宮本武蔵 人物

宮本武蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 14:07 UTC 版)

人物

民間伝承

武蔵にゆかりのある土地、武道の場などで語られる事があるが、明確な根拠や史実を記したとされる史料に基づくものではない。

  • 人並み外れた剛力の持ち主で片手で刀剣を使いこなすことができた。これが後に二刀流の技術を生み出すに至った。
  • 祭りで太鼓が二本の(ばち)を用いて叩かれているのを見て、これを剣術に用いるという天啓を得、二刀流を発案した。
  • 自身の剣術が極致に達していた頃、修練のために真剣の代わりに竹刀を振ってみると、一度振っただけで竹刀が壊れてしまった。そのため木剣を使い始めたという。
  • 立会いを繰り返すうちに次第に木剣を使用するようになり、他の武芸者と勝負しなくなる29歳直前の頃には、もっぱら巖流島の闘いで用いた櫂の木刀を自分で復元し[注釈 22]剣術に用いていた。
  • 二本差しや木刀を用いるようになったのは、日本刀の刀身が構造上壊れやすくなっているので、勝負の最中に刀が折れるのを嫌ったため[注釈 23]
  • 吉岡家の断絶は、武蔵が当時における、武者修行の礼儀を無視した形で勝負を挑んだため、さながら小規模な合戦にまで勝負の規模が拡大し、吉岡がそれに敗れてしまったためである。

芸術家としての武蔵

枯木鳴鵙図

武蔵没後21年後の寛文6年(1666年)に書かれた『海上物語』に武蔵が絵を描く話が既に記されている。また『武公伝』には、「武公平居閑静して(中略)連歌或は書画小細工等を仕て日月を過了す、故に武公作の鞍楊弓木刀連歌書画数多あり」と書かれている。

現在残る作品の大部分は晩年の作と考えられ、熊本での作品は、細川家家老で八代城主であった松井家や晩年の武蔵の世話をした寺尾求馬助信行の寺尾家を中心に残されたものが所有者を変えながら現在まで伝えられている。

水墨画については「二天」の号を用いたものが多い。筆致、画風や画印、署名等で真贋に対する研究もなされているが明確な結論は出されていない。

主要な画として、『鵜図』『正面達磨図』『面壁達磨図』『捫腹布袋図』『芦雁図』(以上は「永青文庫蔵)、『芦葉達磨図』『野馬図』(以上は松井文庫蔵)、『枯木鳴鵙図』(和泉市久保惣記念美術館蔵)、『周茂叔図』『遊鴨図』『布袋図』(以上は岡山県立美術館蔵)、『布袋観闘鶏図』(福岡市美術館蔵)などがある。

書としては、『長岡興長宛書状』(八代市立博物館蔵)、『有馬直純宛書状』(吉川英治記念館蔵)、『独行道』(熊本県立美術館蔵)、『戦気』(松井文庫蔵)が真作と認められている。

伝来が確かな武蔵作の工芸品としては、黒塗の「鞍」、舟島での戦いに用いた木刀を模したとされる「木刀」一振。二天一流稽古用の大小一組の「木刀」が松井家に残されている。また、武蔵作とされる海鼠透(つば)が島田美術館等にいくつか残されているが、武蔵の佩刀「伯耆安綱」に付けられていたとされる、寺尾家に伝来していた素銅製の「海鼠透鐔」(個人蔵)が熊本県文化財に指定されている。

芦雁図

その他

身の丈

兵法大祖武州玄信公伝来』は、武蔵の身の丈を6(換算:曲尺で約182センチメートル相当)であったと記している。当時の日本人の平均身長からしてみれば、稀に見る長身であったらしい。

風体など

武将渡辺幸庵[注釈 24]の対話集『渡辺幸庵対話』の宝永6年9月10日グレゴリオ暦換算:1709年10月12日)の対話によると、武蔵とは以下のような者であったという。

「竹村武藏[注釈 25]といふ者あり。自己に劔術けんじゆつ練磨れんまして名人めいじんなり但馬たじまくらへさふらひにて云ハいふは井目せいもくも武藏つよし。」「しかるに第一のきずあり。洗足せんそく行水ぎやうずいを嫌ひて、一生いつしやう沐浴もくよくする事なし。外へはたしにて出、よこれさふらへはこれのごおくなり夫故それゆゑ衣類よこれまをすゆゑその色目いろめを隠すため天鵡織てんむおり兩面りやうめんの衣服を着、夫故それゆゑ歴々にうとして不近付ちかづけず。」 — 『渡辺幸庵対話』宝永六年九月十日条
武蔵像と一乗寺下り松の古木/八大神社境内(京都市左京区一乗寺松原町)に所在。
巌流島に設置されている宮本武蔵・佐々木小次郎の銅像。右が武蔵像、左が小次郎像。

