バロック期とは? わかりやすく解説

バロック期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 01:15 UTC 版)

サン・ピエトロ大聖堂」の記事における「バロック期」の解説

16世紀末から17世紀初頭大聖堂改築において大聖堂正面残っていた旧聖堂東側部分どうするかという問題起こっていた。反宗教改革流れから保守的な意見強まったことに加え初期キリスト教時代カタコンペ数多く発掘されたことなど考古学的関心が高まる中、由緒ある聖堂を残すべきという主張影響力持っていた。教皇クレメンス8世聖堂内装工事などに積極的だったが、この問題結論下せなかった。 しかし旧パジリカの老朽化はひどく、1605年ついにパウルス5世によって旧聖堂取壊し決断された。1606年には大聖堂最終的な建築計画が8人の建築家によるコンペティション競われたが、その過程ミケランジェロ理想考えた集中プラン対す欠点指摘が相次ぎミサ遂行した儀式補佐する空間用意されていない点が問題視された。これらの検討結果カルロ・マデルノに旧聖堂解体ミケランジェロプラン変更する命が下ったマデルノは、ミケランジェロプランに基づき既に出来上がっていた聖堂本体部分に、違和感生じさせないよう延長させ身廊設けた。ここには礼拝堂聖具室など実用的な空間付け加えた。さらに、列柱だけのファザード変更し通廊式のポルティコ玄関廊)とした。この2階部分からは教皇祝福与える場(ロッジア)として想定された。1607年プラン具体化した木製モデル承認されると、1608年から工事始まり1612年完成した身廊ヴォールト架構1614 年末に完成翌年には新旧聖堂分けていた壁が取り払われ4月12日新し聖堂立ち入ることができるようになった。しかし、最終的な献堂式ウルバヌス8世によって1626年行われている。マデルノによる計画は、初期キリスト教建築遡る伝統的なバシリカではなくレオン・バッティスタ・アルベルティ設計したマントヴァのサンタンドレーア聖堂と同じ、両側小礼拝室を備えた単廊式教会堂に近いものである予定では、正面ファサード両側には塔が建設されるはずであったが、現在では下部構造ファサード一部化している)のみに止まっている。 内陣青銅大天蓋(バルダッキーノ)は、ウルバヌス8世の命を受けたジャン・ロレンツォ・ベルニーニ設計制作した。これは1624年着手され1633年完成した。バルダッキーノのねじれは、旧サン・ピエトロ大聖堂パーゴラ使われていた初期キリスト教時代円柱再現したもので、巨大な大聖堂中心部視線集中させる効果を持つ。またベルニーニは、聖堂中心4つの柱に、4つ聖遺物ロンギヌスの槍の穂、聖女ヘレナ聖十字架断片聖ヴェロニカの布、聖アンデレ頭部)を安置する祭壇設け、その下に縁の人物像を配したベルニーニ与えられ次の仕事はマテルノが設計したファサード鐘塔だった。既に基礎ベイ造られていたが、実は地盤弱さ指摘され中止されいたものだった。ベルニーニ円柱多用した設計案元に1638年から工事開始し1641年には左側の塔2層目までを完成させた。ところが、塔とファサード亀裂発見されすぐさま撤去された。ライバルフランチェスコ・ボッロミーニから激し非難受けたベルニーニ修正案否決された。。 ファサード最終的なプロポーション、すなわち列柱廊を持つ楕円形広場ベルニーニの手よるものである。鐘塔失敗ウルバヌス8世死後干されしまっていたベルニーニであったが、取り組んだ数少ない仕事のひとつウルバヌス8世墓碑出来栄え時の教皇インノケンティウス10世認め次代アレクサンデル7世ベルニーニ起用決めた最初の計画案は1656年の夏に作成された。ベルニーニ考案した計画は、現在のルスティクッチ広場向けて収束するような台形広場であったが、これはすぐに却下されたため、彼は円形広場構築する方向計画練り直した最終的にレッタ台形)とオブリクァ(楕円形)の広場建設する案が決定され1657年3月17日法王にその計画提出された。ベルニーニ自身が、この広場を「信者迎えるために、あたかも母が両腕差し出しているかのように見せコロネード柱廊)を備えてなくてはならない」と評しているように、サン・ピエトロ広場は、広場としての境界明瞭であるが、コロネードによって外部に対して開かれている格好になっており、信者ゆるやかに抱擁するものになっているまた、マデルノによるファサードは、両側鐘楼建設されることを意図して、高さに対し幅の広い、やや鈍重な形状になっていたが、ベルニーニは、オブリクァ広場接続するレッタ広場開口部ファサードよりも狭くし、大聖堂側に向けてコロネード低くすることによって、大聖堂の高さを強調するような視覚効果与えた。4列のドリス式円柱と140体の聖人像で飾られコロネードは、1667年完成したが、ベルニーニ考えでは、玄関にあたる部分第三コロネードと、大聖堂ファサードから離れた位置両側鐘楼建設する予定であった。しかし、これはアレクサンデル7世1667年他界したため頓挫し計画のみ終わっている。 広場並行してベルニーニ聖堂内に司教座後陣アプス)を備え装飾にも取り組んだ。彼は、旧聖堂に伝わる聖ペテロ使ったという木製椅子(カテドラ・ペトリ、後の科学分析否定された)を後陣据え、これを4人の教会博士支え構図彫刻中心に装飾する計画立て教皇ペテロ正当な後継者だと権威づけようと考えた。これは10年の期間を要して1666年完成したベルニーニ1680年亡くなった。この時にはサン・ピエトロ大聖堂は現在見せる形にほぼ仕上がっていた。建物建築120年周辺整備装飾にさらに50年費やされた。 フォンターナデッラ・ポルタは、鉄製のテンション・リングを埋め込んでドーム補強していたが、18世紀になると、このドーム亀裂発見され倒壊するではないかとの噂がたった。この亀裂専門家によって危険がないと判断されたが、1734年から1744年にかけて、ルイジ・ヴァンヴィテッリによってさらに5本の鉄製テンション・リングが埋め込まれている。

※この「バロック期」の解説は、「サン・ピエトロ大聖堂」の解説の一部です。
「バロック期」を含む「サン・ピエトロ大聖堂」の記事については、「サン・ピエトロ大聖堂」の概要を参照ください。


バロック期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 14:36 UTC 版)

リュート」の記事における「バロック期」の解説

バロック期にもリュート独奏楽器としてよくもちいられた。17世紀フランスでは、スティル・ブリゼとよばれる独特の分散和音用いた作品作られた。フランスのバロック音楽ではそれまで以上に不協和音複雑化し、2度音程多用するようになったため、コース数を増やしコースの間の音程狭くする調弦バロック調弦下記参照)が用いられるうになる初期には11コースその後13コース楽器用いられ、これらを今日ではバロックリュートと呼んでいる(但し、13コース拡張された後も11コース楽器はすぐに廃れずラウフェンシュタイナーヴァイヒェンベルガーケルナーなどの多くリュート奏者により18世紀半ばくらいまで使用された)。これらの楽器はしばし比較大型のルネサンスリュートを改造してつくられた。17世紀後半から18世紀前半ドイツではテオルボ型の拡張弦をもつバロックリュートがつくられ、しばしば「ジャーマンテオルボ」と呼ばれるが、調弦の上ではバロックリュートの一種である。

※この「バロック期」の解説は、「リュート」の解説の一部です。
「バロック期」を含む「リュート」の記事については、「リュート」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「バロック期」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「バロック期」の関連用語

バロック期のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



バロック期のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのサン・ピエトロ大聖堂 (改訂履歴)、リュート (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS