本能寺討入とは? わかりやすく解説

本能寺討入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:29 UTC 版)

本能寺の変」の記事における「本能寺討入」の解説

6月1日光秀1万3,000の手勢を率いて丹波亀山城出陣した。(『川角太閤記によれば)「京の森成利(蘭丸)より飛脚があって、中国出陣準備ができたか陣容家中の馬などを信長様が検分したいとのお達しだ」と物頭たちに説明して午後4時ごろ(申の刻)より準備でき次第逐次出発した亀山の東の柴野到着して斎藤利三命じて1万3,000人を勢ぞろいさせたのは、午後6時ごろ(酉の刻)のことであった光秀はそこから1町半ほど離れた場所で軍議を開くと、明智秀満弥平次)に重臣達を集めるように指示した明智滝朗の『光秀行状記』によると、この場所は篠村八幡宮であったという伝承があるそうである。秀満、明智光忠(次右衛門)、利三、藤田行政(伝五)、溝尾茂朝集まったところで、ここで初め謀反のことが告げられ光秀重臣達は「信長を討果し天下の主となるべき調儀」を練った。また(『当代記によれば)この5名には起請文を書かせ、人質取ったということである。 「#諏訪で御折檻」、「#饗応役の解任」、および「#変の要因」も参照 亀山から西国への道は南の三草山越えるのが当時は普通であったが、光秀は「老の山(老ノ坂)を上り山崎廻って摂津の地を進軍する」と兵に告げて軍を東に向かわせた。駒を早めて老ノ坂峠越えると、沓掛休息許し夜中兵糧使い、馬を休ませた。沓掛は京への道と西国への道の分岐点であったが(『川角太閤記によれば信長注進する者が現れ密事漏れないように、光秀家臣天野源右衛門安田国継)を呼び出し先行して疑わしい者は斬れと命じた。夏で早朝から畑に瓜を作る農民がいたが、殺気立った武者急ぎ来るのに驚いて逃げたので、天野はこれを追い回して2030人斬り殺した。なお、大軍であるため別隊が京へ続くもう一つ山道唐櫃越から四条街道用いたという「明智越え」の伝承もある。 6月2日未明桂川到達すると、光秀は触をだして、馬の沓を切り捨てさせ、徒歩足軽新しく足半あしなか)の草鞋替えるように命じ火縄一尺五寸切って火をつけ、五本ずつ火先を下にして掲げるように指示した。これは戦闘準備意味した明智軍従軍していた本城惣右衛門による『本城惣右衛門覚書』には「(家康上洛していたので)いゑやすさまとばかり存候」という記述があり、家臣たちは御公儀様(信長)の命令徳川家康討ち取る思っていたとされ、真の目的知らされていなかったことを示している。ルイス・フロイスの『日本史』にも「或者は是れ或は信長内命によりて其の親類たる三河君主家康)を掩殺する為めではないかと、疑惑した」という記述があり、有無を言わせず相手知らせことなく兵を攻撃に向かわせたと書かれている一方で川角太閤記』では触で「今日よりして天下様に御成りなされ候」と狙い信長であることを婉曲的告げたとし、兵は「出世手柄次第」と聞いて喜んだとしている。 なお、このときに光秀が「敵は本能寺にあり」と宣言したという話が有名であるが、これは江戸時代前期元禄年間頃に成立した明智軍記』にある「敵は四条本能寺二条城にあり」や、寛永18年1641年)に成立したとされる林羅山の『織田信長譜』で、大江山出来事として「光秀曰敵在本能寺於是衆始知其有叛心光秀曰く敵は本能寺にあり。これを於いて衆はその叛心有るを知る)」という記述出典として変化した俗説である。江戸時代後期文政10年1827年)に頼山陽様々な歴史書から引用して書き上げた日本外史』では、桂川を渡る際に「吾敵在本能寺矣(我が敵は本能寺に在り)」と述べたという記述になった。しかし同時代史料には光秀言葉一切残っていない。 桂川越えた辺りで夜が明けた先鋒斎藤利三は、市中に入ると、町々の境にあった木戸押し開け潜り戸を過ぎるまでは幟や旗指物付けないこと、本能寺さいかち木・竹目印にして諸隊諸組で思い思いに分進して、目的地に急ぐように下知した。 6月2日曙(午前4時ごろ)、明智勢は本能寺を完全に包囲し終えた寄手人数言及する史料少ないが、『祖父物語』ではこれを3,000余騎としている。南門から突入した本城惣右衛門回想によれば寺内にはほとんど相手はおらず、門も開きっぱなしであったという。 『信長公記によれば信長小姓衆はこの喧噪最初下々の者の喧嘩だと思っていたが、しばらくすると明智勢は鬨の声上げて御殿鉄砲撃ち込んできた。信長は「さては謀反だな、誰のしわざか(こは謀反か。