MGM-52 (ミサイル) 開発

MGM-52 (ミサイル)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 03:31 UTC 版)

開発

ミサイル「B」

アメリカ陸軍は、1950年代後期にミサイル「A」-「D」と呼ばれる一連の新型弾道ミサイルの要求を明確に述べ始めた。ミサイル「A」はMGR-3 リトル・ジョンを、ミサイル「B」はMGR-1 オネスト・ジョンを、ミサイル「C」はMGM-29 サージェントを、そして後にMGM-31 パーシングとなったミサイル「D」はPGM-11 レッドストーンをそれぞれ置き換えるためのものであった。

ミサイル「B」に関する最初の要求仕様は1956年10月15日に確立、1959年3月29日にミサイル「B」の品質に関する開発要求情報(Qualitative Development Requirements Information, QDRI)が公表され、約60の企業・団体が事前調査の要請に応じた。ミサイル「B」プロジェクト事務局は、アメリカ陸軍兵器ミサイル軍(Army Ordnance Missile Command, AOMC)の下に1961年12月11日に確立され、1962年8月1日のアメリカ陸軍ミサイル軍(MICOM)の活動開始とともに設置された最初のプロジェクト管理事務局のうちの1つでもあった。

ミサイル「B」の提案書の山

AOMCは更に1962年6月9日、簡易プラットフォーム慣性誘導(Simple Platform Inertial, SPI)と既にミサイル「A」の実験で効果をある程度立証できているDCAM(後述)の2つの技術的なコンセプト提案を求めた。これに応じた8社の中から1962年8月1日に60日間の計画立案策定に2社が選定され、MICOMは8月20日にこれら2社に契約を与えた。ミシガン陸軍ミサイル工場(Michigan Army Missile Plant, MAMP)のクライスラー社とテキサス州ダラスリング・テムコ・ボート社(LTV)である。60日後の1962年10月19日に2社から総合開発計画提案が提出され、その10日後にアメリカ陸軍の推薦が国防総省に提出された。1962年11月1日、AOMCは、LTVをミサイル「B」開発のための主契約者として発表し、MAMPをLTVの開発チームの研究用地として選定した。また。LTVは、1963年1月11日にMICOMから契約書を受領し、正式にランス開発が始まった。アメリカ陸軍とLTVの契約は、5ヶ年7,500万USドルのCPIF(cost-plus-incentive-fee、必要経費および予定報酬料金)契約だった。これは研究開発のすべての段階をカバーする当時としてはユニークなもので、このとき陸軍の兵器システム開発に初めて適用された。

開発初期

ミサイル「B」の仕様は、開発開始時点では1958年8月19日の大陸軍司令部(CONARC、Continental Army Command)からのQMR(Qualitative Materiel Requirements、軍需品質要求仕様)に対する1961年7月5日の承認に基づき、1,000lb(450kg)のペイロードを持ち、核弾頭、通常弾頭または化学兵器弾頭を搭載可能とし、75kmの射程を持つことを要求されていた。精度は、ミサイルの単価を安く抑えるために約8km(5mi)と粗めに設定されていた。

1962年11月26日アメリカ合衆国陸軍省は公式にミサイル「B」の名称を「ランス」に変更し、1963年6月に、新たに定められた命名規則に基づき制式名MGM-52を割り当てた。また、LTVは、ランスの開発にあたってエンジニアリング・モデル(EM)、生産へ移行するためのタクティカル・プロトタイプ(TP)および量産のためのプロダクション・モデル(PM)の開発段階ごとに3つの構成のミサイルを計画していた。

1963年9月に、LWL(Lightweight Launcher、軽量発射機)の要求仕様は、牽引式から自走式に変更された。カナダ政府はLWLの開発の一端(175万ドル相当)を担うことに同意し、カナダトロントにあったホーカー・シドレーと下請契約が結ばれた。LWLは、M113装甲兵員輸送車をベースとしたM667 ミサイル・キャリアーとなった。

ロケット・モーターはロケットダインによって製造されたが、その開発は大きな困難を伴い、開発の初期から後期に至るまで様々なトラブルが発生し、大幅な開発の遅延を招いた。このため、最初のLTVの開発契約から配備が承認されるまで10年近い期間を要することとなった。

1964年4月までに推進システムの開発が困難であることが判明し、ロケット・モーターに関する深刻な問題を解決するために、ロケットダインを下請けに置くことになった。ロケットダインの開発チームは技術上および管理上の問題を確認し、ブースター比推力、エンジン名目推力およびミサイル動力飛行時間を減らすことで是正措置をとったが、その一方で縮小されたエンジン性能を補うためにミサイルの全長を延長し、重量を増やさなければならなかった。開発への影響は、少なくとも6ヶ月の期間と3,000万ドルもの費用に達したが、ロケット・モーターの試験は1965年1月16日に初めて成功した。1966年3月にLTVとの契約が更新され、新しい費用と予定報酬が定められたが、費用超過と計画遅延により最初の契約の報酬分を帳消しにしてしまっていた。

XMGM-52A

XMGM-52Aの試射。ホワイトサンズ・ミサイル射場、1965年3月15日

EMミサイル(XMGM-52A)の最初の飛行試験は、1965年3月15日に実施され、その際にランスは遠地点で125kt(約60m/s)の強烈な横風を経験しながらも成功を収めた。この飛行によってランスのDCAM補償理論は実証されたのである。DCAM誘導原理の確認を含む試験は1966年10月3日まで続き、6回のEM試験が繰り返された。その翌月に限定生産(LP)への推挙が陸軍省に提出され、1967年6月15日に17セットの地上支援装備(Ground Support Equipment, GSE)のLP獲得が認可された。

