RCサクセション 来歴

RCサクセション

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 05:36 UTC 版)

来歴

1966年ピーター・ポール&マリージョーン・バエズらの影響を受け[4]、中学の同級生だった忌野・小林・破廉の3人でフォークグループ「ザ・クローバー(The Clover)」を結成[5]

1967年、高校進学によりザ・クローバー解散。忌野と小林は、上級生の武田清一(のちに「日暮し」でデビュー)を迎え「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー(The Remainders of the Clover・「クローバーの残党」の意)を結成。初めてギャラを受け取る仕事をする。

1968年、「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」が自然消滅した後、破廉がバンドに戻りバンド名を「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー・サクセション(The Remainders of the Clover succession(「クローバーからの継続」の意)」の省略形から「RCサクセション」と命名[6][要ページ番号][注釈 1]

学校の文化祭でいつもの友達だけが来るのが嫌で[4]、「もっと多くの人たちに自分たちの音楽を知らせたい」と[4]1969年、テレビ番組『ヤング720』(TBS系)のオーディションに挑戦し合格[4]。続いて8月29日、東芝主催の「カレッジ・ポップス・コンサート」オーディションで第3位。この模様を収録したオムニバス盤が初めての公式音源となる。収録曲は「泥だらけの海」。ここで東芝音工(現EMIミュージック・ジャパン)にスカウトされる[4]。当時の東芝音工はフォーク&ロックのジャンルをほぼ独占していた[4]

1970年3月、「宝くじは買わない」で東芝音工よりシングル・デビュー。

1971年、RCが活動拠点の一つとしていた渋谷のライブハウス「青い森」で当時フォーク・グループ、古井戸として活動していた仲井戸麗市と出会う。

1972年、ラジオ番組『ハローパーティー』や『バイタリス・フォーク・ビレッジ』などへの出演を始める。3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒット。1stアルバム「初期のRCサクセション」をリリース。

1974年、当時のマネージャー奥田義行が事務所 (ホリプロ)に造反、独立してプロダクション「りぼん」を設立。RCはその騒ぎに巻き込まれ、ホリプロ内で仕事を干される。

1976年、ホリプロから「りぼん」へ移籍。レコード会社はキティ/ポリドールに移籍[4]。前年既に制作済だった3rdアルバム『シングル・マン』がようやくリリースされるも、1年後に廃盤。破廉は精神状態が不安定になり、ギターが弾けなくなる。1976年10月11日リリースのシングル「わかってもらえるさ」以降、1979年6月25日の日仏会館でのコンサートまで活動停止[4]

1977年、破廉が正式脱退。

1978年、仲井戸、春日がメンバーとして参加、フォーク形態からロックR&B形態へバージョンアップされる[4](当時、その衝撃の大きさからマスコミでは「パンク・ロック」と評されることが多かった)。さらに、新井田が正式に加入、RCの黄金期を形成するバンドの基礎が完成。忌野は髪を短く切り逆立て、派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。

1979年、春日に代わり小川が加入。仲井戸が正式メンバーとなる。Gee2woがサポート参加。RCはそのライブ・パフォーマンスが評判となり、マスコミで度々取り上げられる。ジョニー、ルイス&チャーの前座として初めて日本武道館のステージに立つ。

音楽評論家の吉見佑子らが3rdアルバム『シングル・マン』の再発売を懇願するため「シングルマン再発実行委員会」を発足。ポリドールとの折衝が繰り返された結果、自主制作で300枚限定で異例の再発売が決定。当初は国立の「レコード・プラント」、青山の「パイドパイパー・ハウス」の2店のみでの販売。

1980年、「雨あがりの夜空に」発売記念として渋谷のライブハウス「屋根裏」で4日連続のコンサートを開催[4]。のべ800人の観客を動員、同ライブハウスの動員記録を打ち立てる。渋谷公会堂でのシーナ&ザ・ロケッツBOWWOWとのジョイント・コンサートも約2000人の観客動員を達成、RC人気に火が点く。「シングル・マン」が正式に再発売。

エレキ化後のデビュー盤となる「RHAPSODY」をリリース、半年以上のロングランヒット。このアルバムは、1980年4月、東京・久保講堂におけるコンサートの実況録音盤。このコンサートを最後に、小川が脱退。代わって、それまでサポートメンバーとして参加していたGee2woが正式メンバーとなる。

同年10月には日比谷野音で「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」の再結成ライブで、11月一橋大学の学園祭ライブでは平沢進が率いたニューウェイブテクノポップバンド「P-MODEL」と、対バンコンサートを行う[7]

1981年、初の日本武道館単独公演。その後10年連続で武道館クリスマスコンサートを行う。この年は年間100本近いコンサートを行う[8]

