アブハジア 歴史

アブハジア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/14 00:49 UTC 版)

歴史

古代からロシアによる征服まで

カフカース西部に人が最初に住み着いたのは、紀元前4000年から紀元前3000年ごろのことである。紀元前9世紀から紀元前6世紀にかけて、現在のアブハジアは古代コルヒダ王国(古代コルキス王国、グルジア語კოლხეთი、ラテン語転写:Colchis)の一部であった。紀元前63年にはエグリシ王国英語版に組み込まれる。アブハジアの首都スフミは、この時代にギリシア人によって黒海沿岸に建設された交易港の一つディオスクリア (Διοσκουριάς) を起源としている。

エグリシ王国は1世紀ローマ帝国によって征服され、4世紀までその支配を受けた。その後は独立を回復したが、東ローマ帝国の影響下に置かれ続けた。6世紀半ばにはアブハズ人たちはキリスト教を奉じるようになった。7世紀から9世紀まで、アブハジアは、東ローマ帝国に服属しながらも、半ば独立した地位を保った。13世紀には、グルジア系のイメレティ王国英語版1260年1810年)に編入される。

16世紀、アブハジアを含む西グルジアはオスマン帝国に征服され、アブハズ人たちは一部イスラムに改宗した。18世紀半ば、オスマン勢力は駆逐され、グルジア系の独立国家が建設された。

ロシアの支配・ソビエト連邦

ロシア帝国のカフカースへの進出は、住民の激しい抵抗に遭った。1801年から1864年にかけて、グルジアの国土は段階的にロシアに編入されていった。1829年から1842年の間に、アブハジアもロシアの保護下に置かれるようになり、1864年には主権が剥奪された。その過程で、ロシア帝国によるムスリムの迫害を恐れ、多くのアブハズ人がオスマン帝国に逃れた。アブハジア側の主張では、このときに残された土地に多くのアルメニア人やグルジア人、ロシア人が住み着いたことで、アブハズ人は少数派になった。ブリタニカ百科事典によれば、1911年のスフミの人口43,000人のうち、3分の2はグルジア系メグレル人、3分の1がアブハズ人である。

ロシア革命後、アブハジアはボリシェヴィキ政権から文化的・政治的な自治を与えられた。1921年3月31日には現在の「アブハジア」を統治するアブハジア社会主義ソビエト共和国が設置された。だが、1931年2月19日にはスターリンによってグルジア・ソビエト社会主義共和国(グルジアSSR)に属する自治共和国アブハズ自治ソビエト社会主義共和国)とされた。実際には自治はほとんど機能せず、グルジア化が強く進められた。アブハズ語が禁止されるとともにグルジア語公用語として強制され、多くのアブハズ人が粛清で命を落とした。グルジア人のアブハジアへの移住も奨励された。スターリンの死後になって、アブハジアの自治は回復された。

アブハジア紛争

1980年代末期にソビエト連邦の結束が崩れ始めると、グルジアの独立をめぐってアブハズ人とグルジア人の間に緊張が生まれた。すでに1989年には、独立グルジアへのアブハジアの統合が、グルジアの民族主義者たちによって声高に主張されていた。多くのアブハズ人たちは、新たな「グルジア化」につながるとの考えからこれに反対し、その代わりに、独立の共和国としてのアブハジアの建設を考え始めた。両者の論争は熱を帯び、1989年7月16日には、大学の学生の受け入れをめぐって、スフミで暴動が起こった。このとき、16人が死亡し、137人が負傷したと言われている。暴動は数日間続いた後、ソビエト軍によって鎮圧された。   

1991年4月9日、グルジアが独立を宣言する。初代大統領ズヴィアド・ガムサフルディアは、1991年12月から1992年1月にかけての軍事クーデターで追放された。その後、1992年3月、ソビエト連邦の外務大臣であったエドゥアルド・シェワルナゼが最高権力者に就任する。

