日本の軍事史
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日本の軍事史(にほんのぐんじし)は、日本の軍事史について記述するものである。
注釈
- ^ 朝鮮半島への派兵も行なった。
- ^ 1.憲法と自衛権 わが国は、第二次世界大戦後、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう決意し、平和国家の建設を目指して努力を重ねてきました。恒久の平和は、日本国民の念願です。この平和主義の理想を掲げる日本国憲法は、第9条に戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認に関する規定を置いています。もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定するものではありません。政府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏づける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解しています。このような考えに立ち、わが国は、憲法のもと、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきています。 2.憲法第9条の趣旨についての政府見解 (1)保持できる自衛力 わが国が憲法上保持できる自衛力は、自衛のための必要最小限度のものでなければならないと考えています。その具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面があり、毎年度の予算などの審議を通じて国民の代表者である国会において判断されます。憲法第9条第2項で保持が禁止されている「戦力」にあたるか否かは、わが国が保持する全体の実力についての問題であって、自衛隊の個々の兵器の保有の可否は、それを保有することで、わが国の保持する実力の全体がこの限度を超えることとなるか否かにより決められます。 しかし、個々の兵器のうちでも、性能上専ら相手国国土の壊滅的な破壊のためにのみ用いられる、いわゆる攻撃的兵器を保有することは、直ちに自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるため、いかなる場合にも許されません。たとえば、大陸間弾道ミサイル(ICBM:Intercontinental Ballistic Missile)、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母の保有は許されないと考えています。 (2)憲法第9条のもとで許容される自衛の措置 今般、2014(平成26)年7月1日の閣議決定において、憲法第9条のもとで許容される自衛の措置について、次のとおりとされました。 憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えますが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、1972(昭和47)年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところです。 この基本的な論理は、憲法第9条のもとでは今後とも維持されなければなりません。 これまで政府は、この基本的な論理のもと、「武力の行使」が許容されるのは、わが国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきました。しかし、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威などによりわが国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様などによっては、わが国の存立を脅かすことも現実に起こり得ます。 わが国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然ですが、それでもなおわが国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要があります。 こうした問題意識のもとに、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、わが国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至りました。 わが国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然ですが、国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要があります。憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合があります。この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれますが、憲法上は、あくまでもわが国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、わが国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものです。 ■憲法第9条のもとで許容される自衛の措置としての「武力の行使」の新三要件 1.「わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」 2.「これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと」 3.「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」 (3)自衛権を行使できる地理的範囲 わが国が自衛権の行使としてわが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使できる地理的範囲は、必ずしもわが国の領土、領海、領空に限られませんが、それが具体的にどこまで及ぶかは個々の状況に応じて異なるので、一概には言えません。 しかし、武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣するいわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであり、憲法上許されないと考えています。 (4)交戦権 憲法第9条第2項では、「国の交戦権は、これを認めない。」と規定していますが、ここでいう交戦権とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むものです。一方、自衛権の行使にあたっては、わが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することは当然のこととして認められており、たとえば、わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものです。ただし、相手国の領土の占領などは、自衛のための必要最小限度を超えるものと考えられるので、認められません。[日本国 防衛省・自衛隊の公式ホームページ https://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/kihon02.html]
