ヴァロワ朝とは? わかりやすく解説

ヴァロワ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 02:57 UTC 版)

ヴァロワ朝(ヴァロワちょう、フランス語: dynastie des Valois)は、中世フランス王国王朝1328年から1589年まで続いた。


  1. ^ ポーランド王リトアニア大公(1573年–1575年)を兼ねる


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ヴァロワ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:09 UTC 版)

パリ」の記事における「ヴァロワ朝」の解説

1328年カペー朝断絶したことなどを契機とする百年戦争最中パリ商人頭となったエティエンヌ・マルセルは王に匹敵する権力持ち、王と対立したシャルル5世は、1356年から1383年にかけて新たな城壁シャルル5世城壁)を築いて市域拡大させ、1370年サン=タントワーヌ要塞(のちのバスティーユ牢獄)を築いたまた、ルーヴル宮殿王宮とした。 15世紀初めにおいても、パリ支配権と王および王族確保めぐってオルレアン派(のちにアルマニャック伯頼って同盟したアルマニャック派)とブルゴーニュ派との対立である百年戦争が、イングランドをも巻き込んで続いていた。ジャンヌ・ダルク活躍などもあり、1435年アラスの和約ブルゴーニュ派和解して勢力伸ばしたシャルル7世率いフランス軍1436年パリ奪還し、翌1437年改めパリ首都定められた。その後1453年フランスにおけるイングランド領の大半陥落したことにより、百年戦争終結した百年戦争後のパリ人口10万程度にまで減少していた。 この後フランス王パリには住まずブロワ城アンボワーズ城などのロワール渓谷の城を好んだ。特にフランソワ1世は、ロワールシャンボール城築いたほか、パリ近郊フォンテーヌブロー宮殿発展させた。もっともフランソワ1世は、公式的には1528年パリ居城定めたパリでは学術発展しコレージュ・ド・フランスにおいて、大学教育課程理論リベラルアーツ)が近代教育課程加えられ、王が望んだ人文主義正確な科学研究されるようになった16世紀後半ユグノー戦争時代にはパリカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺起こってプロテスタント殺害されるなどした。シャルル9世継いだアンリ3世平和的な解決模索したが、民衆反乱しバリケードの日呼ばれる1588年5月12日アンリ3世強制追放した。このときからパリは、16区総代会Seize)という組織によって統治されるようになったその後カトリック派からの反発招いたアンリ3世暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した

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ヴァロワ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 05:57 UTC 版)

パリの歴史」の記事における「ヴァロワ朝」の解説

詳細は「ヴァロワ朝」を参照 1328年カペー朝直系断絶しヴァロワ家フィリップ6世フランス王即位した(ヴァロワ朝)。しかし、フィリップ4世の孫にあたるイングランド王エドワード3世は、自らこそフランス王位継承者であると主張し両国の間で百年戦争勃発したその後ペストの大流行起こったパリ14世紀歴史は、このような疫病政争、さらに大衆反乱断続した。1357年パリ商人頭であったエティエンヌ・マルセルは、君主の力を抑え都市1347年初めパリ開かれた三部会特権得られるように、商人反乱主導した当初君主の側は譲歩したが、1358年パリは王の軍によって奪還され、エティエンヌ・マルセルとその支持者殺害された。 この後シャルル5世反乱備えた防御行い外敵備えた新たな市壁建設され、またパリ市民統制するためバスティーユ牢獄作られた。1382年シャルル6世時代に、重税対す反乱起こったが、すぐに暴力的に鎮圧された。これに伴いパリは、それまで有していた特権を失うことになった1407年シャルル6世従弟ブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)によって王弟オルレアン公ルイ・ド・ヴァロワが暗殺されると、フランスでは市民戦争勃発したパリ支配王位をめぐり、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立激化したのである。無怖公の支配1413年反乱受けて終了1418年パリ奪還したのも束の間、翌1419年暗殺された。 1420年、この混乱乗じてイングランド王ヘンリー5世パリ支配した2年後1422年ヘンリー5世パリ市外のヴァンセンヌ城逝去シャルル6世息子シャルル7世1429年パリ奪還試みるが、ジャンヌ・ダルク活躍にも関わらず失敗終わったパリ包囲戦)。1431年ヘンリー5世息子ヘンリー6世パリ戴冠式行いフランス王称号受けたが、1436年シャルル7世数度攻撃失敗を経ながらもパリ奪還したパリ奪還に伴い、ヴァロワ朝の君主フランス貴族は、様々な教会記念建造物大邸宅を建設し、その権威誇示しようとした。しかしその効果乏しく後期のヴァロワ朝政権パリ居住せず、ロワール渓谷沿いやパリ周辺地方部にあるルネサンス様式城館を好むようになった。この後1世紀で、パリ人口は3倍以上に増加したフランソワ1世はヴァロワ朝の君主中でも最も影響力大きくルーブル宮殿改築しレオナルド・ダ・ヴィンチベンヴェヌート・チェッリーニ作品を含む壮麗なルネサンス様式宮殿とした。 カトリックからの厳し弾圧を受けながらプロテスタント勃興したことにより、フランス国内の各地域宗教戦争ユグノー戦争)が勃発していたが、パリもこれに巻き込まれた。パリカトリック主流とする都市だったが、プロテスタント信仰者増えており、宗教対立によって残忍な抗争生じた。その頂点となるのが、1572年8月23日サン・バルテルミの虐殺で、カトリック推定で3,000人のプロテスタント殺害したシャルル9世継いだ弟のアンリ3世平和的な解決模索したが、民衆反乱しバリケードの日呼ばれる1588年5月12日アンリ3世強制追放した。このときからパリは、16区総代会Seize)という組織によって統治されるようになった16区総代会委員は、パリ当時16区それぞれ代表していた。この会は数年前から秘密裏作られ、主に、職業発展阻害する政府既存構造への不満と、ヴァロワ朝の君主とりわけアンリ3世奪ってきたパリ伝統的特権守りたいという欲求から、反乱起こそうとしていた。貴族階級、特にギーズ公アンリ1世は、バリケード築いたパリ民衆とともに、王を追放する反乱において重要な役割果たした1588年12月23日アンリ3世ギーズ公と弟のルイ・ド・ロレーヌ暗殺させると、パリでのアンリ3世への反発はさらに大きくなった。このときパリ印刷業者は、王とその政策に関する大量反対ビラ作成した1589年8月1日アンリ3世ドミニコ会狂信的な修道士ジャック・クレマンによって暗殺され、ヴァロワ朝は終焉迎えたパリ次のブルボン朝初代の王であるアンリ4世にも敵対カトリック同盟の他都市と同様、1594年まで反対する。1590年3月14日イヴリー戦いでアンリ4世カトリック同盟勝利すると、アンリ4世パリ攻撃したパリでは貧困広がり賃金固定され物価急上昇し聖職者慈善団体によってパリ救済への祈りが行われた。こうした活動は、パリでの初期カトリック改革ということできよう1590年8月30日攻撃はついに終わったが、1590年代通じてパリ経済状態困窮し人々反乱生じた例えば、「パンか平和か(Pain ou Paix)」として、安いパンか、市政府とアンリ4世との講和どちらか要求した総代会の力は次第弱体化しカトリック同盟とくにマイエンヌシャルル、ネムール公がパリで力を持った1593年に彼らは三部会招集して、王の継承についての解決策を見いだし、アンリ4世王位に就くのを防ごうとしたが、他の後継者がいなかったためこの試みうまくいかなかった。 1594年5月14日アンリ4世市政府との連座のもとパリ入り、すぐにフランス王即位した

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