1992年2月21日、グルジアの軍事評議会は、ソビエト連邦期の憲法を廃止し、1921年に制定されたグルジア民主共和国の憲法を復活させることを宣言。これを、アブハズ人たちは、自治権の廃止ととらえた。これに応えて、1992年7月23日にはアブハジア自治政府が独立を宣言したが、国際的な認知は得られなかった。グルジア政府は3,000人の部隊をアブハジアに送り、スフミにおいて、アブハジアの分離主義武装グループとの間で激しい戦闘が起こった。1週間の戦闘で双方に多くの犠牲者を出した末、グルジア政府はアブハジア自治政府を廃した。

アブハジア側の敗北の後、北コーカサス地方の諸共和国からやってきた義勇軍がアブハジアの分離主義グループに合流し、再びグルジア政府軍との交戦が始まった。1992年9月の反乱軍は攻勢によって、グルジア軍は劣勢に立った。シェワルナゼ政権は、アブハジアの分離主義者に対して密かに軍事的な支援を行っているとしてロシアを非難した。1992年から1993年にかけて、過激派指導者シャミル・バサエフはアブハジア紛争に武装勢力「チェチェン大隊」を率いて介入し、義勇軍を称してアブハジア独立を阻止する立場のグルジア軍と戦った。裏には、ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の工作があったとされ、バサエフ麾下の武装勢力は、GRUによって直接訓練を受け、アブハジアに介入するように指示されたという。1992年末には、反乱軍がスフミ以西のアブハジアの大部分を掌握した。「民族浄化」が双方に起こり、この段階で約3,000人が殺されたとされる。

1993年7月、アブハジア軍は、スフミを管理していたグルジア軍に対する攻撃に出た。町は包囲され、シェワルナゼも町中に幽閉される事態となった。7月末に停戦合意が成ったが、9月半ばにアブハジア軍が攻撃を再開したことで停戦は破られた。10日間の激しい戦闘を経て、1993年9月27日にスフミはアブハジア軍の手に落ちた。これによってアブハジア自治共和国政府はグルジア首都のトビリシに亡命。新たに大統領に指名されて間もないシェワルナゼはこのとき、何事が起ころうともスフミに留まると宣言していたが、滞在していたホテルが狙撃手によって攻撃され、ロシア海軍に助けられてスフミから脱出した。1993年10月、国連安保理はアブハジアの軍事行動、民族浄化を非難。

折りしもサメグレロ地方で高まっていたズヴィアド・ガムサフルディア前大統領の支持者たちの騒乱に乗じて、アブハジア軍はアブハジアの大部分を手中に収めた。一方のグルジア軍はコドリ渓谷と呼ばれるアブハジアの一部地域まで勢力を削られた。ここに至るまでに、ほぼすべての非アブハズ人の住民が陸路や海路で脱出し、その過程で約1万人が命を落としたと考えられている。25万人から30万人ほどの難民が発生した。

1994年5月15日停戦合意が成立し、国際連合平和維持軍が停戦の監視に当たっている。以後、戦闘は起こっていないが、その代わり、繰り返し行われている交渉による事態の大きな進展もない。グルジアの難民問題は深刻である。

アブハジア政府はグルジア政府の承認がないまま、1994年11月4日に新しい憲法を採択し、主権を宣言した。また、1996年11月23日には選挙が行われ、2004年10月にも再び大統領選挙が行われた。

アブハジア自治共和国政府は1993年にトビリシに亡命していたが、2006年7月にグルジア軍が実効支配するコドリ渓谷に移った(アブハジアに戻った)。

2008年8月8日、アブハジアと同じくグルジアからの分離を求めて事実上独立状態にある南オセチア自治州にグルジア軍が侵攻。これに対してロシア軍がロシア人の保護を名目に同自治州に侵攻し、グルジアと戦争状態に突入した。これと呼応してロシア軍とアブハジア軍が、アブハジアの一部であるコドリ渓谷を実効支配するグルジア軍を攻撃し、戦争がアブハジアにまで拡大した。結果、グルジア軍はコドリ渓谷から駆逐され、アブハジア自治共和国政府も追放されまたトビリシに亡命した。

