足立はここで離脱し1人で帰路についた。もともと、この2日間、3人は休日を利用しポケットマネーを割いて田尻医院を訪問していたのだった。それでも健田と中川の2人は狭い病室でN農婦と相対し続けた。
  • 同日 17時すぎ
風邪気味で一時帰宅して静養していた主治医の田尻が病院へ戻る。田尻によって包帯の交換が行われる。驚くことに同じ創口から再び10個ほどの綿の小さな塊が次々に出てきたのである。健田も中川もまるで手品を見ているようだったという[22]

目の前で見る見る綿が出てくる、というわけにはいかなかった。田尻の「これを皮下で綿が作られているといわずに、どうして説明するのか」という主張はもっともであった。だが、それでも考えれば考えるほど常識とかけ離れた荒唐無稽のことに思えた健田は、田尻や赤木の主張に全面的に同意することもできず、かといって承認することもできなかった[27]

健田による「綿ふき病見聞記」

ヒトのフィブリンと2つのフラグメントdの結晶構造。人体内で繊維質が作られるためには、少なくともこのような機構が必須であると健田は指摘した。
医療法人三水会田尻病院。2021年3月25日撮影。

健田は約半年後の同年7月に中央公論社が発行する月刊科学誌『自然Nature』へ、綿ふき病は人為的なもの作為によるものと主張する「綿ふき病見聞記」と題した10ページに及ぶ所説を発表した[99][注 20]

この中で健田は自身が目撃したN農婦の観察経過と、同じく自身が経験した国立福知山病院での出来事を引き合いに出しつつ、いくつかの否定的見解を述べている。例えば綿が動物の体内で作られる可能性について、赤木が仮説として挙げた「綿毛のもとになる若い細胞が、人体内に寄生して盛んに分裂増殖して綿になる」という説に対して次のように反論している。バクテリアなどの微生物糸状菌などが体内で増殖するのとわけが違い、高等植物の綿が太陽光のない皮下組織の中で、しかも成熟した繊維がわずか数時間で出来上がるというのは考えられない[57]

さらに、人体内で短時間に作られる繊維成分として血液が凝固する際にできるフィブリンを例に挙げ、その生成過程の複雑さから、人体と程遠い植物繊維である綿を仮に人体内で合成しようとするなら、それ相応の膨大な機構や構造を人体側が備えていなければならない。だがそのような機構や構造は確認されていない。その理屈から考えても人体内で植物繊維が生成される可能性はほとんど考えられないと主張した[104]

その一方で、綿が外から挿入されていると仮定するなら、説明のできない数々の疑問が一挙に解決するとして、次に挙げる3つの疑念を提示した。

  1. 第一に、N農婦の創口から排出した綿の顕微鏡写真に認められる細胞の多くが多核白血球(膿球)ばかりであるという点である。創口は毎日数回にわたり消毒やガーゼ交換を受けており、しかも敗血症予防のため多量の抗生物質が使用されている。それにもかかわらず綿は雑菌に包まれた状態で常に体内から出てくる。この現象は外部から絶えず雑菌で汚れた何かが挿入されているとしか考えられない[105]
  2. 第二に、綿の繊維に特有の年輪様のリングが認められる点についてである。綿の繊維は成長の過程で太陽の光を浴びている間は色が濃く沈着し、夜間は薄くなる性質があり、これがリング状に見えるため、結果的にリングの数が成長の日数を表すことになる。しかし数時間ほどで作られるという創口から排出される綿には20以上のリングが確認できる[105]
  3. 第三に、自身が経験した国立福知山病院での経験に基づく、患者の監視体制上の問題である。この3つ目が健田の疑念の大きなウエイトを占めている。福知山の事例では、夜間の看護師同室時と非同室時との比較による推論から、患者本人による作為的なものと断定されたことは前述した。健田は2例の患者の置かれた環境の違いについて、福知山は国立病院であって患者の隔離が比較的容易であるのに対し、実際に訪れて確認した田尻医院ではその点が極めて不完全であると指摘した。具体的には日中の田尻医院は非常に多忙で、田尻院長は夕刻になると津山の自宅へ帰宅するため、夜間は少数の勤務員のみになることが多い[105]。N農婦の夫は会社員で勤務が終わると一旦自宅へ戻り夕食を済ませてから病室を訪れ、N農婦とともに宿泊、早朝午前4時頃に帰宅し朝食を済ませて会社へ出勤するのが日課になっているという。つまり、夜間は完全なプライベートの時間ということになり、この間の観察は行われていないことになる。少なくとも誰にも気づかれないように綿を挿入する時間的余裕は存在する[105]

