メロヴィング朝とは? わかりやすく解説

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メロビング‐ちょう〔‐テウ〕【メロビング朝】


メロヴィング朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/12 09:26 UTC 版)

メロヴィング朝(メロヴィングちょう、: Mérovingiens, : Merowinger, : Merovingian dynasty)は、ゲルマン人(西ゲルマン)であるフランク族の支族のサリ族が築いたフランク王国における最初の王朝である。




「メロヴィング朝」の続きの解説一覧

メロヴィング朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)

フランスの歴史」の記事における「メロヴィング朝」の解説

4世紀後半より始まる本格的なゲルマン人大移動にともないゲルマン人一派であるフランク人ガリア定住したフランク人らは、狩猟牧畜を主とし、数年ほどの定住の後に、移住を行う生活を繰り返していた。フランク人は、ガリア征服前のケルト人似てサリ族とリブアリ族といったいくつかの部族分かれ部族ごとに王と戦士持っていた。また彼らは「サリカ法典」や「リブアリ法典」などの、ラテン語書かれ部族規則持っていた。こうしたフランク人に関する記録は、4世紀書かれ史書「皇帝伝」中に収録されているローマ軍進軍歌最初で、260年代ローマ軍フランク人勝利した旨を歌った内容であった470年にはフランク族キルデリク1世パリ包囲する。この包囲戦10年に及び、やがて481年キルデリク1世没すると、弱冠15歳部族の王となったクローヴィスはこの包囲戦経て、聖ジュヌヴィエーヴとの合意取り交わしパリ支配下に置く。その後フランク諸族を統一しメロヴィング朝フランク王国建国すると、旧ローマ帝国領であるガリア現住民がカトリック信仰していたことや、ローマ化早かったブルグンド王西ゴート王といった他のゲルマン民族アリウス派受け入れていたことに対してローマ化遅かったこともあり、またランス司教聖レミギウスや、敬虔なカトリック信者であったクロチルダらのすすめから、統治円滑に行うことも狙ってクローヴィス3000人ほどの従士とともに正統派アタナシウス派改宗しカトリック受容した。 507年クローヴィス長年より戦役続いていたアラリック率い西ゴート王国撃破しボルドーオーヴェルニュトゥールーズ地方などを獲得するクローヴィスとその息子キルデベルト治世では、政治的な影響力に加え宗教的な影響力増大しパリには多く教会修道院建設された。またこの時代にはクローヴィスの頃より対立関係にあったブルグンド王国への侵攻523年より始まる。 メロヴィング朝においては王国を家の財産とみなし、当主没後、その土地分割相続する慣習があったことから、王国統一保っていたのはごく短期間のうちであったクローヴィスには4人の子供がいたため、国土4つ分割された。 6世紀後半にはアウストラシアネウストリアブルグンド3つに国が別れそれぞれが王を称した。また各地では地方豪族影響強めた7世紀後半ネストリア治めていたクロタール2世はこの三国に対して宮宰設置し、この宮宰通じて三国統一試みたこうした分割相続によって不安定化していく王国と、それらを連絡し統率を図る権限を持つ宮宰は力を強め中でもカロリング家台頭していく。特にカロリング家ピピン2世三王国の争い利用しそれぞれの国の宮宰職を独占した8世紀前半宮宰カール・マルテルは、イベリア半島からヨーロッパ進出図っていたイスラーム勢力ウマイヤ朝)をトゥール・ポワティエ間の戦い撃破しキリスト教世界守護者としてその名声高めた。しかしマルテルは、メロヴィング家王位空白空白良い事に、宮宰として傍若無人に振る舞い、有力貴族反感を買った

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メロヴィング朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 07:28 UTC 版)

ユゼルシュ」の記事における「メロヴィング朝」の解説

カストルムという言葉は、政治的宗教的軍事的に意志決定が行われる中枢おさめた要塞化複合体を示す。メロヴィング朝期のカストルム存在7世紀証明されている。ユゼルシュ黄金スー金貨鋳造していたのである · 。この管理部門9世紀にもまだ健在で、ユゼルシュはかつて、助任司祭治めるよう分割された行政区である、助任司祭管轄区であった助任司祭管轄区は、リモージュ伯が権利委任していた。ユゼルシュはまた異教崇拝中心であった。 王とローマ教皇両方から許可得て10世紀修道院建設始まり多く寄進が行われて非常に豊かになった。修道院周囲に町が形作られた。修道院長権限ユゼルシュの町の隅々周辺地域領主として治め土地響き渡った修道士100人いた。こうした場所では、住民全て修道院長臣下であり、修道院長自身王直属の家臣であった教皇ウルバヌス2世は、第一回十字軍準備のため隠者ピエール十字軍宣伝活動が行われたクレルモン=フェラン訪問し1095年ユゼルシュにも立ち寄った教皇ユゼルシュ近郊生まれのモーリス・ブールダンという名の修道士知った。ブールダンは1118年から1121年の間、グレゴリウス8世の名で対立教皇となる。 ベネディクト会派の修道院は強力で豊かであり、12世紀から13世紀黄金時代達した。今も残るサン・ピエール教会はかつてのサン・ピエール修道院付属教会であり、リムーザンロマネスク芸術重要な文化財である。そして聖人地下納骨堂には、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路巡礼者たちから崇敬を受ける2人ブルトン人司教、聖レオンと聖コロナ遺体含まれている。

