メロビング‐ちょう〔‐テウ〕【メロビング朝】
メロヴィング朝
メロヴィング朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
4世紀後半より始まる本格的なゲルマン人の大移動にともない、ゲルマン人の一派であるフランク人がガリアに定住した。フランク人らは、狩猟と牧畜を主とし、数年ほどの定住の後に、移住を行う生活を繰り返していた。フランク人は、ガリア征服前のケルト人に似て、サリ族とリブアリ族といったいくつかの部族に分かれ、部族ごとに王と戦士を持っていた。また彼らは「サリカ法典」や「リブアリ法典」などの、ラテン語で書かれた部族の規則を持っていた。こうしたフランク人に関する記録は、4世紀に書かれた史書「皇帝伝」の中に収録されているローマ軍の進軍歌が最初で、260年代にローマ軍がフランク人に勝利した旨を歌った内容であった。 470年にはフランク族のキルデリク1世がパリを包囲する。この包囲戦は10年に及び、やがて481年、キルデリク1世が没すると、弱冠15歳で部族の王となったクローヴィスはこの包囲戦を経て、聖ジュヌヴィエーヴとの合意を取り交わし、パリを支配下に置く。その後、フランク諸族を統一しメロヴィング朝フランク王国を建国すると、旧ローマ帝国領であるガリアの現住民がカトリックを信仰していたことや、ローマ化が早かったブルグンド王や西ゴート王といった他のゲルマン民族がアリウス派を受け入れていたことに対して、ローマ化が遅かったこともあり、またランスの司教聖レミギウスや、敬虔なカトリック信者であった妻クロチルダらのすすめから、統治を円滑に行うことも狙って、クローヴィスは3000人ほどの従士らとともに正統派のアタナシウス派に改宗し、カトリックを受容した。 507年、クローヴィスは長年より戦役が続いていたアラリック率いる西ゴート王国を撃破し、ボルドー、オーヴェルニュ、トゥールーズ地方などを獲得する。クローヴィスとその息子キルデベルトの治世では、政治的な影響力に加え、宗教的な影響力も増大し、パリには多く教会や修道院が建設された。またこの時代にはクローヴィスの頃より対立関係にあったブルグンド王国への侵攻が523年より始まる。 メロヴィング朝においては、王国を家の財産とみなし、当主の没後、その土地を分割相続する慣習があったことから、王国が統一を保っていたのはごく短期間のうちであった。クローヴィスには4人の子供がいたため、国土は4つに分割された。 6世紀後半にはアウストラシア、ネウストリア、ブルグンドの3つに国が別れ、それぞれが王を称した。また各地では地方豪族が影響を強めた。 7世紀後半にネストリアを治めていたクロタール2世はこの三国に対して宮宰を設置し、この宮宰を通じて三国の統一を試みた。 こうした分割相続によって不安定化していく王国と、それらを連絡し、統率を図る権限を持つ宮宰は力を強め、中でもカロリング家が台頭していく。特にカロリング家のピピン2世は三王国の争いを利用し、それぞれの国の宮宰職を独占した。8世紀前半の宮宰カール・マルテルは、イベリア半島からヨーロッパ進出を図っていたイスラーム勢力(ウマイヤ朝)をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破し、キリスト教世界の守護者としてその名声を高めた。しかしマルテルは、メロヴィング家の王位の空白を空白を良い事に、宮宰として傍若無人に振る舞い、有力貴族の反感を買った。
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メロヴィング朝
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カストルムという言葉は、政治的、宗教的、軍事的に意志決定が行われる中枢をおさめた、要塞化複合体を示す。メロヴィング朝期のカストルムの存在は7世紀に証明されている。ユゼルシュの黄金でスー金貨を鋳造していたのである · 。この管理部門は9世紀にもまだ健在で、ユゼルシュはかつて、助任司祭が治めるよう分割された行政区である、助任司祭管轄区であった。助任司祭管轄区は、リモージュ伯が権利を委任していた。ユゼルシュはまた異教崇拝の中心であった。 王とローマ教皇の両方から許可を得て、10世紀に修道院の建設が始まり、多くの寄進が行われて非常に豊かになった。修道院の周囲に町が形作られた。修道院長の権限はユゼルシュの町の隅々、周辺地域、領主として治める土地に響き渡った。修道士は100人いた。こうした場所では、住民は全て修道院長の臣下であり、修道院長自身は王直属の家臣であった。教皇ウルバヌス2世は、第一回十字軍の準備のため隠者ピエールの十字軍宣伝活動が行われたクレルモン=フェランを訪問し、1095年にユゼルシュにも立ち寄った。教皇はユゼルシュ近郊生まれのモーリス・ブールダンという名の修道士を知った。ブールダンは1118年から1121年の間、グレゴリウス8世の名で対立教皇となる。 ベネディクト会派の修道院は強力で豊かであり、12世紀から13世紀に黄金時代に達した。今も残るサン・ピエール教会はかつてのサン・ピエール修道院の付属教会であり、リムーザンのロマネスク芸術の重要な文化財である。そして聖人の地下納骨堂には、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の巡礼者たちから崇敬を受ける2人のブルトン人司教、聖レオンと聖コロナの遺体が含まれている。
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メロヴィング朝
