ヴァロワ朝
ヴァロワ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:09 UTC 版)
1328年にカペー朝が断絶したことなどを契機とする百年戦争の最中、パリ商人頭となったエティエンヌ・マルセルは王に匹敵する権力を持ち、王と対立した。シャルル5世は、1356年から1383年にかけて新たな城壁(シャルル5世の城壁)を築いて市域を拡大させ、1370年にサン=タントワーヌ要塞(のちのバスティーユ牢獄)を築いた。また、ルーヴル宮殿を王宮とした。 15世紀初めにおいても、パリの支配権と王および王族の確保をめぐって、オルレアン派(のちにアルマニャック伯を頼って同盟した後アルマニャック派)とブルゴーニュ派との対立である百年戦争が、イングランドをも巻き込んで続いていた。ジャンヌ・ダルクの活躍などもあり、1435年のアラスの和約でブルゴーニュ派と和解して勢力を伸ばしたシャルル7世率いるフランス軍は1436年にパリを奪還し、翌1437年に改めてパリが首都と定められた。その後、1453年にフランスにおけるイングランド領の大半が陥落したことにより、百年戦争は終結した。百年戦争後のパリの人口は10万人程度にまで減少していた。 この後もフランス王はパリには住まず、ブロワ城やアンボワーズ城などのロワール渓谷の城を好んだ。特にフランソワ1世は、ロワールにシャンボール城を築いたほか、パリ近郊にフォンテーヌブロー宮殿を発展させた。もっともフランソワ1世は、公式的には1528年にパリを居城と定めた。パリでは学術が発展し、コレージュ・ド・フランスにおいて、大学教育課程(理論とリベラルアーツ)が近代教育課程に加えられ、王が望んだ人文主義や正確な科学が研究されるようになった。 16世紀後半、ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こってプロテスタントが殺害されるなどした。シャルル9世を継いだアンリ3世は平和的な解決を模索したが、民衆は反乱し、バリケードの日と呼ばれる1588年5月12日にアンリ3世を強制追放した。このときからパリは、16区総代会(Seize)という組織によって統治されるようになった。 その後、カトリック派からの反発を招いたアンリ3世が暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。
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ヴァロワ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 05:57 UTC 版)
詳細は「ヴァロワ朝」を参照 1328年にカペー朝の直系は断絶し、ヴァロワ家のフィリップ6世がフランス王に即位した(ヴァロワ朝)。しかし、フィリップ4世の孫にあたるイングランド王エドワード3世は、自らこそフランスの王位継承者であると主張し、両国の間で百年戦争が勃発した。その後、ペストの大流行が起こった。 パリの14世紀の歴史は、このような疫病や政争、さらに大衆の反乱が断続した。1357年、パリの商人頭であったエティエンヌ・マルセルは、君主の力を抑え、都市と1347年に初めてパリで開かれた三部会が特権を得られるように、商人の反乱を主導した。当初、君主の側は譲歩したが、1358年、パリは王の軍によって奪還され、エティエンヌ・マルセルとその支持者は殺害された。 この後、シャルル5世は反乱に備えた防御を行い、外敵に備えた新たな市壁が建設され、またパリ市民を統制するためバスティーユ牢獄が作られた。1382年、シャルル6世の時代に、重税に対する反乱が起こったが、すぐに暴力的に鎮圧された。これに伴いパリは、それまで有していた特権を失うことになった。 1407年、シャルル6世の従弟のブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)によって王弟のオルレアン公ルイ・ド・ヴァロワが暗殺されると、フランスでは市民戦争が勃発した。パリの支配と王位をめぐり、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立が激化したのである。無怖公の支配は1413年に反乱を受けて終了、1418年にパリを奪還したのも束の間、翌1419年に暗殺された。 1420年、この混乱に乗じてイングランド王ヘンリー5世はパリを支配した。2年後の1422年にヘンリー5世がパリ市外のヴァンセンヌ城で逝去、シャルル6世の息子シャルル7世は1429年にパリの奪還を試みるが、ジャンヌ・ダルクの活躍にも関わらず失敗に終わった(パリ包囲戦)。1431年、ヘンリー5世の息子ヘンリー6世はパリで戴冠式を行いフランス王の称号を受けたが、1436年にシャルル7世は数度の攻撃の失敗を経ながらもパリを奪還した。 パリの奪還に伴い、ヴァロワ朝の君主とフランスの貴族は、様々な教会や記念建造物、大邸宅を建設し、その権威を誇示しようとした。しかしその効果も乏しく、後期のヴァロワ朝政権はパリに居住せず、ロワール渓谷沿いやパリ周辺の地方部にあるルネサンス様式の城館を好むようになった。この後の1世紀で、パリの人口は3倍以上に増加した。フランソワ1世はヴァロワ朝の君主の中でも最も影響力が大きく、ルーブル宮殿を改築し、レオナルド・ダ・ヴィンチやベンヴェヌート・チェッリーニの作品を含む壮麗なルネサンス様式の宮殿とした。 カトリックからの厳しい弾圧を受けながらプロテスタントが勃興したことにより、フランス国内の各地域で宗教戦争(ユグノー戦争)が勃発していたが、パリもこれに巻き込まれた。パリはカトリックを主流とする都市だったが、プロテスタントの信仰者も増えており、宗教対立によって残忍な抗争が生じた。その頂点となるのが、1572年8月23日のサン・バルテルミの虐殺で、カトリックが推定で3,000人のプロテスタントを殺害した。 シャルル9世を継いだ弟のアンリ3世は平和的な解決を模索したが、民衆は反乱し、バリケードの日と呼ばれる1588年5月12日にアンリ3世を強制追放した。このときからパリは、16区総代会(Seize)という組織によって統治されるようになった。16区総代会の委員は、パリの当時の16区それぞれを代表していた。この会は数年前から秘密裏に作られ、主に、職業の発展を阻害する政府の既存構造への不満と、ヴァロワ朝の君主とりわけアンリ3世が奪ってきたパリの伝統的特権を守りたいという欲求から、反乱を起こそうとしていた。貴族階級、特にギーズ公アンリ1世は、バリケードを築いたパリの民衆とともに、王を追放する反乱において重要な役割を果たした。 1588年12月23日、アンリ3世がギーズ公と弟のルイ・ド・ロレーヌを暗殺させると、パリでのアンリ3世への反発はさらに大きくなった。このときパリの印刷業者は、王とその政策に関する大量の反対ビラを作成した。1589年8月1日、アンリ3世はドミニコ会の狂信的な修道士ジャック・クレマンによって暗殺され、ヴァロワ朝は終焉を迎えた。 パリは次のブルボン朝初代の王であるアンリ4世にも敵対、カトリック同盟の他都市と同様、1594年まで反対する。1590年3月14日、イヴリーの戦いでアンリ4世がカトリック同盟に勝利すると、アンリ4世はパリを攻撃した。パリでは貧困が広がり、賃金が固定され、物価が急上昇し、聖職者や慈善団体によってパリの救済への祈りが行われた。こうした活動は、パリでの初期のカトリック改革ということもできよう。1590年8月30日、攻撃はついに終わったが、1590年代を通じてパリの経済状態は困窮し、人々の反乱が生じた。例えば、「パンか平和か(Pain ou Paix)」として、安いパンか、市政府とアンリ4世との講和のどちらかを要求した。 総代会の力は次第に弱体化し、カトリック同盟とくにマイエンヌ公シャルル、ネムール公がパリで力を持った。1593年に彼らは三部会を招集して、王の継承についての解決策を見いだし、アンリ4世が王位に就くのを防ごうとしたが、他の後継者がいなかったためこの試みはうまくいかなかった。 1594年5月14日、アンリ4世は市政府との連座のもとパリに入り、すぐにフランス王に即位した。
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