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メロヴィング朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 08:10 UTC 版)

ブルグント王の一覧」の記事における「メロヴィング朝」の解説

クロタール1世534年 - 561年南部) - 最終的にフランク王国全体統治したキルデベルト1世534年 - 558年中部) テウデバルト1世英語版)(534年 - 548年北部グントラム561年 - 592年キルデベルト2世英語版)(592年 - 595年テウデリク2世英語版)(595年 - 613年) シギベルト2世英語版)(613年クロタール2世613年 - 629年) - この王以降一つの王のもとでネウストリア統一されたが、行政分割された(613年 - 751年)。 ダゴベルト1世629年 - 639年クロヴィス2世639年 - 658年クロタール3世658年 - 673年キルデリク2世673年 - 675年テウデリク3世679年 - 690年クロヴィス4世690年 - 694年キルデベルト3世694年 - 711年ダゴベルト3世711年 - 715年キルペリク2世715年 - 721年テウデリク4世721年 - 737年空位737年 - 743年) - フランク王位と同時に空位となったキルデリク3世743年 - 751年

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メロヴィング朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 15:54 UTC 版)

ネウストリア」の記事における「メロヴィング朝」の解説

6世紀後半からフランク王国は、ネウストリアアウストラシアブルグントの各王国明確に分割された。ソワソンまたはパリからネウストリア治めた初期の王らはここでは除外されている。 クロタール2世, 584年629年 ダゴベルト1世, 629年639年 クロヴィス2世, 639年657年 クロタール3世, 657年673年 テウデリク3世, 673年 キルデリク2世, 673年675年 テウデリク3世, 675年691年 クロヴィス4世, 691年695年 キルデベルト3世, 695年711年 ダゴベルト3世, 711年715年 キルペリク2世, 715年721年 テウデリク4世, 721年737年 キルデリク3世, 743年751年

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メロヴィング朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 15:54 UTC 版)

ネウストリア」の記事における「メロヴィング朝」の解説

クロヴィス1世の子孫らによって定期的に領土再分割なされた結果200年上の間多く王侯現れることになり、アウストラシアとともにネウストリアもほぼ定期的に戦禍見舞われた。 相次ぐ戦争にもかかわらずネウストリアアウストラシア数回事実上再統合経験している。最初558年から562年まで治めたクロタール1世時代であったネウストリア王妃フレデグンドキルペリック1世妃)と、彼女の息子新しい王クロタール2世とがアウストラシア王妃ブリュンヒルダとの勢力争い続けたことが苦い戦争勃発させた。 フレデグンド死にサン=ドニ大聖堂埋葬されると(597年)、クロタール2世アウストラシア王妃ブリュンヒルダとの抗争続けブリュンヒルダ家臣裏切られ613年についにクロタール2世勝利したクロタールブリュンヒルダ拷問台縛り付け3日放置させ、その後4頭の馬の間に鎖でつながせ、四肢八つ裂きにした。クロタールアウストラシアネウストリア統合達成したが、これは短期間終わったダゴベルト1世在位:628年-637年時代進行中一族間の戦争がそれとは別の一時的な統合もたらしたアウストラシアアルヌルフ家の宮宰大グリモアルドが君主に対してクーデター起こした。(グリモアルドの息子キルデベルトをシギベルト3世養子にしたが、シギベルト3世に、偶然ダゴベルト2世生まれたため、ダゴベルトアイルランド修道院などに追放しようとしていた)。ネウストリアの王でシギベルトの弟クロヴィス2世は大グリモアルドを排除し王国ネウストリア再統合した。しかし一時的なものであったクロヴィス2世の子クロタール3世治世後、ネウストリア王家は、以前アウストラシア王家同様、自身宮宰対し権限割譲した678年宮宰エブロイン治下にあったネウストリアアウストラシア征服したエブロイン681年殺害され684年エブロイン自身土地であるポワティエ司教アンソワルドは、エブロイン最大の敵であった聖レオデガー(679年殉教)に自らの命を託した687年アウストラシア宮宰ピピン2世はトルトリー(現在ソンム県コミューン)でネウストリア破り今度アウストラシア側からアウストラシアネウストリア統合したアウストラシア暮らしていた年代記作者らは、自分たちの宮宰ピピン2世へさらに忠義示したピピンの子孫たちカロリング朝人々は、宮宰として2つ王国支配し続けたローマ教皇ステファヌス2世祝福を受け、751年以降カロリング朝ピピン3世正式にメロヴィング朝を王座から追放し帝国実権掌握し、彼と彼の子孫らが王として支配したネウストリアアウストラシア、そしてブルグント一つ権力の元で統合するようになり、ネウストリアアウストラシアの名前は次第消滅していった。

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