このように健田は作為説を主張したが、それと同時に、綿ふき病を肯定する田尻や赤木の真面目さや熱心さは否定しなかった。それは一度会えばわかることで、一時的ではあったが良心に疑問を感じたのは手紙のやり取りの行き違いによるものであった、と述べている。そして、真面目さと熱心さだけではすべての真実は解明できない、多忙な個人病院では患者の監視体制に不備がある、真実を解明するためには勤務医の充実した大病院に収容するべきだ、と訴えた[106]

「綿ふき病見聞記」に対する『自然Nature』誌への反論の寄稿

医療法人三水会田尻病院。2021年3月25日撮影。

健田の所説を見聞した田尻は、すぐには表立った反論を行わなかったが、それは反論の寄稿文中で「感情をしずめるために、冷却期間と強い自制とが必要であった」と田尻本人が記述したように、健田の所説内容に対する田尻の憤慨は大きかった。また健田による発表は各方面に多くの話題を投げかけることとなり、綿ふき病に関して不審や疑念を抱く人々が多数現れてしまい、結果的にそれ以降の研究推進に心理的なブレーキがかかり、新たに研究に加わろうとする参加者を阻害する要因となってしまった。田尻にしてみれば、これまで健田との間で数回の手紙のやり取りを行い、誤解を残さぬように、むしろ田尻の側から進んでN農婦の検診を求め、実際に健田の求めるまま実験処置に協力し、病歴についても十分説明したのに何故?という心情であった[41]

健田による『自然Nature』誌掲載から約8か月後の1966年3月、田尻は「綿ふき病見聞記」への反論と題する所説を、公平を期すため健田が発表したのと同じ中央公論社の『自然Nature』誌へ寄稿した。

この中で田尻は「健田の疑念」に対する反証をいくつか行った。まず「尿の性状と量」について健田が一言も触れていない点を不可解であると指摘した。排尿回数や排尿量の綿の排出の関係性は「#綿の排出と排尿回数の関係セクション」で前述した通りで、このことについて田尻は健田に対し手紙や口頭で説明しているにもかかわらず、その考察がまったくされていない。健田の主張するように綿の人為的挿入を疑うのなら、尿が少ない、あるいは数日間におよぶ無尿の状態も作為的なものだと言うのか、年単位におよぶデータを基にした排尿量と綿の排出量が反比例している事実も、N農婦による計画的作為だと言うのかと反論し、他所の類似例はいざ知らず、N農婦の事例は「作為的な綿の挿入」などという単純な結論で解決できる問題ではないと主張した[107]

続いて健田がスケッチを行い描いたという一夜の間に創口の数が増えたという内容に対し、長年観察してきた主治医の立場として、いまだかつて一夜の間に創口周辺の状況がこれほど変貌した事実はなく、今回の場合も最初から2日目に描いたスケッチの描写のほうが正しい。健田が訪れた一昼夜の間に創口数の増減などはない。膨隆していた部位に綿が隠されていたのではないか、という疑いについても、健田も田尻と一緒になって膨隆部位周辺にある複数の創口を清掃しており綿の取り残しは無いはずで、まして18個もの多数の綿塊が残っているはずがないと反論した[108]

このように田尻は健田の指摘した複数の疑念点に対し、主治医としての観点から逐一反論を行い、綿ふき病に対する疑念や興味本位による解釈を払拭しようと試みたが、学会内の反応は非常に冷淡であった[87]。綿ふき病に対する当時の医療関係者間の様子について、東海大学医学部教授で慶應義塾大学名誉教授の小林忠義[109]は後年、次のように述べている。

…要するに、あまり奇異な現象のため臨床家も研究者も「当事者である田尻氏や赤木氏以外は」半信半疑のうちに思考停止に陥って、そんな馬鹿なという感情論だけが残ったようである。
もしこれが単なる(綿を産出しない)原因不明の肉芽性疾患であるとしたら、他の奇病と同じように研究者は大いに意欲を燃やしたに違いない…
小林忠義『考える資料 綿ふき病 (医学の座標)』「最新醫學=The medical frontline 1977年8月号」より一部抜粋引用[87]

扱いがネガティブになり始めた綿ふき病

増田陸郎(ますだろくろう)は1938年(昭和13年)に姫路第10師団短期現役士官の教育を田尻とともに受けた医学者である[50]。増田はそれ以来、田尻とは旧知の仲であり、田尻の綿ふき病が公になって以降は一貫して田尻を弁護・擁護し続けた医学者である[17]東京大学医学部出身の増田は同期の仲間らとともに毎年末になると、恩師であり日本国内における高名[39]な病理学者である岡治道[110]を招き「岡先生を囲む会」を開催していた。綿ふき病に対する学会内の風潮がネガティブになり始めた1966年(昭和41年)、増田は田尻から借り受けた綿ふき病のスライド写真を例会の席上、恩師である岡に見てもらったが「外見的なもので、ジャーナリズム臭粉々たるもの」と酷評を受けてしまう。ただ、岡もこの時の応対は不親切であったと考え、その数日後、便せん4枚に細かい字でびっしりと丁寧に書かれた手紙を増田へ送った[86]

手紙の中で岡は綿ふき病を考える上で2つの重要な観点を増田へ説明している。まず1つ目は、なぜ大学の研究者たちが本気になって取り組まないのか、ということについてある。植物細胞と動物細胞の成り立ちを述べ、「こうした生物学の常識は研究者達に馬鹿馬鹿しくて話にならないと感じさせます」と一蹴した[86]。つづいて2つ目の観点として、新しい病気が現れた時、医学者はどのように研究を進めるのかという問題についてである。研究の順序、方向づけ等を詳述したうえで、病気と見做すにはまだ早過ぎるとし、この「綿ふき病」の調査の手順、考え方を「自然科学時代以前のもの」「心構えが非科学的である」と諭されている[39][111]

スライド写真だけを見ての批判ではあるものの、手痛い叱責と教示を受けたと感じた増田は、胸の中に燃えるような何かを感じ、岡からの手紙に対する返答をすぐに書いて返信した[112]。だが、それ以降の岡からの返信は無く[113]、増田自身も後に「恐らく救いがたい輩と思われたのであろう」と言っており、出来ることなら「もし、綿ふき病が実在するとすれば、その条件はかくかくであるという見解を提示して頂きたかった」と無念さを述べている[113]

否定派と肯定派の見解の隔たりは容易に埋まることなく、法医学者の赤石英[114]が著した新書『法医学は考える 事件の真相を求めて』では「一種の詐病であると断じてよい」とまで書かれるようになった[115][116]。このように(前述した健田らを除けば)、否定派側の多くはN農婦を直接診察することなく「そんなこと、あるわけがない」と決めつけて検討すら行わず、肯定派側は厳しい立場に追い込まれていった[87]

