世界一周旅行とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 日本語表現辞典 > 世界一周旅行の意味・解説 

世界一周旅行


世界一周旅行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 04:16 UTC 版)

ネリー・ブライ」の記事における「世界一周旅行」の解説

1888年に、ブライジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』をモデルとして実際にリポーター世界一周させるという企画提案した。しかしこのときワールド紙は、女性の一人旅危険だとしてブライ提案認めず代わりに男性記者世界一周させる案を進めようとした。これに対してブライは、「男性出発させたら、私は他の新聞社契約して同じ日に出発しその男負かすと言った。この時は結局企画自体流れたが、それから約1年後1889年ブライ企画採用されブライがそのリポーター決定したワールド紙が企画採用した背景には、当時部数減少傾向にあり、注目されるイベント起こす必要があったことが挙げられるブライ企画採用告げられたのは1889年11月11日午後で、出発11月14日であった3日間でブライ旅行用の服を用意し支度を調えた。また、ブライパスポート持っていなかったため、ワールド社の社員国務長官ジェームズ・G・ブレイン直接依頼し出発までに仮パスポート入手した1889年11月14日に、当時25歳の彼女はニューヨーク出発し24,899マイルの旅に出た。まずはフェリーニュージャージー州ホーボーケンへと向かいホーボーケンイギリス行きのアウグスタ・ヴィクトリア号に乗った。母を含め15人ほどの見送りの中、船は9時40分に出発したこの世界一周企画出発した14日ワールド1面大々的報告された。同記事では、工程記した地図とともにブライ史上最速となる75日で地球一周すると書かれていた。この記事読んだ雑誌コスモポリタン編集者刺激を受け、やはり女性記者エリザベス・ビスランドブライ同日に世界一周旅行(ブライ東回り対し、ビスランドは西回り)に派遣した。こうしてブライとビスランドは競争する立場となったが、ブライ自身はこのことについて旅の間もしばらくは知らされなかった。 ブライ11月22日イギリスサウサンプトン着いた。ここでブライは、ジュール・ヴェルヌ夫妻から、自宅への招待の手紙が来ていることを知り予定変更して会いに行くことにした。ブライ大急ぎロンドン行きアメリカ公使館二等書記官自宅正式なパスポート発行してもらい、用事済ませるとすぐにサウサンプトン戻ってヴェルヌ夫妻の住むフランスアミアンへと向かった。そして22日夜にヴェルヌ夫妻対面したブライヴェルヌフランスアメリカのこと、ヴェルヌ著書のこと、今回旅行のことなどについて話しブライヴェルヌ書斎見せてもらったヴェルヌ会ったことはフランスはじめとして世界中で話題となり、この旅行に一層の注目を集めることになったヴェルヌ別れたブライは、カレーからインド郵便列車イタリアブリンディジ行き11月25日にアウグスタ・ヴィクトリア号でスエズ運河越えセイロン島コロンボ着いた。船の中では知り合い増え求婚されたりもした。一方本国アメリカでは12月1日からワールド紙でネリー・ブライ・レースが始まった。これは、ブライニューヨークに着く日を秒単位当てる企画で、新聞日曜版ついているクーポン記入することで参加できる1人何回でも応募できて、一等ファーストクラスでのヨーロッパ周遊旅行。この企画応募殺到しワールド紙の部数は前の週と比べて30増加したブライコロンボカレー人力車初め体験し好感持ったコロンボでは2日間過ごす予定だったが、次に乗る舟の出発遅れたため、5日滞在することとなった当初の予定よりも遅れることになったブライは、目標である75以内での世界一周果たせなくなるのではと不安になり、苛立ち見せようになった12月13日ブライオリエンタル号に乗ってセイロン島離れ17日シンガポール着いたシンガポールでは町に出かけて葬式見物し帰りに1匹のマカクザル購入した。これは、この旅における数少ない大きな買い物で、後にマスコミではブライの旅のシンボル1つとして扱われるようになった12月23日オリエンタル号は香港着いた航海は順調で、コロンボでの遅れを取り戻していた。この場所でブライは、もう1人女性エリザベス・ビスランド)も世界一周挑戦していることを初め聞かされ、しかも、ビスランドはすでにここを出発しておりブライ負けることになるだろうと告げられた。香港では船の都合5日滞在しその間広州へと出かけたりヴィクトリア・ピークに登ったりした。そののち日本5日滞在し横浜東京鎌倉などを観光した。日本の印象すこぶるよかったようで、帰国後に出版した旅行記の中で、日本のことを「愛と美と詩と清潔の国(the land of love-beauty-poetry-cleanliness)」と評し見聞きしたことや人々にいかに魅了されたかを綴っている。 日本滞在後は、横浜から出発する蒸気船オセアニック号に乗りサンフランシスコ目指した。航海中は暴風雨見舞われた。船上では、嵐の原因ブライ持ち込んだサルではないかという説が出たが、航海士協力もあってサル手放さず済んだ。 船は1890年1月21日サンフランシスコ着いた。しかしこのとき、アメリカ西部は大吹雪のため、ほとんどの列車運行できない態となっていた。ワールド社は仕方なくサザン・パシフィック鉄道対し南部を走る臨時列車を出すよう依頼し大金支払うことで認められた。アメリカ本土着いたブライ大歓迎受けた本土横断中も歓迎を受け続け、駅に着くたびに見物客集まった人々歓声上げフォスターの「ネリー・ブライ」が何度も演奏された。ブライ列車から帽子振って応え求められるサイン握手にも応じた列車特別ダイヤのため工事中を通ることもあり、そのとき列車落ち危険性もあった。列車シカゴ経由しユニオン駅乗り換えた1月25日フィラデルフィアブロード・ストリート駅(en:Broad Street Station (Philadelphia))に着き、ここでワールド紙の編集局長ジュリアス・チェインバーズと、ブライの母メアリー・ジェーン・コクランと再会した2人ここからブライ同行した15時5144秒、ブライジャージーシティ列車から降り、旅は終わった降りた瞬間計時係がストップウォッチ押して正確な時間測定した。町には祝砲鳴り響きブライ到着は、大歓声の中で迎えられた。 ブライ世界一周要した時間72日と6時1114秒だった。ビスランドは76日を要したためブライ上回ることはできなかった。ブライ旅行地球一周世界記録であったが、数か月後、62日で世界一周成し遂げたジョージ・フランシス・トレイン(英語版)によってこの記録破られた。