- ^ 縄文時代にも戦争があったとする代表的な研究者は小林達雄である。
- ^ 古代の甲冑は、考古学用語の慣習上「鎧」・「兜」ではなく「甲」・「冑」と表記される。
- ^ なお、この形式の札甲(胴丸式挂甲)は、奈良時代に「短甲」と呼ばれるものと考えられている。
- ^ 筑紫君磐井は新羅から賄賂を受けたとされている。
- ^ 弥生時代後期より一部地域で製鉄が始まったという説もある。
- ^ 軍団が設立された時期は明らかではないが、飛鳥浄御原令によるとする説が有力で、遅くとも大宝律令には規定されている。
- ^ 蝦夷征討のため、太平洋側の征東軍(征夷軍)と日本海側の征狄軍(鎮狄軍)の2つの軍が編成され、征夷将軍と鎮狄将軍が同時に任命されたことはあるが、統率のための大将軍は任命されていない。
- ^ 現在一般に「短甲」と呼ばれている古墳時代の板造りタイプのものは示していないとされる[36][17]。
- ^ 貴族層に穢れ思想が広まり、軍隊を平和を乱す存在として忌み嫌うようになり、また、言霊思想によって、戦争のことを口にすることをはばかるようになった。
- ^ 移配俘囚が国司へ待遇改善を要求する反乱も起きた。
- ^ ただし古代からの地方豪族の少なからずは没落が進んだ。
- ^ 初期には移配俘囚も在地に準ずる兵力とされた。
- ^ これに対し当時の朝廷貴族の捉え方の中には、平将門の事例に似ているとするものもあった。
- ^ 和漢三才図会ではその発明は戦国時代ではなく寛永期とされている。
- ^ 日米修好通商条約第3条では武器は幕府のみが購入できることになっているが、幕府の許可があれば各大名も武器購入ができた。逆に言えば許可がないと購入できない訳であり、長州藩は第一次長州征伐後に洋式武器が入手できなくなった。
- ^ 一部の研究者はシャスポー銃は実戦では使用されなかったと主張している。最近では木村益雄『明治陸軍の制式小銃と戦傷者の治療(2007年)』など。
- ^ Argus(en) は完成が鳳翔よりも早く、長い着艦用甲板を備えていたが、当初は客船として建造されたものである。また空母として設計され起工がもっとも早かったのは Hermes(en) の1918年であるが、完成は鳳翔より遅い。
- ^ ダグラス・マッカーサーは共産主義の台頭と冷戦が戦後に起こったことを苦々しく思っていたようである。
出典
- ^ 江戸時代の末期(幕末)には、江戸幕府に幕府陸軍・陸軍総裁(陸軍省の陸軍大臣に相当。)と、幕府海軍・海軍総裁(海軍省の海軍大臣に相当。)が存在した。
- ^ 江戸幕府の幕府陸軍と幕府海軍を統合吸収して大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍が設立され巨大化を辿った。
- ^ a b 松木 2001.
- ^ 大阪府立弥生文化博物館 2007, pp. 6–8.
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- ^ 大阪府立弥生文化博物館 2007, pp. 32–33.
- ^ 木弓短下長上竹箭或鉄鏃或骨鏃
- ^ 「其地無牛馬虎豹羊鵲」
- ^ 内野那奈「受傷人骨からみた縄文の争い」『立命館文学』第633巻、立命館大学人文学会、2013年11月、472-458頁、CRID 1390009224815661824、doi:10.34382/00006441、ISSN 0287-7015。
- ^ 『三国志』(魏志倭人伝)や『後漢書』(東夷伝)に倭国大乱の記載がある。
- ^ 好太王碑に記載される『倭』は、九州地方の地方政権であるとする説もある。
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- ^ 馬文化ひだか:馬を知る:馬と人間の歴史:馬の伝来から鎌倉時代まで 北海道庁日高振興局 地域政策部 地域政策課
- ^ 百済の技術も使った。
- ^ 山内邦夫 1967, p. 184-185.
- ^ 『軍毅についての一考察』, p. 9.
- ^ 下向井龍彦『軍縮と軍拡の奈良時代』。歴博:71号、1995年
- ^ 『続日本紀』聖武天皇 天平4年8月17日条
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- ^ 橋本裕著『律令軍団制の研究』、増補(律令軍団制と騎兵)。吉川弘文館(1990年)ISBN 978-4642022446
- ^ 養老令第十七軍防令 第七 備戎具条
- ^ 養老令第十七軍防令 第十 軍団条
- ^ 養老令第十七軍防令 第五 隊伍条
- ^ 近藤好和著『騎兵と歩兵の中世史』 吉川弘文館((2004年)、ISBN 978-4642055840
- ^ 『天平六年出雲国計会帳』に熊谷団兵士の紀打原直忍熊と意宇団兵士の蝮部臣稲主が「歩射馬槍試練」を受けたとの記述がある。
- ^ 『続日本紀』天平12年11月5日条
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- ^ 下向井龍彦、『国衙と武士』(「岩波講座 日本通史 第6巻 古代5」所載)、岩波書店、1995年、ISBN 4000105566
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- ^ 三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館、2007年、序章「一一八〇年代の内乱と鎌倉幕府体制の形成」
- ^ 呉座勇一『戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか』新潮社(2014年)、ISBN 978-4106037399
- ^ 浅井三代記による。ただ同書は同時代ではなく元禄期に書かれたものである。
- ^ 久保田正志著『日本の軍事革命』、錦正社、2008年。当時の日本の馬は小型で、また調教が十分でなく多頭立ての馬匹索引ができなかった。このため大砲はソリに乗せて人間が運搬していた。
- ^ 『天草騒動』、(『古今武家盛衰記』)等。坂口安吾の『島原の乱雑記』この説を採用している。
- ^ 山室恭子著『黄金太閤―夢を演じた天下びと』中央公論社、1992年、P72。ISBN 978-4121011053
- ^ 小瀬甫庵著『太閤記』巻十。
- ^ 小瀬甫庵著『太閤記』巻十二。
- ^ 『川角太閤記』三下
- ^ 『文禄二年二月十八日付豊臣秀吉朱印状』
- ^ 荻生徂徠著 『鈐録 巻之六 行軍』 該当箇所はPDFの35ページ(要登録) [リンク切れ]
- ^ 二条城サイト-日本の城の歴史
- ^ 東京大学資料編纂所 日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之四(下)
- ^ 例えば、ハインリヒ・フォン・ブラント著、高野長英翻訳の『三兵答古知幾(さんぺいたくちき)』等。
- ^ 朴 栄濬著 04 Page Not Found 『海軍の誕生と近代日本』 SGRAレポート第19号[リンク切れ]
朴栄濬『海軍の誕生と近代日本 : 東アジアにおける近代国家変容の軍事的基礎に関する一研究』東京大学〈博士(学術) 甲第17539号〉、2002年。 NAID 500000290021 。 - ^ Paine 2003, pp. 3.
