琉球神道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/09 04:01 UTC 版)
琉球神道(りゅうきゅうしんとう)は、古琉球および琉球王国を中心に信仰されてきた多神教宗教である。
注釈
- ^ 鹿児島県庁が発した沖永良部島への諭達など。『沖永良部諸改正令達摘要録』には「爾来地葬すべきは当然に候処或る所は其棺を墓所に送り、モヤと唱ふる小屋内に備置き、親子兄弟等此モヤに到、其棺を開き見る数回、終に数日を経屍の腐敗するも臭気も不厭赴に相聞、右は人情の厚きに似たれども、其臭気を嗅ぐものは甚だ健康を害し候は勿論、近傍通行の者いへども、其臭気に触るれば病を伝染し、或は一種の病気を醸すものに有之、衛生上甚だ不宜事に付、自今右様之弊習は此度相改め云々」と記されている。
- ^ 『葬と供養』1992年 「1 葬法論 - 凶癘魂と鎮魂 3 自然葬法と鎮魂 7 久高島の風葬」によれば、久高島では昭和41年(1966年)におこなわれたイザイホー神事の際、ある事件が起こり島民は風葬を廃止することとした。同書によれば、過疎の進む久高島で、これがもう最後の神事になるかもしれないというので、多くの報道陣を受け入れたが、その中のカメラマンが風葬がおこなわれている後生(グソー)に入って墓を写真にとるばかりか、棺をしばる太い針金を切って死者の写真を撮るという墓荒らしをおこなった。しかもこの写真は、ある好奇心の強い太陽の好きな前衛画家の見学記に入れて週刊誌に載せられた。慟哭するほどのショックを受けた島民は、告発することも考えたが、犯行責任の所在を問うことが困難なので、おとなしい島民らしく風葬を廃止することとした。久高島では、この後5年ほどで完全に土葬と火葬に転換したのだと言う。著者の五来重は「・・・(風葬は)自然死のように消えるのがのぞましいのであって、久高島の風葬は非業の死であり、頓死であった。」と述べて、この事件を非難している。
- ^ 河村只雄は「風葬といふのは天然の洞窟や『墓地の森』の中になきがらを只置いて帰るのである。」と述べ、その様子を「正に、死体遺棄とでも言ひたいところである」と表現し、風葬とは葬法に人工が加わらないものと定義している[33]。桜井徳太郎もこの考えを支持し、海蝕・風蝕洞穴に人工の手が加えられて埋葬される葬法を風葬とはしていない。[34]本記事でもこの考え方を基に、海蝕・風蝕洞穴に棺を安置した後、その扉口を石・泥・漆喰で密閉する葬法を風葬に含めず洞穴葬とした。
- ^ 「隠れ念仏」参照
- ^ 伊波普猷「琉球の神話」の「五、神婚説話」の原文では「広義に於けるの琉球群島即ち薩南諸島には」となっているが、これでは琉球群島の範囲をかえって狭めてしまうことになる。前後の文脈からすると伊波普猷は広義の琉球群島として南西諸島の範囲を指したかったのではないかと推測される。
- ^ 別名「系図型」。最初独化神が連続し、これが宇宙の進化の各段階を象徴し、後に夫婦神が現れて、最後に生まれた陰陽二神より万物が誕生したという筋の神話。
- ^ 最初神々は天上の世界に住み、その下には広々とした大海が横たわっているのみである。そこへある神が石を投げ込むと、それが最後には大地となり、その上に天上の者が下り、ついで人間が現れるという筋の神話。
- ^ 伊波普猷的「琉球民族」論の影響が強いと考えられる(「琉球民族」参照)
- ^ しかし柳田國男は、この3つの仮定を十分に説明し得なかったとも述べている。
出典
- ^ 折口信夫「琉球の宗教」 「 一 はしがき」より。「琉球の宗教」は折口信夫が大正12年(1923年)5月に『世界聖典外纂』で発表した論文。発表時は全6章の論文であったが、昭和4年(1929年)4月に『古代研究』へ掲載された際には、現在の全10章に増補されている。「琉球の宗教」は『折口信夫全集2 古代研究(民族学篇1)』1995年に所収されている。
- ^ 『琉球宗教史の研究』1965年 「第2編 神と門族 第1章 門族の成立 第1節 火神の本質」より。
- ^ 『琉球宗教史の研究』1965年 「第2編 神と門族 第5章 王火の思想 第1節 政治的実権と殿」より。