※この「世界一周旅行」の解説は、「ネリー・ブライ」の解説の一部です。
「世界一周旅行」を含む「ネリー・ブライ」の記事については、「ネリー・ブライ」の概要を参照ください。


世界一周旅行 (第2回目の世界旅行)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 21:57 UTC 版)

中田重治」の記事における「世界一周旅行 (第2回目世界旅行)」の解説

1906年明治39年始め中田霊的に常な不安を覚えた。それで、欧米クリスチャンと交わることによって飢え渇き満たそうと世界一周旅行を計画した

※この「世界一周旅行 (第2回目の世界旅行)」の解説は、「中田重治」の解説の一部です。
「世界一周旅行 (第2回目の世界旅行)」を含む「中田重治」の記事については、「中田重治」の概要を参照ください。


世界一周旅行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 09:32 UTC 版)

エリザベス・ビスランド」の記事における「世界一周旅行」の解説

1889年11月ニューヨーク・ワールドは、ジュール・ヴェルヌ小説八十日間世界一周』の主人公フィリアス・フォッグ英語版)による80日間空想旅行上回る試みとして、ネリー・ブライ記者世界一周派遣する発表した。この耳目を集める宣伝を受け、創刊から3年しか経っていない雑誌コスモポリタン』を買収したばかりのジョン・ブリスベン・ウォーカー(英語版)は、ビスランドを急ぎ旅行派遣することを決める。呼ばれてから6時間後にビスランドはニューヨークから西へ向けて出発した一方ブライ蒸気船乗って1889年11月14日(ビスランドと同じ日)に東向き出発した彼女たち旅行熱心に報じられたが、ブライ人気があったニューヨーク・ワールドセンセーショナルに取り上げられる支援受けた一方、ビスランドは同紙ではほとんど無視されたことで、ビスランドおよび月刊誌に過ぎない上に上品なコスモポリタン』よりも多く注目を集めるようになった80日間期限挑んでいたブライは、12月25日香港到着するまで、ライバル存在知らなかった。その地でオクシデンタル&オリエンタル汽船会社社員が、ビスランドが3日先に通ったのでブライ負けるだろうと告げた。 しかし最終的にブライはビスランドに打ち勝った致命的だったのは、イングランドでビスランドは雑誌社船会社金品贈って船の出発遅らせたにもかかわらず予定していたドイツ高速汽船エムス号」に乗り遅れてサウサンプトン取り残されと言われおそらくはそれを信じた。彼女が故意欺かれたのかどうか不明である。 ビスランドは速度の遅い「ボスニア号」に乗ることを余儀なくされ、1月18日アイルランドクイーンズランド現在のコーヴ)から出発したが、ブライ優位に立っていた。 ブライその間、特別仕立て列車に乗ってアメリカ大陸横断し1890年1月25日15時51分に終着点ニュージャージー州到着して72日と6時11分(雑誌ワールド』が彼女の到着時間当てるコンテスト実施したため、正確な時間測定された)で世界一周旅行を達成した。ビスランドの船は1月30日までにニューヨーク到達しなかったが、結局76日半で旅行完遂しフォッグによる架空記録上回った。 ビスランドは『コスモポリタン』誌に旅行記連載し、それは後に単行本『In Seven Stages: A Flying Trip Around The World』(1891年)として刊行された。日本には2日滞在し東照宮見て感嘆し「我もアルカディアにありき」と記した

※この「世界一周旅行」の解説は、「エリザベス・ビスランド」の解説の一部です。
「世界一周旅行」を含む「エリザベス・ビスランド」の記事については、「エリザベス・ビスランド」の概要を参照ください。


世界一周旅行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/22 06:50 UTC 版)

ラフミ・コチ」の記事における「世界一周旅行」の解説

ヨット「ナゼニン4号と共にフェネルバフチェマリーナから2004年9月19日出航したラフミ・コチは約2年にも及ぶ世界旅行始めた。657日に及ぶ28,250マイル航海経て5大陸旅しアテネコリントジブラルタル海峡カナリア諸島そして、大西洋へと出た。そしてパナマ運河から太平洋へ抜けたガラパゴス諸島ニュージーランドオーストラリアシンガポールプーケット島シンガポールスリランカインドバスラ湾、スエズ運河サイド港、サモス、ミッディリ、チャナッカレボスフォラス海峡イスタンブールへと戻りフェネルバフチェマリーナ帰港した

※この「世界一周旅行」の解説は、「ラフミ・コチ」の解説の一部です。
「世界一周旅行」を含む「ラフミ・コチ」の記事については、「ラフミ・コチ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「世界一周旅行」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「世界一周旅行」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「世界一周旅行」の関連用語

世界一周旅行のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



世界一周旅行のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
実用日本語表現辞典実用日本語表現辞典
Copyright © 2024実用日本語表現辞典 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのネリー・ブライ (改訂履歴)、中田重治 (改訂履歴)、エリザベス・ビスランド (改訂履歴)、ラフミ・コチ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS