メロヴィング朝フランクとは? わかりやすく解説

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メロヴィング朝フランク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)

中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「メロヴィング朝フランク」の解説

詳細は「メロヴィング朝」を参照 メロヴィング家フランク族支配確立したのは、サリーフランク族のキルデリクスとその子クローヴィスである。486年クローヴィスローマ人ガリア軍司令官シアグリウスソワソン付近戦って勝利し、その支配地とした。クローヴィス491年テューリンゲン人を服属させ、496年アレマン族破り500年にはブルグント族を、507年には西ゴート族破りアキテーヌ支配下収め、さらにケルンのリブアリー族を服属させ、全フランク人の王となった。これ以降200年間にわたってクローヴィス一族王位につくメロヴィング朝開始したフランク人ゲルマン神々信仰していたが、クローヴィスの妻クロデヒルデがアタナシウス派であり、カトリックへの帰依を夫に求めたトゥールのグレゴリウスによると、クローヴィス496年アレマン人との戦争中に神に助け求めて改宗しカトリックの洗礼を受け、主な従士改宗した。したがってフランク王国ゲルマン諸部族のなかでは比較早く正統信仰受け入れたであった511年死の直前にはオルレアン公会議開きメロヴィング朝教会制度組織されアリウス派異端への対処話し合われた。 クローヴィス死後王国は4人の息子たちによって分割され息子たちはさらに領土拡大した息子たちのうち一人が死ぬと、その領土生き残った国王支配服したので、クローヴィス息子のうちで最後まで生き残ったクロタールが死ぬ頃(561年)には再び王国統一されており、しかも地中海沿岸支配していた有力なゲルマン民族国家は、ユスティニアヌス1世により滅ぼされる打撃受けていたため、フランク王国ゲルマン民族の間で最も有力な王国となっていた。 クロタール王国は再びその4人の息子たちによって分割され長男シギベルト1世には王国東部与えられ彼の王国は「アウストラシア」と呼ばれたアウストラシアの王は飛び地としてプロヴァンス支配した次男グントラムにはブルグント支配任され三男カリベルトには王国西部を、末子キルペリク1世には王国北西部ベルギー地方与えられた。567年にカリベルトがなくなると、その支配地は3分王国の間で分配されキルペリク1世の分王国ノルマンディー地方にまで拡大されて「ネウストリア」と呼ばれるようになった613年王国クロタール2世により再び統一されたが、各分王国自立性強まっており、各分王国貴族たちは各分国王のもとで形成されてきた政治的伝統維持したい考えていた。614年パリおこなわれた教会会議直後クロタール2世は「パリ勅令」を公布した。この勅令は各分王国貴族たちの要求受け入れる形で、アウストラシアブルグントでは宮宰国王代理人とするものであった。こうして各分王国宮宰特別な地位認められるようになったクロタール2世時代メロヴィング朝教会政策転換期といえるクロタール2世は、アウストラシアゲルマン貴族支持されており、アイルランド修道制を導入した修道院運動活発化した 。一方王妃ブルンヒルド支持したガロ・ローマン的セナトール貴族と結びついた司教制度衰退向かった。これはメロヴィング朝フランク王国内の南北での教会会議開催数の差によって確認することができる。ロワール川以南では同時40回を数えたのに対しアイルランド修道制が流布しロワール川以北フランキア地方では、640年までに5回のみであり、ロワール川以北では司教活動明らかに衰退したのである司教出自も、セナトール貴族中心から、7世紀を境にゲルマン貴族が目立つようになってくる。このようにゲルマン貴族司教職進出したことの背景一つは、590年聖コルンバヌスによって設立されたリュクスイユ修道院フランク貴族子弟教育機関となって多くゲルマン人司教養成することに成功したことである。クロタール2世前述614年パリ勅令」において聖職叙任規定言及しパリ教会会議決定基づいて首都司教司教叙階のみを認め選出当該教区聖職者信徒共同体限定した。しかし、選出叙階の間に王権による審査経て叙任令に基づく叙任が必要とされている。 のちのカロリング朝違ってメロヴィング朝では多数教養ある俗人政府内に存在した7世紀クロタール2世時代までは社会全体識字率カロリング朝のころよりも高く、したがってメロヴィング朝宮廷文化カール大帝の時代とは異なって世俗的な教養支えられていた。フランク王国ゲルマン人王国の中で比較早期正統信仰受け入れたとはいえローマ中心とする西方教会影響強く受けたというわけではない。このころローマ教皇ガリアにまで強い影響力行使できるほど卓越していたわけではなかった。クローヴィスローマ教皇ではなく東ローマ皇帝直接外交した。クローヴィス時代にはローマよりはコンスタンティノープル宮廷大きな影響及ぼしていたと見るべきである。 上述のように、メロヴィング朝宮廷は全く世俗的であったが、その地方行政においては司教中心的な役割担っていた。メロヴィング朝宮廷地方支配組織欠いており、司教実質的に地方統治担当していた。宮廷官僚として出世した者たちは地方転出するときに司教職望んだカロリング家権力掌握過程でもこの事実確認できるアウストラシア宮宰であるカロリング家ネウストリアブルグントプロヴァンス各地司教職一門送り込むことで地方支配影響及ぼした。やがて8世紀半ばイングランドからの影響フランク王国大司教制が導入されると、ゲルマニア・ルーアン・ランス・サンスの大司教カロリング家占めたカロリング朝時代には司教職地方支配対す王権影響力増加した王国経済注目すれば、東ローマ帝国地中海再征服以降ガリア地中海経済圏から分離される傾向強くなり、ブリタニアとの強い結びつき認められる6世紀からはこのような経済圏形成歩調合わせるかのようにメロヴィング王朝北方化・内陸化が進展し東ローマ帝国影響希薄となった。しかしこの経済圏アイルランドまでは含んでおらず、アイルランドイベリア半島通じて伝統的な地中海経済圏つながっていた。

※この「メロヴィング朝フランク」の解説は、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の解説の一部です。
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