否定派と肯定派の主な対立軸を以下に示す。

否定派側と肯定派側の対立軸[注 21]
論点 疑念となる点 否定派側の指摘 (発表当時の所属先)
健田恭一(京都府立医科大学小児科)
赤石英(東北大学医学部教授
岡治道(元・東京大学医学部教授)
肯定派側の反論 (発表当時の所属先)
田尻保(田尻医院院長・主治医)
増田陸郎(昭和女子大学講師)
二国二郎 (大阪大学産業科学研究所所長・同大教授)
中立的 (発表当時の所属先)
小林忠義
(東海大学医学部教授・慶應義塾大学名誉教授)
作為性について 監視体制が要因となる疑念について #脱脂綿をいくつかの小さな綿塊(球形)に分け、傷口の奥深くに挿入しようと思えば、その実行は必ずしも困難でなく、誰にも気付かれずに挿入する時間的余裕は十分存在する(健田)[105] #綿の形は球状ではなく、本患者の綿は単なる脱脂綿ではない(田尻)[107]
#入院初期の6人部屋で過ごしていた期間も綿の排出は頻繁にあり、家族でも知人でもない第三者が複数名同室する状態で誰にも気付かれずに挿入することは考えにくい(田尻)[20]
#このような従来の智識の手のとどかない「事実」に対して学者は、一種の自衛手段として、trickということを考慮するのが常である(小林)[3]
#トリックならばそのカラクリを徹底的に曝露しようという努力がまったくなされなかった(小林)[87]
ギプス固定による排出停止について #ギプス包帯で固定すると綿は排出されず、通常の包帯で巻くと綿が排出されるのでは、作為的な挿入を疑われても仕方がない(赤石)[94] #綿の排出は微妙でデリケートな機能であると考えられ、その産出は膿瘍切開後に空気に触れること、新鮮な空気との接触を萌出の一条件と考える。緊張を伴うギプス装着こそ人為的なもので、真の意味の自然観察とは言えない(増田)[39] --
寡尿・無尿について -- #作為によるものと主張する側は、寡尿と綿排出量の反比例現象について全く言及がない。綿の人為的挿入を疑うのであれば、11日間に及ぶ無尿期間も患者本人の計画的作為とみなし得るのか(田尻)[107] --
金属管を使用し綿を押し込んだ疑念 #太い金属管を皮膚に刺して、外から綿を押し込む可能性。綿が皮下深くに挿入されたとすれば、すぐに炎症反応は起こさないが数日で膿瘍、となり腫れた部分を切開、あるいは自然に潰れることにより綿が現れる。つまり綿は毎日詰め込む必要がない(健田)[117] #排出する綿塊は細長い2センチから5センチの紡錘形で、これを形状を崩さずに皮下へ押し込むには、かなり太い金属管が必要で、皮膚切開を行わなければ困難である。しかし入院以来、そのような皮膚切開痕や金属管刺入跡、それらを縫合した痕跡などどこにもない(田尻)[40]
#高熱と衰弱により生死の境をさまよった際にも綿の排出はあった。もちろん歩行困難で傷だらけで激しい疼痛に悩む手で、これらのトリック紛いの操作を、綿の形状を崩さず挿入することは技術上不可能である(田尻)[20]
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排出された綿について 成熟した陸地綿と同一であることへの疑念 出て来たものは恐らく本当の木綿繊維でしょう。それ故に疑われても仕方がないのです。植物細胞の細胞膜は人間の細胞に存在しない(岡)[86] #外部からの迷入、馴化、増殖、眼粘膜からの混入など、あらゆる可能性を検討しているが、現段階では原因を追究する材料が不足している(増田)[112] --