これによれば、囲碁の腕前は手合割を物ともしない相当なものであったらしい。体には一つの大きな疵があって印象に残った様子である。足を洗うことや行水は嫌いで、ましてや沐浴をすることなどあり得ない。裸足で外を出歩き、体などの汚れは布や何かで拭って済ませている。汚れを隠すために天鵡織で両面仕立ての衣服を着ているが、隠しおおせるわけもなく、それ故に偉い方々とお近付きになれない、という。武蔵が生涯風呂に入らなかったといわれているのは、この史料に基づいた話である[注釈 26]。もっとも、『渡辺幸庵対話』の記述には他の多くの史料によって知られている当時の世相と相容れない矛盾点も多く、係る武蔵の人となりに関しても、実際に幸庵が語ったものかどうか、疑問視する研究者もある(※詳細は「渡辺幸庵」参照のこと)。

試合の真偽

二天記』は、大和国(現在の奈良県)人で宝蔵院流槍術の使い手である奥蔵院日栄、伊賀国(現在の三重県西部)人で鎖鎌の使い手である宍戸某、江戸の人で柳生新陰流の大瀬戸隼人と辻風左馬助らとの試合を記しているが、『二天記』の原史料である『武公伝』に記載が無く、また、他にそれを裏付ける史料が無いことから、史実ではないと考えられている。

木刀

細川家家老で後に八代城主になった松井寄之の依頼により、巌流島の試合で使用した木刀を模したと伝えられる武蔵自作の木刀が現在も残っている。1984年(昭和59年)には、熊本県NHK総合テレビ時代劇宮本武蔵』の放送を記念してこの木刀の複製を販売した。

遺産と継続性

(宮本 武蔵)。 兵法二天一流 (グルエーズ)。

剣さばきの秘訣は、数人の優遇されていた弟子(石川主税、青木城右衛門、竹村与右衛門、松井宗里、古橋惣左衛門)に限定された特権ではなかった。彼らは全員が優秀な剣士であった。 五輪の書 と 兵法三十五箇条 は、寺尾兄弟への贈答として贈与されたが、実際に各弟子に伝えられたのは、生と死という不可解な問題を、断固として明らかにしたいと言う自身の決意だった。 そのような精神的な遺産を背景に、巨匠の教えによって、独自の規則、証明書、卒業証書を備えた実際の学校が生まれることはできなかった。武蔵は自分の技術を教えたり助言を与えることができたが、最終的に自分の力を測り、自分の道を評価し、そのために自分自身を適応させてゆくのは生徒自身の責任だった。よって、武蔵流は今日でも教えられているが、実際の内容は、二天一流の創設者と同時に姿を消したのであった。それ以外にどのような可能性があっただろう?柳生利厳は、尾張で教えたとき、こう宣言した: 「武蔵の剣さばきは、武蔵のみが可能な技で、他の誰も、武蔵同様に優れた剣使いをすることは不可能なのだ。」

激変

武蔵の時代の日本では、武装面で激変があった。16世紀後半、マスケット銃がポルトガル人により日本にもたらされて、戦場での決定的な武器になった。しかし、平和な国、日本で、侍たちは彼らの気に入らない鉄砲に背を向け、伝統的な剣による闘いの伝統が踏襲された。 剣術の学校は繁栄した。しかし、実際の戦闘で剣が使われる可能性が減少するにつれて、武術は徐々に 武道となり、その闘いにおける有効性よりも、内面の自己制御の熟達と性格の形成のための剣術という性質が強調されていった。剣の神秘の全てが開発されて、闘いのためと言うよりも、哲学分野に帰属するようになった。