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「ブルグント王の一覧」の記事における「メロヴィング朝」の解説
クロタール1世(534年 - 561年、南部) - 最終的にはフランク王国全体を統治した。キルデベルト1世(534年 - 558年、中部) テウデバルト1世(英語版)(534年 - 548年、北部) グントラム(561年 - 592年) キルデベルト2世(英語版)(592年 - 595年) テウデリク2世(英語版)(595年 - 613年) シギベルト2世(英語版)(613年) クロタール2世(613年 - 629年) - この王以降、一つの王のもとでネウストリアと統一されたが、行政は分割された(613年 - 751年)。 ダゴベルト1世(629年 - 639年) クロヴィス2世(639年 - 658年) クロタール3世(658年 - 673年) キルデリク2世(673年 - 675年) テウデリク3世(679年 - 690年) クロヴィス4世(690年 - 694年) キルデベルト3世(694年 - 711年) ダゴベルト3世(711年 - 715年) キルペリク2世(715年 - 721年) テウデリク4世(721年 - 737年) 空位(737年 - 743年) - フランク王位と同時に空位となった。 キルデリク3世(743年 - 751年)
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メロヴィング朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 15:54 UTC 版)
6世紀後半からフランク王国は、ネウストリア、アウストラシア、ブルグントの各王国に明確に分割された。ソワソンまたはパリからネウストリアを治めた初期の王らはここでは除外されている。 クロタール2世, 584年–629年 ダゴベルト1世, 629年–639年 クロヴィス2世, 639年–657年 クロタール3世, 657年–673年 テウデリク3世, 673年 キルデリク2世, 673年–675年 テウデリク3世, 675年–691年 クロヴィス4世, 691年–695年 キルデベルト3世, 695年–711年 ダゴベルト3世, 711年–715年 キルペリク2世, 715年–721年 テウデリク4世, 721年–737年 キルデリク3世, 743年–751年
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メロヴィング朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 15:54 UTC 版)
クロヴィス1世の子孫らによって定期的に領土再分割がなされた結果、200年以上の間多くの王侯が現れることになり、アウストラシアとともにネウストリアもほぼ定期的に戦禍に見舞われた。 相次ぐ戦争にもかかわらず、ネウストリアとアウストラシアは数回事実上の再統合を経験している。最初は558年から562年まで治めたクロタール1世時代であった。ネウストリア王妃フレデグンド(キルペリック1世妃)と、彼女の息子の新しい王クロタール2世とがアウストラシアの王妃ブリュンヒルダとの勢力争いを続けたことが苦い戦争を勃発させた。 フレデグンドが死に、サン=ドニ大聖堂に埋葬されると(597年)、クロタール2世はアウストラシア王妃ブリュンヒルダとの抗争を続け、ブリュンヒルダが家臣に裏切られた613年についにクロタール2世が勝利した。クロタールはブリュンヒルダを拷問台に縛り付け3日間放置させ、その後4頭の馬の間に鎖でつながせ、四肢を八つ裂きにした。クロタールはアウストラシアとネウストリアの統合を達成したが、これは短期間で終わった。 ダゴベルト1世(在位:628年-637年)時代、進行中の一族間の戦争がそれとは別の一時的な統合をもたらした。アウストラシアでアルヌルフ家の宮宰大グリモアルドが君主に対してクーデターを起こした。(グリモアルドの息子キルデベルトをシギベルト3世の養子にしたが、シギベルト3世に、偶然ダゴベルト2世が生まれたため、ダゴベルトをアイルランドの修道院などに追放しようとしていた)。ネウストリアの王でシギベルトの弟クロヴィス2世は大グリモアルドを排除し、王国をネウストリアへ再統合した。しかし一時的なものであった。クロヴィス2世の子クロタール3世の治世後、ネウストリアの王家は、以前のアウストラシアの王家同様、自身の宮宰に対し権限を割譲した。 678年、宮宰エブロインの治下にあったネウストリアはアウストラシアを征服した。エブロインは681年に殺害され、684年にエブロイン自身の土地であるポワティエの司教アンソワルドは、エブロイン最大の敵であった聖レオデガー(679年に殉教)に自らの命を託した。687年、アウストラシアの宮宰ピピン2世はトルトリー(現在ソンム県のコミューン)でネウストリアを破り、今度はアウストラシアの側からアウストラシアとネウストリアを統合した。アウストラシアで暮らしていた年代記作者らは、自分たちの宮宰ピピン2世へさらに忠義を示した。 ピピンの子孫たち、カロリング朝の人々は、宮宰として2つの王国を支配し続けた。ローマ教皇ステファヌス2世の祝福を受け、751年以降カロリング朝のピピン3世は正式にメロヴィング朝を王座から追放し、帝国の実権を掌握し、彼と彼の子孫らが王として支配した。 ネウストリア、アウストラシア、そしてブルグントは一つの権力の元で統合するようになり、ネウストリア、アウストラシアの名前は次第に消滅していった。
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