情報管理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 14:00 UTC 版)
情報管理(じょうほうかんり、英: Information management, IM)は、1つ以上の情報源からの情報を管理し、その情報を1つ以上の関係先に配布すること。この場合の管理とは、情報の構造/処理/配布に関する組織と制御を意味する。
注釈
- ^ 2014年4月までは博士学位も取得できたが、2014年4月より課程が博士前期課程・博士後期課程から修士課程に改められた
出典
- ^ a b March, James G. and Simon, Herbert A. (1958), Organizations, John Wiley & Sons
- ^ Hedberg, Bo (1981), "How organizations learn and unlearn", in: Nyström, P.C. & Starbuck, W.H., Handbook of Organizational Design, Oxford University Press
- ^ Mackenzie K.D. (1978), Organizational Structures, AHM Publishing Corporation
- ^ Mullins, L.J (1993), Management and Organizational Behaviours, 3rd ed., Pitman Publishing
- ^ Wigand, Rolf T., Picot, Arnold and Reichwald, Ralf (1997), Information, Organization and Management: Expanding Markets and Corporate Boundaries, Wiley & Sons
- ^ Galbraith, Jay R. p. 49 ff. (1977), Organization Design, Addison-Wesley
情報管理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
ノモンハン事件当時の日本陸軍の情報統制は厳しく、ノモンハン事件の情報についても管理されていた。憲兵隊が新聞などのマスコミ報道や、手紙・電報などの私書について検閲を実施し、それを毎月データ化して関東憲兵隊に報告し、関東憲兵隊はそれを取りまとめて『検閲月報』という極秘資料を作成していた。1938年は年間の総頁は550頁であったが、これがノモンハン事件が始まると1939年には1200頁に倍増した。太平洋戦争開戦後の1942年には4900頁まで激増したが、戦局が悪化すると検閲の余力も無くなったのか1944年には1300頁、1945年にはたった130頁にまで減少している。 事件当時の新聞などの報道では、日本軍の苦戦や損害に対する記事は検閲される一方で戦果と武勇伝が強調され、新聞紙面上からは日本軍が苦戦している状況は微塵も感じられなかった。私書についても同様で、日本軍が苦戦していることが判るような表現や、日本軍や兵器の問題点を指摘した記述は削除されていった。 しかし、膨大な私書全てを検閲し削除や差し押さえできることは困難で、例えば1939年8月には667,502通の電報と682,309通の郵便に検閲を実施したが、何らかの処置を行った数は電報で1,345通、手紙で793通に過ぎず、それぞれ処置率は電報0.2%、手紙0.11%とごくわずかな数に過ぎなかった。この中で最も多かったのが『防諜上要注意通信』で、検閲処置がなされた郵便793通の内の295通がそれに該当し37%の構成率であったが、その中でも、軍の作戦行動や移駐に関するものや、部隊の固有名を記述したものなど、通常の軍事機密に関する検閲が多数を占めた。 また、満州で事業を展開していた日本の建設業などの事業者には情報が筒抜けだったようであり、ハルハ河渡河戦に失敗後、司令部に戦況を報告するためハイラルに立ち寄った関東軍参謀の辻は、兵站宿舎で休憩していたところ、隣室で建設業者らが酒で酩酊しながら「軍人の馬鹿どもが儲かりもしないのに、生命を捨てておる、阿呆な奴じゃ」と大声で騒いでいるのを聞くや激高し、その部屋に乗り込むと、建設業者ら数名を殴り倒している。 情報を全て遮断することは困難であったため、ノモンハンは負け戦だったという噂が兵士のみならず一般国民にも広がりつつあった。さらに、多くの参戦者やジャーナリストからの見聞記が多数出版され、中には中隊長であった草葉栄の著作『ノロ高地』のように100万部以上のベストセラーも生まれるに至って、陸軍は部外からの問い合わせに備えるための質疑応答集である「ノモンハン事件質疑応答資料」を作成した。その中に「民間に相当広くデマの流布せられたる現在、何故、詳細なる発表を行わざるや」という想定質問があったのを見ても判る通り、国民の間にかなりノモンハンの敗戦や苦戦の情報が広まっていた。 その後、1939年10月3日になって日本陸軍は当時としては異例の自軍の損害の公表に踏み切った。まずは地方官会議で発表され、翌日に各新聞で報道された。その報道では日本軍の死傷者は18,000名とされていた。当時、陸軍は自軍の死傷者を正確に発表することはなかったが、この18,000名という死傷者数は戦後に日ソの多くの資料によりほぼ正確な数字と判明しており、陸軍が敢えて日露戦争の旅順攻囲戦並みの衝撃を与える覚悟で正確な損害の公表に踏み切った理由は、このまま負け戦という噂が広まるより、我が方も損害は大きかったが、敵にも大損害を与えた“痛み分け”だったという情報を開示して、国民の士気を引き締めようという計算があったのではと推測されている。さらに『朝日新聞』は「軍当局がノモンハン事件から今後の軍事訓練を改善すべき必要があるとの教訓を学び、十分考察した。軍は最大限機械化部隊で満たす必要がある」とする自戒と教訓についても述べるという異例ぶりであった。 この記事の反響は大きかったようで、師団長の小松原には多くの批判の投書が寄せられている。小松原がその内の「愛児を失った父親」からの投書を自分の日記に引用しているが「ノモンハンの大事件は、国民一般、実に悲痛の思いにて、真相を知り其の責任者(平野で、ソ軍の大部隊の集結を気付かず、陛下の赤子を、多数失いたる実相)の男らしき弁明を、ほめ居候」との記述で、小松原らがソ連軍の総攻撃を事前に察知できなかったことについて認識している。また、小松原が満州から帰京する前日に熱海に一泊したことも知れ渡っており「戦塵を、熱海に悠々洗う、実に馬鹿馬鹿しき悪習慣に…戦塵洗いを、止めて下さい(有りもせぬ塵、兵隊さんは一体どうするのですか)」などと強い批判も書かれている。 その他にも、苦戦や敗戦を十分に連想できる吉丸、大内、森田の3大佐に東中佐の4名の指揮官級の佐官の戦死も新聞紙面で報道された。その記事では後年、硫黄島の戦いで戦死する栗林忠道大佐が、陸士第26期の同期であった4名への追悼の言葉を送っており、陸軍が主導してこの記事が掲載されたことが窺える。 既にこの時点では、翌1940年2月28日の帝国議会の決算委員会において福田関次郎議員が畑俊六陸軍大臣に「ノモンハンにおいては、色々と総合して見てますと、どうも日本の、軍装備に、欠陥があったのではないか、斯う云う風に見られるのであります」と質問したことでも判る通り、ノモンハンの敗戦や日本軍の問題点についてはかなり広く認識されていた。 ノモンハンの戦いについては、その敗戦を陸軍は国民にひた隠しにしたという主張が目立つが、逆に、情報が広まったことによる後追い的な情報開示とはいえ、当時の日本としてはむしろ意図を持って積極的に情報を開示した戦闘であった。
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