鶴見俊輔
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エピソード
- 筑摩書房の編集者松田哲夫によると、鶴見は専門の哲学はもとより、「マンガやジャーナリズム、近代史について、とてつもない知識」を持っていたという。『ちくま日本文学全集』の編集作業の際、鶴見が5歳の時からの膨大な既読書の内容をすべて覚えており、「古典的名作だけにとどまらない、例えば赤川次郎作品すべて」にまで及んでいることが判明した。これには名だたる読書人揃いの他の編者たち(安野光雅、森毅、井上ひさし、池内紀)も唖然としたという[104]。
- 鶴見は、父である鶴見祐輔が一高英法科の首席クラスの優等生であったにもかかわらず、倫理的によくない日中戦争や、負けるとわかっていた太平洋戦争の旗振り役となったことを「一番病」と呼び、一番病を攻撃することが自身の戦略であり、著作活動の動機の源泉になっていた、としている[105]。他方で、2年半の米国留学時代には鶴見自身も一番病にかかっていたとし、この時代のことを書くことを無意識に避けていた、としている[106]。なお「一番病」は、水木しげるが手塚治虫をモデルに描いた短編漫画の題名でもある。
- 漫画の中では山上たつひこの『がきデカ』を高く評価し、「あの『がきデカ』というのがみんなに読まれているうちは、ああ、日本人にはこういう人がいるんだな、日本ってこんなんだなという自画像をもっているうちは、まだまだ安全だと思っているんですよ。「正義のために戦え」とか、「聖戦」とかいうふうにして戦争の態勢をつくるところまでにはまだ一歩あるなという感じがするのです」[107]「こういうふうに金とセックスだけを追い求める人間が活躍するわけでしょう。ああ、日本人はこうなんだな、こういう人間がたくさんいるんだなと思って大人になることがいいんです。日本人は神の子で、万邦無比の国体なんだと思って海外に出ていったら困るんですよ。『がきデカ』を読んでいれば、ちがった人間になるんじゃないかという希望をもっています」[108]と述べている。
- テレビ番組『ハケンの品格』(2007年放送)がお気に入りで、軍属時代に翻訳と新聞発行を一手に引き受けていた自分と、同番組で描かれていた派遣社員とが重なって見えると語っている[109]。
- 敬虔なキリスト教徒であった母親への反撥、戦争推進を主張していた一部の僧侶や牧師への不信感から、宗教に反感を持っていたが、仏教徒の文化人との交流の中で仏教に理解を示すようになり、「かくれキリシタン」ならぬ「かくれ佛教徒」と自称するようになった。1975年に行われた松本清張との対談では「社会党の言うように、安保の全面廃棄、軍備の全面禁止というのは観念的か」という問いに「柳宗悦から習った言葉を使うと、一種の陀羅尼というか念仏で考えていくという方法をとっている」と答えている[110]。
- 1986年8月15日、安田武・山田宗睦と「坊主の会」を結成、以後毎年同日に剃髪することを15年間続けた。鶴見はその後も毎年8月15日に断食を行っている[111][112]。また、その山田が1965年に刊行した『危険な思想家』に「この本はあくまで今の時代に肉薄し、重大な警告を発している[113]」という推薦文を寄せたが、竹内洋によると吉本隆明から山田や鶴見らは自分たちのネットワークを壊し孤立させようとしている学者を告発しているにすぎないと批判されている[114][注 22]。
- ヤマギシ会を評価しており[115][116]、ベトナム戦争脱走兵をかくまうことに協力を得ている[117]。
- 鶴見は、渡米前から自身は無政府主義者だったと言明しており、「クロポトキンを一生懸命読んで」おり、クロポトキンにはマルクスに対する偏見があったため、それが、マルクス主義者にならない、「一種の予防注射になった」としている[118]。反戦運動を行う中で、戦時中に海軍軍属に志願した事に関して「なぜ戦争中に抗議の声を上げて牢屋に入らなかったっていう思いは、ものすごく辛いんだよね。だから、英語がしゃべれるのも嫌になっちゃって。戦争中から、道を歩いていても嫌だって感じだった。鬱病の状態ですよ」と本人は後に釈明している[119]。
注釈
- ^ 麻布桜田町の後藤新平邸の敷地内の「南荘」と呼ばれていた建屋で[1]、地番は三軒家町53番地[2]。
- ^ 石塚 (2010, p. 87)によると、命名者は、鶴見俊輔・長田弘『旅の話』によれば父、鶴見俊輔『私の地平線の上に』によれば母とされている。新藤 (1994, p. 12)は、命名者は父で、伊藤博文の幼名による、としている。
- ^ 同級生には後の文部大臣の永井道雄、後の中央公論社社長の嶋中鵬二、作家の中井英夫など[要出典]がいた[8]。
- ^ 母から「あなたは悪い子だ」と言われ続けた[11]。
- ^ 石塚 (2010, pp. 181–182)では、鶴見『日常生活の思想』p.241からの引用として、大塚駅の売店からカルミンを盗んで村八分にされた、としている。
- ^ 府立高校尋常科で同期だった遠山一行は、鶴見と思しき同級生について「ある日突然―と私には見えた―中学の同級生が学校をやめてしまったことがあった。その男は頭がよく勉強もできたが、かなり変ったところがあって、たとえば試験の答案を、わざわざ40点とか50点とかに仕立て上げるために、正しい答えを消しゴムで消したりしておもしろがっていた。そして日ごろ反りの合わなかった教師をなぐって、学校をやめたのである。(中略)その男は戦後社会評論家として登場し、名をなした」[18]と回想している。
- ^ 将来を心配した父から、「もういい。土地を買ってやるから女性と一緒にそこに住んで、蜜蜂を飼って暮らせ。14歳の結婚は法律に違反するけど、自分は目をつぶる」と言われた[21]。
- ^ 母・愛子は、大正時代には天理教を信じていたが、俊輔の不良化が原因で1936年にキリスト教に入信した[22]。
- ^ 留学中、下宿で隣の部屋同士だった本城(のち東郷)文彦と親しくなった[32]。
- ^ 父・祐輔は、シュレシンジャー・シニア教授に身元引受人になってもらい、鶴見をハーバード大学に入学させることを委嘱していた[35]。
- ^ 父の友人だった前田多門が館長をしていた[37]。
- ^ 送致の前に審問(hearing)が行なわれ、シュレシンジャー・シニア教授が弁護人となって陪審員3人の票決を受けたが、2対1で抑留が決まった[43]。
- ^ 学士論文のテーマは、ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムについて[45]。
- ^ ミード要塞に抑留中に、交換船に乗船するか尋ねられて、鶴見自身が帰国を決めた[51]。帰国を選んだ理由について鶴見は、日本は必ず負けるという確信を持っていたが、負けるときに負ける側にいたいというぼんやりとした考えからだった、としている[52]。
- ^ 船中で乗り合わせた数学者角谷静夫と親しくなった[53]。
- ^ 当時、胸に結核性カリエスの異常突起ができており、結核であることは医学的にはっきりしていたが、徴兵官の「親の金で敵国に行っていたやつなんて、叩き直して、日本国民にしなきゃいけないという情熱」によって合格になった、としている[54]。
- ^ 慰安所の仕事を担当させられた、と述べている文献がある[60]。
- ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 473)では、同年5月まで勤務、としている。
- ^ この年、アメリカの教育視察団が来日し、京大に人文科学研究所があるのは贅沢であると声を上げた。これに対し桑原が人文研有用論を演説し、鶴見が通訳を行った。視察団は京大に関する限り批判点なし、として帰国した。演説のあった夜、鳥養利三郎総長から桑原に電話があり、自分は鶴見が助教授となることに反対したがこれを取り消すと告げた[73]。
- ^ 日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)によれば、「声なき声の会」のデモの指揮は日ソ協会が行っていた[81]。
- ^ 鶴見は、のちの回想でも「確認しておこう、あのとき、国会の中にいたトップ、岸信介首相は、A級戦犯じゃないか」と語っている[82]。
- ^ 『展望』1965年10月号 吉本隆明「わたしたちが山田宗睦の著書や、この著書におおげさな推薦の辞をよせている市民民主主義者や進歩主義者の心情から理解できるのは、じぶんたちがゆるく結んでいる連帯の人的なつながりや党派的なつながりが崩壊するのではないか、孤立しつつあるのではないかという深い危機感をかれらが抱きはじめているということだけである。そして、かれらの党派を崩壊させるような言葉をマスコミのなかでふりまいているようにみえる文学者、政治学者、経済学者を告発しよういうわけだ。」
出典
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- ^ 石塚 (2010, pp. 181–182)。鶴見『日常生活の思想』p.4からの引用として。
- ^ 新藤 (1994, pp. 44, 52)。鶴見『恩人』からの引用として、厳格な母親に反撥し、近所の中学生と組んで万引集団を結成、本屋から万引した本を別の本屋へ売りに行く、駅の売店から小物を盗むといった悪事を繰り返し、このためクラスでは除け者にされていた、としている(新藤 (1994, pp. 44, 52))。
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- ^ 新藤 (1994, p. 75)。武蔵小山の古本屋で集めた莫大な数の性に関する文献を学校のロッカーに置いていたことが発覚したため入学後1年1学期で府立高校を退学になった(新藤 (1994, p. 75))。
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- ^ a b 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 32–33, 290–291)
- ^ 1,000人いる同級生の中の上位10%に入っていた(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 27–28)
- ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 27–28, 289–290.
- ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 290.
- ^ 太平洋戦争の開戦後に移民局で取調べを受けた際に、「自分は無政府主義者だから日本も米国も支持しない」と回答したため(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 22, 43–44, 291–292)。開戦直後に在米の日本の外交官や政府関係者、報道関係者は米当局により軟禁されたが、米国東部にいた日本人留学生には逮捕者はほとんどいなかった(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 22, 43–44, 269–270, 291)。
- ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 22, 42, 292–296)
- ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 46, 269, 294–295
- ^ 指導教官のラルフ・バートン・ペリー教授に依頼して書きかけの卒業論文を届けてもらって続きを執筆し、ニューヨークにいた姉・和子に送付してタイプしてもらい論文を仕上げた(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 28, 47–48, 293–294)
- ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 293
- ^ 3年の前期の成績は、学年全体約1,000人の上位5%に入っており、そのまま卒業すればスマ・クム・ラウディ(Summa Cum Laude)と呼ばれる成績だった(鶴見, 加藤 & 黒川 2006, p. 48)。
- ^ 鶴見, 加藤 & 黒川 2006, pp. 28, 47–48, 102, 122, 293–294, 298, 314–135.
- ^ 石塚 (2010, p. 213)では、1941年の出来事として、FBIに抑留され裁判にかけられた、収容所で卒論を仕上げ、4年制大学を3年で卒業した、としている。
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