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国造軍
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古墳時代・飛鳥時代の日本の軍隊は歴史学で国造軍と呼ばれ、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成した。7世紀半ばまで続いた。倭・高句麗戦争、白村江の戦い(663年)へも出征した。
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国造軍
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3世紀から始まるとされる古墳時代になると、「王」(きみ)や「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の首長を中心として、いくつかの有力氏族(豪族)が連合して『ヤマト(倭)王権』が成立し徐々に拡大していった。 地方豪族は倭王権に服し、国造に任命され指定地域の支配権が認められた。いくつかの国造は、倭王権が中央豪族を派遣した場合もあった。国造は軍事権・裁判権など広い範囲で自治権を認められており、その兵力は従者や隷下の人民を武装させて編成したもので、歴史学で国造軍と呼ばれ、飛鳥時代まで続いた。 倭は朝鮮半島に対して、鉄素材や軍事物資などを入手する必要上、政治的・軍事的な関与を志向した。4世紀末から5世紀初には、百済との同盟関係を構築して、新羅、高句麗の軍勢と戦ったことが記録されている(好太王碑)。また、倭は朝鮮半島南部の任那に、何らかの権益を持っていたと考えられている。 これらの外征には国造軍を連合させ派遣したが、指揮統制の問題や、豪族自身の不満などもあり、統一された軍隊とは言い難かった。 地方豪族の中には、国造として支配地域を指定されたり、外征に動員されたりすることへの不満を持つものもあった。これから生じた倭王権への反乱の例としては、九州の筑紫君磐井による磐井の乱(日本書紀によると527年~528年)があった。この磐井の乱は物部麁鹿火によって鎮圧された。 物部氏は一族に多くの国造を持つ有力軍事氏族であった。また王権の直轄兵的な役割を果たした大伴氏も有力な軍事氏族であった。物部氏は6世紀の終わりには蘇我氏との争いに敗れて没落するが(丁未の乱)、大伴氏は、平安時代初期の桓武朝においても、大伴弟麻呂が初代征夷大将軍となって蝦夷との戦いに出征している。 古墳時代には、防御武具(甲冑)として鉄製の板甲(帯金式甲冑、短甲とも)と冑(衝角付冑・眉庇付冑)が出現した。板甲は6世紀には出土遺物としては見られなくなり、騎乗に適した札甲(挂甲とも)に代わられている。なお、古墳時代の甲については、末永雅雄の体系的な研究以来、板造りのものを「短甲」、小札造りのものを「挂甲」と呼ぶことが一般化しているが、これは後の奈良時代の文献史料に見える奈良時代甲冑の名称を便宜的に当てはめたもので、今日の研究では古墳時代考古資料の甲冑と、奈良時代文献史料の「短甲・挂甲」という語が示す甲冑とが形態的・構造的に一致していないことが解ってきたため、古墳時代の甲は「板甲・札甲(小札甲)」と呼ぶべきとの指摘が出てきている。 3-4世紀の遺跡からは木製の盾が出土しており、5世紀頃になると鉄製盾が登場した。 5世紀までには、国内で製鉄が可能となり、鉄製の剣や刀を生産した。 弥生時代には日本に馬はいなかったが、4世紀末から5世紀の初頭までには朝鮮半島からの協力により馬を導入し、飼育に適した国内の地を急速に開拓し軍馬の育成に力を入れた。
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