- ^ 宮里朝光「琉球人の思想と宗教」 「三、固有宗教」より。「琉球人の思想と宗教」は『沖縄の宗教と民俗 : 窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集』1988年に所収されている。
- ^ 『おもろ新釈』1957年。
- ^ 『神と村』1975年 「神と村 - 沖縄の村落 神とは セジ(shiji)をもっているもの」より。
- ^ 『神と村』1975年 「神と村 - 沖縄の村落 神とは 八百万の神」より。
- ^ a b c 『琉球宗教史の研究』1965年 「第1編 神と村落 第1章 村落の成立 第1節 村落成立の要因」より。
- ^ 『琉球宗教史の研究』1965年 「第1編 神と村落 第1章 村落の成立 第3節 御嶽の本質」より。
- ^ 『琉球宗教史の研究』1965年 「第3編 巫女組織 第1章 巫女の起源 第2節 ヲナリ神の信仰」より。
- ^ a b 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第7章 召名巫の生態と入巫‐沖縄のユタ‐ 第1節 沖縄のシャーマン‐ユタとユタマンチャー‐ 1 女性神役と民間巫女」より。
- ^ 『日本のシャーマニズム』1971年 「2 聖の領域に入る - シャーマニズムとは何か - 1 エクスタシー シャーマンの一般的特色」より。
- ^ 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第7章 召名巫の生態と入巫‐沖縄のユタ‐ 第3節 ユタの成巫過程」の脚注(3)より。
- ^ a b 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第7章 召名巫の生態と入巫‐沖縄のユタ‐ はじめに‐召名巫のユタ‐」より。
- ^ a b 『琉球宗教史の研究』1965年 「第1編 神と村落 第2章 村落の実権 第2節 根所の実権」より。
- ^ 『琉球宗教史の研究』1965年 「第1編 神と村落 第4章 城郭時代の御嶽 第2節 教権の更迭」より。
- ^ 『琉球宗教史の研究』1965年 「第3編 巫女組織 第4章 国家時代の巫女組織 第1節 中央集権と宗教改革」より。
- ^ 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第7章 召名巫の生態と入巫‐沖縄のユタ‐ 第1節 沖縄のシャーマン‐ユタとユタマンチャー‐ 3 ユタの成立」より。
- ^ 『琉球宗教史の研究』1965年 「第3編 巫女組織 第2章 巫女の本質 第3節 巫女の神性」より。
- ^ 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第7章 召名巫の生態と入巫‐沖縄のユタ‐ 第3節 ユタの成巫過程 3 カミダーリィ(Kamidaarii)」より。
- ^ 『シャーマニズムの世界』1992年 「第2部 シャーマン 6 シャーマンと夢 イニシエーション的夢の心理 - 社会的背景について」より。
- ^ 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第7章 召名巫の生態と入巫‐沖縄のユタ‐ 第3節 ユタの成巫過程 4 イニシエーションの過程」より。
- ^ 伊波普猷「ユタの歴史的研究」より。「ユタの歴史的研究」は『伊波普猷全集 第9巻』1975年の「民俗論考」に所収されている。
- ^ 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第7章 召名巫の生態と入巫‐沖縄のユタ‐ 第3節 ユタの成巫過程 1 ユタ成立の要件」より。
- ^ 『シャーマニズムの世界』1992年 「第2部 シャーマン 5 祭司・シャーマン・王 シャーマン王と祭司王」より。
- ^ 比嘉政夫「祖先と祖先神」 「四、むすび」より。比嘉政夫「祖先と祖先神」は『沖縄の宗教と民俗 : 窪徳忠先生沖縄調査二十年記念論文集』1988年に所収されている。
- ^ 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第9章 死の儀礼と巫俗 - シャーマンと葬墓制 - 第1節 ユタの関与する死者儀礼 結 まとめと若干の問題点」より。
