メロヴィング朝フランク
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「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「メロヴィング朝フランク」の解説
詳細は「メロヴィング朝」を参照 メロヴィング家のフランク族支配を確立したのは、サリー系フランク族のキルデリクスとその子クローヴィスである。486年にクローヴィスはローマ人のガリア軍司令官シアグリウスとソワソン付近で戦って勝利し、その支配地とした。クローヴィスは491年にテューリンゲン人を服属させ、496年にアレマン族を破り、500年にはブルグント族を、507年には西ゴート族を破りアキテーヌを支配下に収め、さらにケルンのリブアリー族を服属させ、全フランク人の王となった。これ以降200年間にわたってクローヴィス一族が王位につくメロヴィング朝が開始した。 フランク人はゲルマンの神々を信仰していたが、クローヴィスの妻クロデヒルデがアタナシウス派であり、カトリックへの帰依を夫に求めた。トゥールのグレゴリウスによると、クローヴィスは496年アレマン人との戦争中に神に助けを求めて改宗し、カトリックの洗礼を受け、主な従士も改宗した。したがってフランク王国はゲルマン諸部族のなかでは比較的早く正統信仰を受け入れた国であった。511年の死の直前にはオルレアンで公会議を開き、メロヴィング朝の教会制度が組織され、アリウス派異端への対処が話し合われた。 クローヴィスの死後王国は4人の息子たちによって分割され、息子たちはさらに領土を拡大した。息子たちのうち一人が死ぬと、その領土は生き残った国王の支配に服したので、クローヴィスの息子のうちで最後まで生き残ったクロタールが死ぬ頃(561年)には再び王国は統一されており、しかも地中海沿岸を支配していた有力なゲルマン民族国家は、ユスティニアヌス1世により滅ぼされるか打撃を受けていたため、フランク王国はゲルマン民族の間で最も有力な王国となっていた。 クロタールの王国は再びその4人の息子たちによって分割され、長男シギベルト1世には王国東部が与えられ、彼の分王国は「アウストラシア」と呼ばれた。アウストラシアの王は飛び地としてプロヴァンスを支配した。次男グントラムにはブルグントの支配が任され、三男カリベルトには王国西部を、末子キルペリク1世には王国北西部のベルギー地方が与えられた。567年にカリベルトがなくなると、その支配地は3分王国の間で分配され、キルペリク1世の分王国はノルマンディー地方にまで拡大されて「ネウストリア」と呼ばれるようになった。 613年、王国はクロタール2世により再び統一されたが、各分王国の自立性は強まっており、各分王国の貴族たちは各分国王のもとで形成されてきた政治的伝統を維持したいと考えていた。614年パリでおこなわれた教会会議の直後、クロタール2世は「パリ勅令」を公布した。この勅令は各分王国の貴族たちの要求を受け入れる形で、アウストラシアとブルグントでは宮宰を国王の代理人とするものであった。こうして各分王国で宮宰が特別な地位を認められるようになった。 クロタール2世の時代はメロヴィング朝の教会政策の転換期といえる。クロタール2世は、アウストラシアのゲルマン貴族に支持されており、アイルランド修道制を導入した修道院運動が活発化した 。一方、王妃ブルンヒルドを支持したガロ・ローマン的セナトール貴族と結びついた司教制度は衰退に向かった。これはメロヴィング朝フランク王国内の南北での教会会議の開催数の差によって確認することができる。ロワール川以南では同時期40回を数えたのに対し、アイルランド修道制が流布したロワール川以北のフランキア地方では、640年までに5回のみであり、ロワール川以北では司教活動は明らかに衰退したのである。司教の出自も、セナトール貴族中心から、7世紀を境にゲルマン貴族が目立つようになってくる。このようにゲルマン貴族が司教職に進出したことの背景の一つは、590年聖コルンバヌスによって設立されたリュクスイユ修道院がフランク貴族子弟の教育機関となって、多くのゲルマン人司教を養成することに成功したことである。クロタール2世は前述の614年「パリ勅令」において聖職叙任規定に言及し、パリ教会会議の決定に基づいて首都司教に司教の叙階権のみを認め、選出権は当該教区の聖職者と信徒の共同体に限定した。しかし、選出と叙階の間に王権による審査を経ての叙任令に基づく叙任が必要とされている。 のちのカロリング朝と違って、メロヴィング朝では多数の教養ある俗人が政府内に存在した。7世紀のクロタール2世の時代までは社会全体の識字率はカロリング朝のころよりも高く、したがってメロヴィング朝の宮廷文化はカール大帝の時代とは異なって世俗的な教養に支えられていた。フランク王国がゲルマン人の王国の中で比較的早期に正統信仰を受け入れたとはいえ、ローマを中心とする西方の教会の影響を強く受けたというわけではない。このころのローマ教皇はガリアにまで強い影響力を行使できるほど卓越していたわけではなかった。クローヴィスはローマ教皇とではなく東ローマ皇帝と直接外交した。クローヴィスの時代にはローマよりはコンスタンティノープルの宮廷が大きな影響を及ぼしていたと見るべきである。 上述のように、メロヴィング朝の宮廷は全く世俗的であったが、その地方行政においては司教が中心的な役割を担っていた。メロヴィング朝の宮廷は地方支配の組織を欠いており、司教が実質的に地方統治を担当していた。宮廷で官僚として出世した者たちは地方に転出するときに司教職を望んだ。カロリング家の権力掌握過程でもこの事実は確認できる。アウストラシアの宮宰であるカロリング家はネウストリア、ブルグント、プロヴァンス各地の司教職に一門を送り込むことで地方支配に影響を及ぼした。やがて8世紀半ばにイングランドからの影響でフランク王国に大司教制が導入されると、ゲルマニア・ルーアン・ランス・サンスの大司教をカロリング家が占めた。カロリング朝の時代には司教職と地方支配に対する王権の影響力は増加した。 王国の経済に注目すれば、東ローマ帝国の地中海再征服以降ガリアは地中海の経済圏から分離される傾向が強くなり、ブリタニアとの強い結びつきが認められる。6世紀からはこのような経済圏の形成と歩調を合わせるかのようにメロヴィング王朝の北方化・内陸化が進展し、東ローマ帝国の影響は希薄となった。しかしこの経済圏はアイルランドまでは含んでおらず、アイルランドはイベリア半島を通じて伝統的な地中海経済圏とつながっていた。
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