日本と米国
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詳細は「ワシントン海軍軍縮条約での各国保有艦艇一覧」および「アメリカ海軍艦艇一覧#超弩級戦艦」を参照 第二次世界大戦勃発直前(1941年)における日米の超弩級戦艦所有数は以下の通り。 日本 - 金剛型(巡洋戦艦から高速戦艦に種別変更)4隻、扶桑型2隻、伊勢型2隻、長門型2隻、大和型2隻(建造中含む)(計12隻) このうち金剛型、扶桑型、伊勢型、長門型の10隻は、1921年(大正10年)の軍縮条約発効前に建造された艦齢20〜30年を超える艦艇である。 米国 - ニューヨーク級戦艦2隻、ネバダ級戦艦2隻、ペンシルベニア級戦艦2隻、ニューメキシコ級戦艦3隻、テネシー級戦艦2隻、コロラド級戦艦4隻(計15隻) これら15隻全てが軍縮条約発効前に建造されたもので同様に艦齢20〜30年を超える。 ただし、米国は開戦直前から以下の超弩級戦艦を建造しているため、大戦中の戦艦保有数は倍以上の総数27隻に及ぶ。 ノースカロライナ級戦艦2隻、サウスダコタ級戦艦4隻、アイオワ級戦艦6隻(計12隻) 日本はワシントン海軍軍縮条約により、仮想敵国であった米国と主力艦の戦力に上記のような大きな量的・質的格差があったこと、そしてパナマ運河を航行するためにパナマックスより大きい戦艦を建造できないことを鑑みて、戦艦史上最大の46センチ主砲の64,000t級大和型戦艦(「大和」と「武蔵」)を建造した。 大和型は6万トンを超す大艦であり、45口径46cm砲という巨砲を備えた大艦巨砲主義の申し子だった。しかし、戦艦との戦闘では優位に立てたはずの大和型も航空機には勝てず、「大和」「武蔵」ともにアメリカ海軍航空母艦載機の集中攻撃を受けて沈没した。また連合国・枢軸国を問わず、多数の戦艦が航空機や潜水艦の攻撃で沈没した。 日本は大和型よりも大型の51cm砲を積む超大和型戦艦の建造を予定していたが戦中に計画を中止している。また、米英仏独ソも35,000トン級を凌駕する巨大戦艦の建造計画があったが、直後に始まった第二次世界大戦では海軍の主役の座は航空機に移った。 1941年12月に太平洋戦争が勃発し、真珠湾攻撃などにおいて主役である戦艦を出す前の「露払い」として考えられていた航空機が予想以上の戦果を産み、第一航空艦隊(司令官南雲忠一中将)は地球を半周するほど縦横無尽の活躍を見せた。それによって航空戦力の評価が高まり、戦前から訴えられていた航空主兵論が勢いを増した。1942年(昭和17年)4月28日および29日、大和で行われた第一段作戦研究会で第一航空艦隊航空参謀源田実中佐は大艦巨砲主義に執着する軍部を「秦の始皇帝は阿房宮を造り、日本海軍は戦艦『大和』をつくり、共に笑いを後世に残した」と批判して一切を航空主兵に切り替えるように訴えた。第二艦隊砲術参謀藤田正路は、大和の主砲射撃を見て1942年(昭和17年)5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した。 海軍はそれでも大艦巨砲主義を捨て切れなかったが、ミッドウェー海戦での第一航空艦隊の壊滅により、思想転換は不十分だが航空戦力の価値が偉大と認めて航空優先の戦備方針を決定する。しかし、方針、戦備計画のみで施策、実施などまで徹底出来なかった。 国力・工業力ともに不十分な日本では航空機と戦艦の両立は無理であり、艦艇整備を抑える必要があったが被弾した艦艇の修復などが増大しそこまで行うことができなかった。第三艦隊は航空主兵に変更されたが、第一艦隊、第二艦隊は従来のままで、第三艦隊で制空権を獲得してから戦艦主兵の戦闘を行う考えのままだった。 対する米国は、空母の有用性を認識しながらも戦前から計画していた超弩級戦艦の建造を続けた。これは空母機動部隊において豊富な対艦・対空武装を持ち高速な戦艦を有力な空母直掩艦として使用したかった事と、上陸戦の前の敵陣地破壊に艦砲射撃を用いる事が有効であったためである。 1943年(昭和18年)、第三段作戦発令において連合艦隊作戦要綱を制定し、航空主兵を目的とした兵術思想統一が行われた。1944年2月に第一艦隊が廃され、翌月に第一機動艦隊が創設されたことにより、ようやく機動部隊が最重要視されることとなった。 その機動部隊と(陸上)基地航空兵力は、ギルバート・マーシャル諸島の戦い、マリアナ沖海戦、台湾沖航空戦など戦いで全く戦果を挙げることなく大打撃を受けた。レイテ沖海戦に参加した小沢機動部隊にもはや攻撃力はなく、囮部隊として壊滅した。同作戦でレイテ湾に突入するはずだった戦艦部隊は目的を達しないまま反転し、その過程で大和型戦艦「武蔵」が航空攻撃によって撃沈された。翌年4月には、沖縄に向かう大和がこれも航空攻撃によって撃沈され(坊ノ岬沖海戦)、日本海軍は大艦巨砲と航空主兵双方がアメリカ海軍の航空主体の物量に敗れる形で終焉を迎えた。 なお、戦艦が最後に実戦で使われたのは1991年の湾岸戦争で、アイオワ級戦艦「ミズーリ」と「ウィスコンシン」が出撃し無人偵察機による弾着観測射撃や巡航ミサイル攻撃を実施し、一定の戦果を挙げている。
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