日本神道との類似性
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伊波普猷は、明治37年(1904年)に発表し昭和17年(1942年)に改稿した「琉球の神話」の中で、『中山世鑑』の起源神話と『古事記』の淤能碁呂島神話、『宮古島旧記』の神婚説話と三輪山神話などの類似を指摘し、琉球群島にはこれら以外にも色々な神話伝説があり神話の宝庫であることから、広義の琉球群島には未だ世に知られていない無数の神話伝説があり、これらの神話伝説を悉く集めて日本本土の神話伝説と比較研究を始め、更に進んで朝鮮、満州、蒙古と比較研究をすることは、ただ神話学者にとって必要なだけでなく、人種学者にとっても必要なことであると説き、ポリネシア群島の人種移動の問題はこのような研究によって解決されたのだと指摘した。 昭和6年(1931年)松本信廣は『日本神話の研究』の中で、ローランド・ディクソン(Roland B. Dixon)がポリネシアを分類するために設定した2つの型「進化型」と「創造型」を用い、日本開闢神話をポリネシア創世神話の「進化型」と「創造型」の複合形であり、イザナギ・イザナミ神話から以降は「創造型」の形式を受け継いでいるものではないかとの説を発表した。このとき松本信廣はポリネシアと日本神話を直接比較するのではなく、中間に琉球の古伝説を置くとこの関係がいっそう明白になると述べ、「琉球民族が古く日本民族と袖を分かったもの」である以上、琉球の古神話がイザナギ・イザナミ神話の一異体であり、日本神話が琉球のそれを中間において、遠く南方の創造型神話と一脈の関連を持っていることを否み得ないとの考えを示した。 伊藤幹治は、伊波普猷が「琉球の神話」でその必要性を説いて後、『日本神話の研究』で松本信廣が日本神話と汎太平洋神話を比較するまで日琉神話の比較は途絶えていたが、『日本神話の研究』で提示された仮説は、その後多くの人に受け入れられ、こんにち日本の比較民族学上の定説になっていると述べている。さらに、岡正雄がおこなった日本の宇宙開闢神話に対する分類は、日琉神話の問題を直接取り上げた訳ではなかったが日本神話の出自=系譜に関する歴史民族学的な研究を活発化し、日琉双方の神話比較やその文化史的位置づけ作業も徐々に行われるようになったと、その影響を紹介している。 岡正雄が提起した日本の宇宙開闢神話についての仮説は、その後、大林太良によって具体的展開を見ることになるが、伊藤幹治によれば日琉神話の比較が積極的におこなわれるようになったのは、この大林太良の研究によってである。 昭和41年(1966年)発表された「記紀の神話と南西諸島の伝承」において、大林太良は日本の古典神話と奄美や沖縄の島々に伝承されている民間説話について、流れ島、天降る始祖、死体化生、海幸彦に関する伝承神話を比較検討し、次のことを結論として述べている。 記紀に記された古典神話に親縁の諸モチーフは、わが国における現存あるいは比較的近い過去の伝承としては、ことに南西諸島に残存している。 これら南西諸島の伝承は、その基本的なモチーフ、構造においては記紀の神話と大幅な一致を見せるが、神名その他の細部においては一致していない。このことは古典神話、現存の記紀の形にまとめられてから南西諸島に二次的に伝播した可能性よりもむしろ、記紀にまとめられる前の共通の母胎から分れて、南西諸島において保存された可能性が大きいことを示唆している。 もしもこの想定が正しければ、記紀の所伝と南西諸島の伝承の比較によって、記紀以前の日本神話の古い形を再構成する可能性がある。 その際注目すべきことは、南西諸島の伝承は、国土創成、人類創造、農耕の起源の3つの主要問題を、一つづきのものとして取りあつかっていることで、構成的にも、記紀の神話よりも一貫しているのみならず、日本神話と深い親縁関係をもつと信ぜられるポリネシアなどの神話との比較から考えても、南西諸島の伝承がより古い形を保存している可能性を考慮すべきである。 この一連の開闢神話に含まれない若干のエピソード、たとえばオオゲツヒメ・モチーフや海幸彦・山幸彦モチーフも南西諸島に現存している。 古典神話と後代あるいは現存の伝承との組織的比較はまだ極めて不十分な段階にある。上記およびその他の諸問題をより明確に答えるためにも、一層組織的な材料の収集と比較が必要である。 伊藤幹治は、大林太良の試みを、伊波普猷以降ながい間とだえていた日琉神話の比較という作業の再出発と評価し、その後、山下欣一などの努力によって、琉球神話の資料の収集と整理が着々と進められ、日琉神話の比較研究の基礎がようやく固まってきたと述べている。 また、伊藤幹治自身も「日本神話と琉球神話」の中で日琉の世界と人間の起源神話および穀物起源神話を取り上げ、そのモチーフを比較検討した結果、漂える国(島)や天界出自の原祖、ヒルコ、穂落としなどのモチーフは双方の神話中に共通して認められ、日琉神話の親縁関係を示唆していると指摘する一方で、風による妊娠、原祖の地中からの出現、原祖の漂着、犬祖などは琉球神話にしか見られず、また穀物神話の死体化生モチーフは日本神話にしか見られないことなどは、双方の神話の出自=系統が必ずしも一様でないことを物語っていると述べている。さらに続けて、こうした一致や不一致が、どうして生じているのかと言うことは、日琉神話研究の将来の課題になるだろうと指摘している。 他にも日本神道との類似性については、以下の様なものが唱えられている。 柳田國男は昭和30年(1955年)に発表した「根の国の話」において、『万葉集』に詠われた亡くなった人に逢える場所「ミミラク」の地名の考証をおこない、その中で①ニルヤ・カナヤが『日本書紀』の「神代巻」に出てくる根の国と根本が一つの言葉であり信仰である、②それが海上の故郷であるが故に、単に現世において健闘した人々のために安らかな休息の地を約束するばかりでなく、なお種々の厚意と声援とを送り届けようとする精霊が止住し往来する拠点であると昔の人たちは信じていたらしい、③その恩恵の永続を確かめんがために、毎年心を籠め身を浄くして、稲という作物の栽培を繰り返し、その成果をもって人生の目盛りとする古来の習わしがあった、という3つの仮定を説いた。 遠藤庄治は、「琉球の宗教儀礼と日本神話」の中で宮古列島の来間島豊年祭の由来譚が日光感精による処女懐胎であることを説明し、『日本書紀』神代巻冒頭の天地が分かれる以前は鶏子のごとくであったとする条と天日槍伝承に見られる卵生を思わせるモチーフが、来間島では豊年祭の由来として現在も語り継がれ、さらに祭りの催行も由来譚に登場する兄弟の家筋のものが司っていることを紹介して、沖縄においては記紀神話に語られる様々なことがらが現在も宗教儀礼の中で実修され、さらに宗教儀礼に関する神歌や口誦伝承もいまだに伝承されていると述べている。
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