2008年2月17日コソボ独立宣言や南オセチア紛争を受け、ロシアなど独立国家共同体(CIS)、国際連合に対し、近くグルジアからの独立承認を求める方針を明らかにしたと報道された。8月20日、アブハジア議会はロシアに対する独立承認要請採択を承認した。8月26日、ロシアのメドヴェージェフ大統領が、南オセチアと共にアブハジアのグルジアからの独立を認める大統領令に署名したことで、ロシアにグルジアの領土保全の意思がないと明らかになった。コーカサス研究の廣瀬陽子によれば、アブハジアはロシアによるロシア化が進められていると指摘されている[15]。しかし、2022年3月に南オセチアがロシアへの編入を目指す動きを見せた際には、アブハジアは同調していない[16]


  1. ^ Citypopulation.de/Republic of Georgia” (2017年7月8日). 2017年9月15日閲覧。
  2. ^ Tuvalu 'Recognizes Abkhazia, South Ossetia'”. CNN (2009年9月11日). 2009年9月19日閲覧。
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  6. ^ Constitution of the Republic of Abkhazia (Apsny)”. abkhazworld.com (2008年10月22日). 2017年9月15日閲覧。
  7. ^ a b Population censuses in Abkhazia: 1886, 1926, 1939, 1959, 1970, 1979, 1989, 2003 (ロシア語)グルジア人の多くはグルジア系のメグレル人
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  11. ^ Hewitt, George (1998). The Abkhazians: a handbook. Palgrave Macmillan. p. 205. ISBN 978-0-312-21975-8 
  12. ^ a b Александр Крылов. ЕДИНАЯ ВЕРА АБХАЗСКИХ "ХРИСТИАН" И "МУСУЛЬМАН". Особенности религиозного сознания в современной Абхазии. Portal-credo.ru (2004-03-17). Retrieved on 2011-05-30.
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  15. ^ プーチンがメドヴェージェフを切る? ロシア指導部に「亀裂」 wedge.ismedia.jp, 2012年9月15日閲覧。
  16. ^ “南オセチアにロシア編入論 ウクライナ侵攻さなか―プーチン政権「戦果」模索”. 時事ドットコム. 時事通信. (2022年4月2日). https://web.archive.org/web/20220402000411/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022040100764 2022年5月31日閲覧。 
  17. ^ Президент России | Указ «О признании Республики Абхазия»(ロシア政府公式サイト、2008年8月26日。2008年8月27日確認)
  18. ^ BBC NEWS | Europe | Russia recognises Georgian rebelsBBCニュース、2008年8月26日。2008年8月27日確認)
  19. ^ ロシア大統領がアブハジア訪問 紛争9年、実効支配誇示
  20. ^ Островное государство Вануату признало независимость Абхазии - МИД” (ロシア語). РИА Новость (2011年5月31日). 2011年9月26日閲覧。
  21. ^ Vanuatu scraps recognition of Georgia breakaway region” (2013年5月20日). 2013年5月21日閲覧。
  22. ^ Georgia Says Vanuatu Has Withdrawn Recognition of Abkhazia”. Bloomberg (2013年5月20日). 2013年7月12日閲覧。
  23. ^ Tuvalu 'Recognizes Abkhazia, South Ossetia'”. Radio Free Europe (2011年9月23日). 2011年9月26日閲覧。
  24. ^ Statement of the Georgian Foreign Ministry regarding the establishment of diplomatic and consular relations” (2014年3月31日). 2014年3月31日閲覧。
  25. ^ Abkhazia Today. 国際危機グループ Europe Report N°176, 15 September 2006,, page 10. 2007年5月30日. Free registration needed to view full report
  26. ^ アブハジア共和国がマイニング施設を一時閉鎖、冬の電力供給に備えるため
  27. ^ マイニング






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