着色綿への疑問 #明石病院(前述した類似例の5例目)で採取された綿を譲り受け顕微鏡で検査すると、赤・青・緑・黄色などに着色した原繊維があり、さらに詳細に調べると鱗状に並んだ毛小皮が青色に染色されていた。最早、人体内から自然発生したとは到底考えられない(赤石)[118] #サンプルとなった綿が病室内でどのように採取され、どのように処理保存されたものなのかが不明である。患部に浮遊塵が落下する可能性もある。検査者自身が厳密な環境下で直接採取するべき(増田)[116] --
排出綿のリング #体内で産出されるのにもかかわらず、自然綿特有の太陽光由来の年輪様リングが存在する(健田)[105] -- --
綿と膿について #行き届いた手当てを受け、頻繁に創口を消毒しているのも関わらず、排出される綿に多量の膿があるのは、外部より常に雑菌で汚れたものが混入されているからではないのか(健田)[105] #創口の処置は一時洗滌(せんてき)[119]を試みたが、全く効果がなく、健田氏も見られととおり、創口の周囲をハイアミン綿球で清拭するだけで、肉芽の中までは触れない。ハイアミンにそれほど強力な殺菌力はなく、いくら抗生物質を使用しても、異物性炎症にはほとんど無効で、排出されるわたが常に雑菌に汚染され、膿汁にまみれているのは当然のこと(田尻)[40] --
その他 工業化の可能性について #この現象を解明すれば、諸外国から原綿を輸入する必要がなくなり、日本の天然繊維の問題は解決するなどと真剣に論じている医師がいるようだが、自然科学者はもう少し冷静であってもらいたいものです(赤石)[120] #可能性を論じているだけであって、市井の片隅で生活している学徒のささやかな夢まで壊して欲しくないものである(増田)[116] --
心理的要因について #詐病説に対して、患者が何を好き好んでこんなことをするのだ、という反論があるが、精神病者でなくても皮膚に不可解な傷をつけたり針を刺す事例は珍しくない。心理的原因の考察は第二の段階で専門医が行うべき(健田)[117] #そんなばかなことがあるものかと考える前に、ぜひ一度患者を見ていただきたい。そしてそれが作為であればそれを見破り、真実であると考えられたらご協力願いたい。対象が人間の病気である限り、医学者が先頭に立ってくれなければ早急の解決は期待できない(二国)[121] #患者が仕組んだトリックだとして患者に何の利益があるのか、いやいや嘗て多くの物理学者の目を眩ませた透視術のようなものもあったではないか。というように出発点で堂々巡りになってしまう点が、この病気の問題点ではないのか。(小林)[3]
詐病視するのは人権侵害ではないか #いやしくも「患者に疑いを持つのは人権侵害だ」という意見があるが、それならば世の中に数多ある詐病の問題はどうなるのか。自殺なり他殺を家族や犯人が自己の利益になるよう偽装したものを、そのまま信じるなら法医学者など不要ではないか(赤石)[120] #そもそも患者を直接診ないで「詐病」と診断することは医師法違反であり、名誉棄損ともなり得る(増田) [116]
#脱脂綿を丸めて外部から挿入したとしてしまうのは、早急安易な解決方法であり、本質からの逃避であり、加えて発病以来10年余り高熱と疼痛と煩わしい綿と膿に悩み続けている本患者に対して、ヒューマニズムに反した推断である(田尻)[122]
#ありあわせの既存の知識をつなぎ合わせただけでは、却って混乱させる元になる。事実だけを提示しておいたほうが第三者を思考停止に陥らせなかったかも知れない(小林)[87]

このように否定派側の学者はもちろん、これらの報告を見聞きした多くの医療関係者は、口には出さずとも、原因究明に入る手前の次元に拘泥してしまい、探求的な思考を停止してしまった[87]


注釈

  1. ^ 資料によっては田尻診療所と表記されたものもある。
  2. ^ 現在地である美作市明見から東方向へ約3キロほどの場所。
  3. ^ 農婦の本名は「野○文○」ママ。本名が記載された2つの文献記載中の名字と名前、いずれも2文字目が伏字である[15][16]。本記事では実名のイニシャル表記とした。
  4. ^ 渉猟した資料等からは子供の性別、人数は不明である。
  5. ^ 「しこり」のこと。
  6. ^ この開業医の具体名は渉猟した資料中には無く詳細は不明である。
  7. ^ 相部屋から個室への移動時期は不明。
  8. ^ 田尻医院でのデータのみ。1966年(昭和41年)の阪大微研附属病院と岡山大学附属病院入院時のデータは含まない。
  9. ^ 出典に提示した『田尻/1966年』と『増田/1988年』とでは膿瘍切開回数に齟齬がある。本記事ではより新しい『増田/1988年』(主治医である田尻本人から直接増田へ提供されたデータでもある。)に記載されたデータを使用する。なお、排尿回数については『田尻/1966年』以外のデータが存在しないため、『田尻/1966年』記載のデータを使用した。
  10. ^ 田尻医院でのデータのみ。1966年(昭和41年)の阪大微研附属病院と岡山大学附属病院入院時のデータは含まない。
  11. ^ 本図では割愛したが、N農婦の最後の膿瘍切開は、約1年後の1966年5月14日に田尻医師によって行われた左下腿部の切開である[42]
  12. ^ 出典での赤木の記述では腎部(じんぶ)。
  13. ^ 糞便中には綿毛は見られない[48]
  14. ^ 長年にわたって本症例を調査してきた増田陸郎[50]1988年(昭和63年)9月に発表した『日本医事新報』第3359号において、本症例について学術論文らしい体裁を整えているのは、『日本医事新報』第1869号に田尻保が記載した「多量の綿を産出する奇異な慢性肉芽性炎例について」のみであったと指摘している[51]
  15. ^ 倉敷市に所在する現、岡山大学資源植物科学研究所[77]
  16. ^ 出典の記述ではプラズマ(protoplasm)と表現されているが、誤解が生じるのでここでは原形質と表記する。
  17. ^ 日本病理学会誌への当該記載の所属先は「岡山大学医学部砂田外科教室(砂田輝武教授)」である旨が記載されている[83]
  18. ^ 出典『小林/1977年』によれば松岡の所属は横浜医科大学とあるが、新制大学移行に伴う再編により本発表と前後する1961年(昭和36年)に横浜市立大学に合流(現同大学医学部医学科)となったため、本記事では横浜市立大学と表記する。
  19. ^ 綿ふき病を否定する側が著した文献資料の中で、N農婦と直接相対し創口の観察等を行った上で書かれた文献資料は、この健田恭一による『綿ふき病見聞記 いわゆる"綿ふき病"への疑問』および同人による『日本医事新報』の同年4月17日号(№2138)、同年8月28日号(№2157)のみである。これ以外の否定的文献資料の著者はN農婦を直接診察していない。
  20. ^ 健田による綿ふき病を否定する所説は、同年の『日本医事新報』の同年4月17日号(№2138)、同年8月28日号(№2157)にも記載されているが『自然Nature』での記載内容と重なるため本記事では割愛した。
  21. ^ 各コメントの末尾に示した出典の記載内容から、一部改変のうえ引用した。
  22. ^ 大阪大学微生物病研究所附属病院は大阪大学微生物病研究所とともに、N農婦が検査入院した翌年の1967年(昭和42年)に吹田市の大阪大学吹田キャンパスへ移転。その後1993年平成5年)に大阪大学医学部附属病院と統合・合併している[127]
  23. ^ 『医中誌』とは特定非営利活動法人 医学中央雑誌刊行会が運営する、日本国内の医学関連分野の文献を収集した有料のオンラインデータベース。基本的に医療関係者が症例検索などで使用する。医学中央雑誌刊行会 2021年4月1日閲覧。
  24. ^ 國松の原著ではモルジェロンズ病表記ゆれによる)。
  25. ^ 二国も当初は「医学界の複雑さにおそれをなしてこの問題に関係する気持ちは全くなかったのであるママ」と述べている[145]
  26. ^ 日本のかつての地方行政区分であった令制国のひとつ美作国のこと。今日の岡山県北東部。
  27. ^ N農婦と田尻医師の没年は渉猟した範囲では確認できないが、N農婦は1914年大正3年)2月生まれなので存命ならば100歳を超えている。田尻医師は2009年平成21年)8月発行の岡山医学会誌の病院紹介「田尻病院」の中で故人[12]と表記されている。

出典

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