- ^ 『琉球宗教史の研究』1965年 「第2編 神と門族 第3章 門族の構成 第3節 門族と共同墓」より。
- ^ a b 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第9章 死の儀礼と巫俗 - シャーマンと葬墓制 - 第1節 ユタの関与する死者儀礼 3 死霊供養とユタ」より。
- ^ 伊波普猷「をなり神の島」 「南島古代の葬制」より。「をなり神の島」は『伊波普猷全集 第5巻』1974年に所収されている。
- ^ a b 『葬と供養』1992年 「1 葬法論 - 凶癘魂と鎮魂 3 自然葬法と鎮魂 7 久高島の風葬」より。
- ^ 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第9章 死の儀礼と巫俗 - シャーマンと葬墓制 - 第2節 葬墓制と巫俗 3 葬墓制とその推移」より。
- ^ 河村只雄『南方文化の探究』1999年 [要ページ番号]
- ^ 『桜井徳太郎著作集6 日本シャマニズムの研究 下 ‐ 構造と機能 ‐』1988年 「第9章 死の儀礼と巫俗 - シャーマンと葬墓制 - 第2節 葬墓制と巫俗 結 まとめと残された問題」より。
- ^ 折口信夫「琉球の宗教」 「五 神々」より。「琉球の宗教」は『折口信夫全集2 古代研究(民族学篇1)』1995年に所収されている。
- ^ “上皇さまが苦悩された「土葬と殯」の負担 おことばを受けて、土葬から火葬に”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2019年5月16日). 2020年5月17日閲覧。
- ^ 伊波普猷「琉球の神話」 「五、神婚説話」より。「琉球の神話」は伊波普猷が明治37年(1904年)に『史学界』に発表した後、明治37年(1904年)に『古琉球』へ所載された。『古琉球』の第4版を出すに当たり昭和17年(1942年)改稿。更に後、『伊波普猷全集 第1巻』1974年に所収された。
- ^ 『日本神話の研究』1971年 「我が国天地開闢神話にたいする一管見」より。
- ^ a b c 伊藤幹治「日本神話と琉球神話」 「一 はじめに」より。伊藤幹治「日本神話と琉球神話」は『日本神話と琉球』1977年に所収されている。
- ^ 大林太良「記紀の神話と南西諸島の伝承」 「六、結論」より。大林太良「記紀の神話と南西諸島の伝承」は『日本神話』1970年に所収。
- ^ 伊藤幹治「日本神話と琉球神話」 「六 あとがき」より。伊藤幹治「日本神話と琉球神話」は『日本神話と琉球』1977年に所収されている。
- ^ 柳田國男「根の国の話」 「終りに」より。「根の国の話」は『海上の道』1978年に所収されている。
- ^ 遠藤庄治「琉球の宗教儀礼と日本神話」より。遠藤庄治「琉球の宗教儀礼と日本神話」は『日本神話と琉球』1977年に所収されている。
琉球神道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:55 UTC 版)
「琉球神道」も参照 古来より琉球にはアニミズム、祖霊崇拝、おなり神信仰を基礎とする固有の宗教があり、首里には聞得大君御殿(きこえおおきみうどぅん)、首里殿内(しゅりどぅんち)、真壁殿内(まかべどぅんち)、儀保殿内(ぎぼどぅんち)の一本社三末社があった。聞得大君御殿は首里汀志良次町にあり、琉球各地にある祝女殿内(ぬんどぅんち)と呼ばれる末社を支配した。 聞得大君(キコエオオキミ)は琉球王国の高級神女三十三君の頂点に君臨する最高神女で、その地位は国王の次に位置し、前・元王妃など王族女性から選ばれて任に就いた。聞得大君は御殿の神体である「御スジノ御前」、「御火鉢ノ御前」、「金之美御スジノ御前」に仕え、国家安泰、海路安全、五穀豊穣などを祈願した。
※この「琉球神道」の解説は、「琉球王国」の解説の一部です。
「琉球神道」を含む「琉球王国」の記事については、「琉球王国」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 琉球神道のページへのリンク