注釈

  1. ^ ただし60余戦全ての詳細な経緯・戦績は記録に残っておらず2戦の簡易な記載に留まる。
  2. ^ 新免氏には藤原実孝を祖とする説(『徳大寺家系図』)、赤松氏家臣の衣笠氏、平田氏の支流の説(『中興系図』)もある。
  3. ^ 弁助、弁之助とも。
  4. ^ 弘化3年(1846年)以前に養子伊織の子孫作成。
  5. ^ 実父説と養父説がある。
  6. ^ 『東作誌』等で、武蔵の父親を「平田武仁」とする説があるが武蔵の誕生(天正8年(1580年))以前に死んでいる。また、それらの史料では、他の武蔵関係の記述も他史料との整合性が全く無く、武蔵に関しての史料価値はほとんど否定されている。
  7. ^ 如水の息子の長政に従い関ヶ原の本戦場で黒田勢の一員として戦っていたとする説もある。
  8. ^ 新免氏が宇喜多秀家配下であったことから、それに従って西軍に参加したとの説があった。
  9. ^ 黒田家臣・立花峯均執筆の『兵法大祖武州玄信公伝来』(『丹治峯均筆記』『武州伝来記』とも呼ばれる)では、黒田如水の軍に属して豊後国の石垣原(現在の大分県別府市)で西軍の大友義統軍との合戦に出陣し、出陣前の逸話や冨来城攻めでの奮戦振りの物語が語られている。
  10. ^ a b 天正12年(1584年)に武蔵が生まれたと考えると慶長9年(1604年)のことになる。
  11. ^ a b 岩流には俗に佐々木小次郎の呼称があるが後年の芝居で名づけられ定着したもので根拠がない。また巖流は岩流の異字表現で、史料によっては他に岸流・岸柳・岩龍という呼称がある。
  12. ^ 従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、根拠のない俗説である。
  13. ^ この試合は『海上物語』では明石で、『二天記』では江戸で行われたと伝えられる。ただし『二天記』の原史料である『武公伝』にはこの内容は記載されていない。
  14. ^ 伊織は寛永8年(1631年)20歳で小笠原家の家老となっている。
  15. ^ 当時は日本橋人形町近辺、元吉原とも。
  16. ^ 新町の置屋にいる遊女・雲井と馴染みで島原の乱の直前に雲居に指物の袋を依頼しこれを受け取り騎馬で出陣したとある。
  17. ^ 一般には家老以上の身分でなければ許可されなかった。
  18. ^ 染物業者となった吉岡一族は商業的に成功し、現代にもその名を継ぐ染色業者が残る。直綱が広めたと伝えられる憲法染は江戸時代を通じて著名となり「憲法染の掻取」が公家の正装としても扱われるようになった。
  19. ^ a b c 正確には吉岡亦七郎のほか、武装した門人数百名も加わっていたことになっている。
  20. ^ 宝暦元年(1751年)日出藩家老・菅沼政常が記録した平姓杉原氏御系図附言の木下延俊の項にも「剣術は宮本無二斎の流派を伝たまふ」と記載されている。
  21. ^ 細川家家老だった沼田延元の記録を編集。
  22. ^ 現物は巖流島の決闘の後に紛失した。
  23. ^ 二天一流で二刀を使う理由について、武蔵は『五輪書』の地の巻で、「太刀を片手で振ることを覚えさせるため」と記している。
  24. ^ 実名は渡辺茂。通称は久三郎。天正10年(1582年摂津国(現在の大阪府北中部等)生まれ。天竺巡礼したと称し、宝永8年(1711年)に130歳で死去したという。
  25. ^ 武蔵の円明流の弟子・竹村与右衛門との姓を混同したという説と、一時、竹村姓を名乗り、与右衛門は養子であったという説がある。
  26. ^ 沐浴は宗教的行為である。また、「入浴」項にあるとおり、庶民が風呂に入るようになるのは江戸時代になってからである。
  27. ^ 敵役である荒神(加藤雅也)が宮本武蔵を名乗る。

出典

  1. ^ a b いま鑑賞できる宮本武蔵 島田美術館(2021年4月21日閲覧)
  2. ^ a b 読売新聞』よみほっと(日曜別刷り)2021年4月18日1面【ニッポン絵ものがたり】「宮本武蔵肖像」剣聖の脱力とゆる体操
  3. ^ https://www.memorial-heiho-niten-ichi-ryu.com”. 平法新天一流記念館 - 平和と愛の記念碑。閲覧。
  4. ^ 慶長7年・同9年『黒田藩分限帖』
  5. ^ a b c d e 内田吐夢監督・中村錦之助(萬屋錦之介)主演の全五部作。
  6. ^ a b c d 同枠では1980年に同じ原作の中村錦之助(萬屋錦之介)主演映画五部作品も放送している。
  7. ^ 歌舞伎座テレビ映画部・関西テレビ製作






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