アブハジア共和国のガグラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:43 UTC 版)
1980年代後半、この地域のグルジア人とアブハジア人との間の緊張が高まった。総力戦が1992年から1993年にかけて勃発し、グルジア政府軍の壊滅的な敗北に終わった。アブハジアの大規模な民族浄化で、数千人のグルジア人が死亡し数十万人が家を追われた。ガグラとアブハジアの首都スフミは戦闘の中心地であり、大きな被害を受けた。チェチェン人の悪名高い反乱指揮官のシャミル・バサエフは、チェチェンの義勇軍から派遣された指揮官として、アブハジア側に立ってガグラで戦った。 それ以来、ガグラはアブハジアの残りの部分と同様に発展が止まっている。アブハジアとジョージアの国境紛争は都市の東側に限定されているものの、対立はまだ解決していない。 2011年に行われた国勢調査によると現在の住民はアブハズ人52.8%、ロシア人19.0%、アルメニア人16.6%で残留したグルジア人は2.7%のみである。
※この「アブハジア共和国のガグラ」の解説は、「ガグラ」の解説の一部です。
「アブハジア共和国のガグラ」を含む「ガグラ」の記事については、「ガグラ」の概要を参照ください。
- アブハジア共和国のガグラのページへのリンク