如何なる者の企てぞ)」と蘭丸尋ねて物見に行かせたところ「明智軍勢見受けます(明智が者と見え申し候)」と報告するので、信長は「やむをえぬ(是非に及ばず)」と一言いったと云う通説では、この言葉は、光秀謀叛であると聞いた信長が、彼の性格能力から脱出不可であろう悟ったものと解釈されている。また異説であるが、『三河物語』では信長が「城之介がべつしんか」と尋ねてまず息子である信忠秋田城介)の謀叛別心)を疑ったということになって蘭丸によって「あけちがべつしんと見へ申」と訂正されたことになっているスペイン人貿易商アビラ・ヒロン書いた『日本王国記』では、噂によると、信長明智包囲していることを知らされると、口に指をあてて、「余は余自ら死を招いたな」と言ったということである。 明智勢が四方より攻め込んできたので、御堂詰めていた御番衆御殿小姓衆と合流して一団となって応戦した矢代勝介屋代勝助)ら4名は厩から敵勢に斬り込んだ討死し、厩では中間衆など24人が討死した。御殿では台所口で高橋虎松奮戦してしばらく敵を食い止めたが、結局24人が尽く討死した。湯浅直宗小倉松寿町内宿舎から本能寺駆け込み両名とも斬り込んで討死にした。 信長初め弓を持って戦ったが、どの弓もしばらくすると弦が切れたので、次に取って敵を突き伏せて戦うも(右の)肘に槍傷受けて内に退いた信長それまで付き従っていた女房衆に「女はくるしからず、急罷出よ」と逃げるよう指示した。『当代記によれば三度警告し避難促した云う。すでに御殿には火がかけられていて、近くまで火の手及んでいたが、信長殿中奥深く篭り内側か納戸締めて切腹した。『信長公記』ではこの討ち入り終わったのが午前8時(辰の刻)前とする。(続き) 「光秀鳥羽ニ」 近年光秀本能寺現場には行かず襲撃部下実行させていたとする学説出てきた。光秀本人本能寺襲った考えられてきたのは、光秀交流があった公家吉田兼見日記に「惟任日向守光秀のこと)、信長屋敷本応寺へ取懸」と記されていたためとみられるが、うわさを書き残した可能性指摘され果たし本能寺の変のときに光秀本人がどこにいたのかは、研究者の間でも議論されてきた。江戸時代前期加賀藩兵学者関屋政春の著書乙夜書物(いつやのかきもの)』には、光秀重臣斎藤利三三男本能寺の変当時16歳で自らも変に関わった斎藤利宗が、甥で加賀藩士の井上清左衛門語った内容収録されているが、富山市郷土博物館主査学芸員萩原大輔同書読解して重臣の利三と秀満が率いた先発隊2千余騎が本能寺襲い、「光秀鳥羽ニヒカエタリ」と光秀は寺から約8km南の鳥羽控えていたとし、奥書書き入れ)に政春が息子のために書き残したもので他人に見せることは厳禁と書かれていることなどから、萩原信頼性が高い記述であると判断している。本郷和人は、光秀本能寺に行かなかったことについて、「十分あり得ることではないか光秀自身最前線赴く要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話している。 宣教師の話 一方本能寺南側から僅か1街(約254メートル離れた場所に南蛮寺教会)があったので、イエズス会宣教師達がこれの一部始終遠巻き見ていた。彼らの証言書き記したものが、天正11年の『イエズス会日本年報』にある。 この日、フランシスコ・カリオン司祭早朝ミサ準備をしていると、キリシタン達が慌てて駆け込んできて、危ないから中止するように勧めたその後銃声がして、火の手上がった。また別の者が駆け込んで来て、これは喧嘩などではなく明智信長に叛いて包囲したものだという報せ届いた本能寺では謀叛予期していなかったので、明智の兵たちは怪しまれると無く難なく寺に侵入した信長起床して顔や手を清めていたところであったが、明智の兵は背後から弓矢放って背中命中させた。信長は矢を引き抜くと、薙刀という鎌のような武器振り回して腕に銃弾が当たるまで奮戦したが、奥の部屋入り、戸を閉じた。或人は、日本大名にならい割腹して死んだと云い、或人は、御殿放火し生きながら焼死した云う。だが火事大きかったので、どのように死んだかはわかっていない。いずれにしろ「諸人がその声ではなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した」としめている。

※この「本能寺討入」の解説は、「本能寺の変」の解説の一部です。
「本能寺討入」を含む「本能寺の変」の記事については、「本能寺の変」の概要を参照ください。

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