1982年、忌野が坂本龍一(当時イエロー・マジック・オーケストラ)と組んで発表したシングル「い・け・な・いルージュマジック」が資生堂82年春のキャンペーンソングとしてヒット。MVでは、どぎつい化粧をして男同士でキスをするなど過激なパフォーマンスを展開、時代を席巻。RCとして同年、サム・ムーアチャック・ベリーらとのジョイント・コンサートを横浜スタジアムにて開催(アルバム『THE DAY OF R&B』収録)。ロンドンレコードに移籍。自身のレーベル「BARCA」設立。

1985年、事務所「りぼん」から独立。個人事務所「うむ」設立。西武劇場(現・PARCO劇場)で独立記念コンサート「スーパーエイプリルフール」開催(泉谷しげる、坂本龍一、矢野顕子、三浦友和らがゲスト参加)。

1988年、東芝EMIより発売予定だったシングル「ラヴ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止。同シングル・アルバムは、古巣のキティレコード(現・ユニバーサルミュージック)から発売、RCとして初のオリコンアルバムチャート1位を獲得。

1989年、HARD TIMES LIVEツアーはリリースされていない新曲中心という異例の構成で行われる。レコード会社に対する不満からステージ上で「録音自由化」を宣言。

1990年、Gee2wo・新井田が相次いで脱退。現段階でのラスト・アルバム『Baby a Go Go』をリリース。続くツアーは札幌、仙台、福岡、名古屋、大阪および日本武道館のみ開催。翌1991年のツアーはすべてキャンセル。

1991年1月、無期限活動休止に入る。

2009年5月、忌野清志郎、死去。


注釈

  1. ^ 1981年4月に集英社から刊行された『青春音楽グラフィティ タイガースからYMOまで』でのRCサクセションの紹介記事で「ちょうど勤労感謝の日で学校が休みの日にみんな、といっても3人だけど、集まって、じゃあバンドつくろうって決めたんです。名前はどうしようか考えてるうちに誰かが、"ある日、作成しよう"と決めたから、あるひさくせいしよう→ああるひさくせいしょう→あーるひさくせいしょうん→RCサクセションにしたんです」(中略)これは『どうしてこういうお名前をつけたんですか?』と聞かれた場合にメンバーがしゃべる"おこたえ"」と書かれているが[4]現在ではこれはテレビ番組で清志郎が冗談で発言したものがそのままメディアで取り上げられたことによる誤解であるとされている[要出典]。その他、商業的成功者を揶揄する「ラジオコントロールされたサクセス(成功者)」の意味(ただし「success」は成功の意味だが、「succession」は連続や継承という意味になる)など、その名前の由来に関しては多数諸説が流れている。

出典

  1. ^ a b c d Eremenko, Alexey. RC Succession | Biography & History - オールミュージック. 2021年1月27日閲覧。
  2. ^ "RCサクセション". 平凡社「百科事典マイペディア」. コトバンクより2021年11月8日閲覧
  3. ^ 地味変. 2021年11月8日閲覧
  4. ^ a b c d e f g h i j k グラフィティ, pp. 60–63.
  5. ^ グラフィティ, pp. 23, 60–63.
  6. ^ a b c 『GOTTA! 忌野清志郎』中、清志郎談
  7. ^ サンプラザ中野くん. “追悼・忌野清志郎。 | サンプラザ中野くんの株式ロックンロール | マネクリ マネックス証券のお金と投資のオウンドメディア”. 追悼・忌野清志郎。 | サンプラザ中野くんの株式ロックンロール | マネクリ マネックス証券のお金と投資のオウンドメディア. 2021年12月15日閲覧。
  8. ^ a b 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して
  9. ^ 泉谷しげる自伝『わが奔走』(ロッキングオン)
  10. ^ 『GOTTA! 忌野清志郎』中、忌野談
  11. ^ ロック画報・2002年10号「特集 RCサクセションに捧ぐ」
  12. ^ a b 『GOTTA! 忌野清志郎』
  13. ^ 生卵(河出書房新社)
  14. ^ 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遺言」
  15. ^ a b 日々の泡立ち 真説RCサクセション
  16. ^ 「メンバー紹介の時のお客さんからの反応、ドラマー冥利につきました。自分自身としてはちょっと意外な感じでしたが、嬉しい驚きでした。応援してくれた皆さん、ありがとうございました。」新井田耕造オフィシャルHPより。
  17. ^ 『忌野清志郎 This Time』(2006年放送フジテレビ721のドキュメンタリー) 内、仲井戸談
  18. ^ ビートたけし「ビートたけしの言いたい放題!」『広告批評』1982年2月号、マドラ出版、47頁。 






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