宮本武蔵
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宮本 武蔵(みやもと むさし)は、江戸時代初期の剣術家、大名家に仕えた兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名である。
注釈
- ^ ただし60余戦全ての詳細な経緯・戦績は記録に残っておらず2戦の簡易な記載に留まる。
- ^ 新免氏には藤原実孝を祖とする説(『徳大寺家系図』)、赤松氏家臣の衣笠氏、平田氏の支流の説(『中興系図』)もある。
- ^ 弁助、弁之助とも。
- ^ 弘化3年(1846年)以前に養子伊織の子孫作成。
- ^ 実父説と養父説がある。
- ^ 『東作誌』等で、武蔵の父親を「平田武仁」とする説があるが武蔵の誕生(天正8年(1580年))以前に死んでいる。また、それらの史料では、他の武蔵関係の記述も他史料との整合性が全く無く、武蔵に関しての史料価値はほとんど否定されている。
- ^ 如水の息子の長政に従い関ヶ原の本戦場で黒田勢の一員として戦っていたとする説もある。
- ^ 新免氏が宇喜多秀家配下であったことから、それに従って西軍に参加したとの説があった。
- ^ 黒田家臣・立花峯均執筆の『兵法大祖武州玄信公伝来』(『丹治峯均筆記』『武州伝来記』とも呼ばれる)では、黒田如水の軍に属して豊後国の石垣原(現在の大分県別府市)で西軍の大友義統軍との合戦に出陣し、出陣前の逸話や冨来城攻めでの奮戦振りの物語が語られている。
- ^ a b 天正12年(1584年)に武蔵が生まれたと考えると慶長9年(1604年)のことになる。
- ^ a b 岩流には俗に佐々木小次郎の呼称があるが後年の芝居で名づけられ定着したもので根拠がない。また巖流は岩流の異字表現で、史料によっては他に岸流・岸柳・岩龍という呼称がある。
- ^ 従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、根拠のない俗説である。
- ^ この試合は『海上物語』では明石で、『二天記』では江戸で行われたと伝えられる。ただし『二天記』の原史料である『武公伝』にはこの内容は記載されていない。
- ^ 伊織は寛永8年(1631年)20歳で小笠原家の家老となっている。
- ^ 当時は日本橋人形町近辺、元吉原とも。
- ^ 新町の置屋にいる遊女・雲井と馴染みで島原の乱の直前に雲居に指物の袋を依頼しこれを受け取り騎馬で出陣したとある。
- ^ 一般には家老以上の身分でなければ許可されなかった。
- ^ 染物業者となった吉岡一族は商業的に成功し、現代にもその名を継ぐ染色業者が残る。直綱が広めたと伝えられる憲法染は江戸時代を通じて著名となり「憲法染の掻取」が公家の正装としても扱われるようになった。
- ^ a b c 正確には吉岡亦七郎のほか、武装した門人数百名も加わっていたことになっている。
- ^ 宝暦元年(1751年)日出藩家老・菅沼政常が記録した平姓杉原氏御系図附言の木下延俊の項にも「剣術は宮本無二斎の流派を伝たまふ」と記載されている。
- ^ 細川家家老だった沼田延元の記録を編集。
- ^ 現物は巖流島の決闘の後に紛失した。
- ^ 実名は渡辺茂。通称は久三郎。天正10年(1582年)摂津国(現在の大阪府北中部等)生まれ。唐・天竺を巡礼したと称し、宝永8年(1711年)に130歳で死去したという。
- ^ 武蔵の円明流の弟子・竹村与右衛門との姓を混同したという説と、一時、竹村姓を名乗り、与右衛門は養子であったという説がある。
- ^ 沐浴は宗教的行為である。また、「入浴」項にあるとおり、庶民が風呂に入るようになるのは江戸時代になってからである。
- ^ 敵役である荒神(加藤雅也)が宮本武蔵を名乗る。
出典
- ^ a b いま鑑賞できる宮本武蔵 島田美術館(2021年4月21日閲覧)
- ^ a b 『読売新聞』よみほっと(日曜別刷り)2021年4月18日1面【ニッポン絵ものがたり】「宮本武蔵肖像」剣聖の脱力とゆる体操
- ^ 慶長7年・同9年『黒田藩分限帖』
- ^ a b c d e 内田吐夢監督・中村錦之助(萬屋錦之介)主演の全五部作。
- ^ a b c d 同枠では1980年に同じ原作の中村錦之助(萬屋錦之介)主演映画五部作品も放送している。
- ^ 歌舞伎座テレビ映画部・関西テレビ製作
- ^ 『日本放送協会編『放送の五十年 昭和とともに』』日本放送出版協会、1977、pp.99-100「暗転する戦局」、p.330「年表 昭和18年(1943)」頁。
宮本武蔵 (小説)
(宮本武蔵 から転送)
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『宮本武蔵』(みやもとむさし)は、吉川英治の新聞小説で、朝日新聞に連載されたこの作品は1935年の8月23日から、4年後の1939年7月11日まで続いた。二天一流の開祖でもある剣豪・宮本武蔵の成長を描き、剣禅一如を目指す求道者・宮本武蔵を描いたこの作品は、日中戦争から太平洋戦争へと向かう戦時下で人気を得た。
- ^ 『慶長7年・同9年『黒田藩分限帖』
- ^ (『講談社文庫第1巻』 p.5、ISBN 9784061965140)。
- ^ 王貞治は、通算本塁打の「世界記録」を達成してからの境地について、「(武蔵にも)"たけぞう"という名の時代があった。長じて"武蔵"になったように、道を極めたい一心でした」と述べている(『巨人軍5000勝の記憶』 p.58)。
- ^ 海音寺潮五郎『史談と史論』講談社文庫
- ^ 「占領軍の検閲の校正刷りによれば、絶対に占領軍がDELETIONを命じそうなところは殆ど「改訂補筆」されている」 松浦総三『松浦総三の仕事(第3巻)』大月書店
- ^ 桑原武夫著『「宮本武蔵」と日本人』講談社の第5章参照。
- ^ a b 日本放送協会編『放送の五十年 昭和とともに』 日本放送出版協会、1977年 pp.99-100「暗転する戦局」、p.330「年表 昭和18年(1943)」
- ^ 坂本朝一『放送よもやま話』文春文庫、1985年 pp.23-25「正月の放送の思い出」
- ^ 番組エピソード 歴史&時代小説をドラマ化!『連続時代劇特集』 -NHKアーカイブス
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