カペー‐ちょう〔‐テウ〕【カペー朝】
カペー朝
カペー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:09 UTC 版)
西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(のちにルーヴル宮殿に発展する)が設けられた。このころのパリは初期スコラ学の中心のひとつでもあり、11世紀ごろからパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学は特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル(Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。 12世紀にはパリ水運商人組合が結成され、のちにパリ商人頭は事実上の市長として市政を司るようになる。 13世紀になると、ルイ9世によってサント・シャペルが建築されたほか、ノートルダム大聖堂も一応の完成を見る。パリは成長を続け、セーヌ左岸も再び人口を増やしていた。王たちは次第にヴァンセンヌ城を居城とするようになったが、行政機構はシテ宮に残った。 14世紀初頭のパリの人口は約20万人と推定され、ヨーロッパ随一の都市であった。
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カペー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 05:57 UTC 版)
詳細は「カペー朝」を参照 当初、フランス国王は、パリとその周辺のイル=ド=フランス地方のみを統治していたが、次第にその領土と力を拡大した。パリは帝国の首都、学術の拠点、そして教会の拠点として重要性を増した。 12世紀にはすでに、パリの特徴が明白に現れていた。1163年にノートルダム大聖堂が作られたシテ島は政治と宗教生活の中心、左岸(セーヌ川の南側)は教会が運営する様々な学校が置かれた学術の中心であり、右岸(セーヌ川の北側)は商業と経済の中心であった。また、ハンス・パリジャン (Hanse parisienne) と呼ばれた商業組合が設立され、急速に力を持つようになった。 1180年からのフィリップ2世の治世下で、多くの建築事業が行われた。新たな市壁が建設され、ルーブル宮殿の建設が始まり、道路の舗装、パリ中心部のレ・アールへの中央市場の建設(この市場はその後、1969年まで存続)がなされた。 彼の孫のルイ9世は、その信仰の深さで知られるが、13世紀にパリを巡礼の拠点とし、シテ島へのサント・シャペル教会堂を建設し、ノートルダム大聖堂とサン=ドニ大聖堂を完成させた。このサン=ドニ大聖堂は、中世ゴシック建築の中でも見事なものの1つである。
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カペー朝(987年 - 1328年)
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「フランス君主一覧」の記事における「カペー朝(987年 - 1328年)」の解説
ユーグ・カペーの嫡流であるカペー朝は987年より1792年まで、そして1814年より1848年までフランスを支配した。ただし、1328年以降は一般的にヴァロワ朝およびブルボン朝として個別の名で呼ばれる。 肖像名在位期間先代との関係 ユーグ・カペー(Hugues Capet) 987年7月3日 996年10月24日 • ロベール1世の孫 ロベール2世(敬虔王)(Robert II le Pieux) 996年10月24日 1031年7月20日 • ユーグ・カペーの子 アンリ1世(Henri Ier) 1031年7月20日 1060年8月4日 • ロベール2世の子 フィリップ1世(Philippe Ier) 1060年8月4日 1108年7月29日 • アンリ1世の子 ルイ6世(肥満王)(Louis VI le Gros) 1108年7月29日 1137年8月1日 • フィリップ1世の子 ルイ7世(若年王)(Louis VII le Jeune) 1137年8月1日 1180年9月18日 • ルイ6世の子 フィリップ2世(尊厳王)(Philippe II Auguste) 1180年9月18日 1223年7月14日 • ルイ7世の子 ルイ8世(獅子王)(Louis VIII le Lion) 1223年7月14日 1226年11月8日 • フィリップ2世の子 ルイ9世(聖王)(Saint Louis) 1226年11月8日 1270年8月25日 • ルイ8世の子 フィリップ3世(豪胆王)(Philippe III le Hardi) 1270年8月25日 1285年10月5日 • ルイ9世の子 フィリップ4世(端麗王)(Philippe IV le Bel) 1285年10月5日 1314年11月29日 • フィリップ3世の子 ルイ10世(喧嘩王)(Louis X le Hutin) 1314年11月29日 1316年6月5日 • フィリップ4世の子 ジャン1世(遺腹王)(Jean Ier le Posthume) 1316年11月15日 1316年11月20日 • ルイ10世の子 フィリップ5世(長身王)(Philippe V le Long) 1316年11月20日 1322年1月3日 • フィリップ4世の子 • ルイ10世の弟 シャルル4世(美男王)(Charles IV le Bel) 1322年1月3日 1328年2月1日 • フィリップ4世の子 • ルイ10世・フィリップ5世の弟 上の表には含まれていないが、ロベール2世の長男ユーグ・マニュス、またルイ6世の長男フィリップは、それぞれ父と共同統治を行った。これはカペー朝初期の慣習として、王が生前に後継者を戴冠し、共同統治王として権力を共有したものの、それぞれ父王に先立ったためである。ユーグ、フィリップともに単独、または年長の王とならなかったため、伝統的にフランスの王には含めず、したがって代数を付さない。
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カペー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 23:53 UTC 版)
詳細は「カペー朝」を参照 987年に西フランク王国のルイ5世が没し、カロリング家が断絶する。同年、パリ伯であったロベール家のユーグ・カペーがカペー朝を創始した。ノルマン人の討伐で活躍したユーグ・カペーだったが、その王権は東フランク王国(ドイツ王国)などと比べても脆弱で、パリ周辺のみにしかその王権は及ばなかった。カペーのみならず、ロベール2世、アンリ1世、フィリップ1世らの最初の4代はこうした狭い領土のため、周辺の大諸侯と肩を並べるのに精一杯で、勢力の拡大や行政上の改革は難航した。しかし一方で、大胆な勢力拡大こそ見られないものの、各代が女性問題などの騒動を抱えながらも長生きし、王位継承の問題を解決していたことから、それぞれの治世が長くなるにつれ、王家は安定し始めた。5代目のルイ6世は、淫蕩で食道楽であったが、そうした汚名とは裏腹に、勢力を強めていたノルマンディー公を牽制し、政略結婚を通じて領土の拡大をするなど、王朝の発展に大きく寄与した。しかしその過程でのルイ7世とアリエノール・ダキテーヌとの離婚騒動は、イギリスとの関係悪化を招き、結果的に百年戦争の要因の一つとなった。
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