TPミサイル(XMGM-52A)の飛行試験は1967年前半に始まり、当時アメリカの管轄地であったパナマパナマ運河地帯での熱帯地域における運用試験や、C-130輸送機からの空中投下後の地上機動性試験など様々な試験が実施されたが、1967年4月28日、同年6月とTPミサイルの爆発が相次ぎ、1967年10月20日のTP-16試験で発射20秒後に通算5度目の爆発を起こしたとき、試験プログラムは一時中断した。失敗の根本的原因を見つけるために新しい診断アプローチが開発され、最も可能性のある原因に絞り込まれ、不具合の再現性が確かめられた。改善作業は再現性の確認後から実施され、この失敗の根本的原因は1968年5月13日に確認された。 改善は、酸素量の多い燃焼ガスが、熱を持った燃料量の多い固体推進剤ガス・ジェネレーターの燃焼ガスと混ざらないようにする適切なSOS(Seal to Spring)で実現された。新しい燃料系による飛行は、1968年8月30日に成功し、1969年3月までに更に4基の試験飛行でその改善が保証された。しかし、これらの試験が続けられている間、XRL構成(後述)のランスだけが配備されることが1967年12月15日に決定された。

XMGM-52B

XMGM-52B。1967年頃

1965年4月に、より高性能のロケット・モーター、より大きなミサイル・フィンを用い、弾頭部からバラストを取り外すことによって、ランスの射程を約125kmに大幅に延伸できることが研究によって示された。改修されたミサイルは射程延長型ランス(Extended Range Lance, XRL)と呼ばれ、ミサイル「B」および「C」の要求を同時に満たしていた。2基のXRL試験機が1966年9月にデモンストレーションを実施し、射程延長の実現性が証明された。陸軍省は、1967年3月にXRLの開発を承認し、XRLはMGM-52Bに指定された。

XMGM-52B XRLミサイルの初飛行は1969年5月13日にあり、いったんは成功を収めたが、1969年7月11日に、XRLのロケット・モーターが不安定な燃焼を起こして故障してしまった。再び故障診断と故障分離が実施され、問題を解決したことが1969年10月24日に示された。その翌年の1970年3月6日には要求を満たす125kmの射程と3.5miの精度を示すことができ、1970年9月10日に75基のミサイルの製造がLPに推されたものの、化学兵器弾頭の飛行はキャンセルされた。

核弾頭を装備したXMGM-52Bの最初のエンジニアリング・テスト/サービス・テスト (ET/ST)は、1971年8月13日に実施されたが、失敗に終わった(しかも、その日は金曜日だった)。原因は、核弾頭に起因するミサイルの動力停止であった。改善作業は2基目の核弾頭ミサイルの飛行試験が実施された1971年11月30日まで続いたが、この試験も失敗してしまった。これらの失敗により、核弾頭回路の大幅な再設計が必要となり、この後更に12基のミサイルと9ヵ月の期間が再設計を保証するために費やされることとなった。

生産承認

生産確認IPRが1972年5月9日に開かれ、ET/STの結果に基づいてランス・ミサイルをスタンダードA(Type Classification Standard "A", TC-STD-A)に指定、核弾頭LP生産量の拡大も推挙された。その後の1973年4月16日のIPRで核弾頭もTC-STD-Aに指定され、ようやく配備できる段階にまでたどり着いた。計画されていた化学兵器弾頭および通常弾頭は既にキャンセルされていたため、配備初期のすべてのランスはW70 可変核出力熱核弾頭(核出力 1-100kt)を装備していた。XMGM-52Bの試験が若干再設計されながら続けられている間に、すべての改善を反映したランスの最終的な生産構成は、MGM-52Cに指定された。

通常弾頭開発

XMGM-52A

核弾頭プログラムは、XM41 小型爆弾の不発率の高さに起因する継続的な問題のために遅々として進まなかったため、1969会計年度の後半に標準的なM40 小型爆弾をランスに用いる方策が模索されたが、アメリカ議会は非核弾頭の調達に関する全ての資金を1971年11月にキャンセルした。

その後、資金の調達が可能になったため、非核弾頭開発の再開が1973年1月に認可され、1974年4月までにM40 小型爆弾を用いるXM251 非核弾頭の10回にわたる飛行試験を実施したが、XM811E5 主信管の再設計と再試験が必要と判断され、3ヶ月開発が遅れることとなった。1976年に、MGM-52Cの非核弾頭部の製造が承認され、同年10月から製造が開始された。非核弾頭はM251と呼ばれるクラスター弾による弾頭であり、M251 弾頭は1978年アメリカ陸軍で運用が開始された。通常兵器型のランス・ミサイルはいくつかの種類の弾頭とともにNATO加盟国などで運用された。


  1. ^ a b Missile.index”. Missile.index Project (2007年6月9日). 2007年6月23日閲覧。
  2. ^ Vladimir(訳) (1999年8月). “北朝鮮のミサイルゲーム”. 新東亜. North Korea Today. 2007年7月7日閲覧。
  3. ^ 石川潤一 (2007-07). “空自ペトリオットPAC-3実戦配備”. 軍事研究 42巻 (7号): p.30. ISSN 0533-6716. 
  4. ^ Parsch, Andreas (2005年12月9日). “MGM-52” (英語). Directory of U.S. Military Rockets and Missiles. Designation-Systems.Net. 2007年6月30日閲覧。


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