香港トラム 概要

香港トラム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 07:58 UTC 版)

概要

1904年に開通以来、香港島北部の主要地区を結ぶ重要な交通機関として、現在も活躍を続けている。車両は、一般営業用路面電車としては、世界でも他にイギリスブラックプール市とエジプトアレキサンドリア市にしか残っていない2階建て車両を使用しており、かつ世界唯一事業車両を含め全車両が2階建ての路面電車であり、観光資源としても重要な存在となっている。

2023年5月現在の運賃は一律$3香港ドル (大人料金) であり、香港の物価を考えても非常に安価である。車内には、運賃箱とオクトパスカードのリーダが設置されており、降車の際に支払う形を取っている。また乗り換え券制度は無い。

歴史

香港島では、1881年馬車鉄道の敷設が検討されたが、この時は実現には至らなかった。その後、1901年路面電車の敷設計画が立案され、イギリス人が設立したHongkong Tramway Electric Company Limited香港電線車公司1902年變更Electric Traction Company of Hongkong Limited香港電車局(現在の香港電車有限公司 1922年)によって、1904年7月30日に筲箕湾と堅尼地城の区間が開業した。

なお、開業時の車両は、普通の1階だけの車体で製造されたが、1912年に2階席が設けられて以降は2階建て車両のみが増備され、従来の車両も2階建てに改造された。

1910年には、それまで荷物輸送のために、無断で軌道の上に手押し車を置いて荷物を輸送する行為を禁止した。

その後、1922年には、跑馬地にあるハッピーバレー競馬場の周囲を回る形の支線が開通し、現在の路線網が完成した。ただし、この時点では全線単線での運行であったが、1924年より複線化工事を開始した。工事自体は、一方通行の跑馬地支線を除き、1949年8月に完成した。

1941年日本が香港に侵攻し、以後1945年まで3年8ヶ月の間日本の占領地となって、路線の通るデヴォーロードが昭和通りと改称されるなどの変化もあったが、営業は続けられた。しかしながら、空襲による罹災や部品不足の影響で、占領前には109両の車両が在籍していたのが、稼動可能な車両数は10数両にまで減少し、運転区間も銅鑼湾(コーズウェイベイ)と上環(スンワン)との間を走るのみとなってしまった。

戦後、香港政府の仲介によって電気部品や台車などを購入し、故障していた車両の修繕にあてるとともに、新たな車両の増備を図る事となった。1949年に製造された120号車は、それまでの車両とは形状を一新した新型車体を採用し、好評な事から、当時在籍していた車両全てについても、120号車と同じボディに更新された。一方で、一部残っていた1階のみの車両についても、1949年までに車体を2階建てに更新され、姿を消した。

1961年には、のちに香港名物の一つとなる、車体に広告を描いた広告電車が登場した。また増え続ける利用者に対応する為の車両の増備も、1964年に製造された162号車まで続いた。この他、1965年にはトレーラータイプの車両を増備したが、1982年に姿を消した。

1972年には、長らく続いた2等制(2階が1等、1階が2等)から、モノクラス制へと変更された。その後、1976年運賃箱の使用が開始され、その後も一部残っていた車掌の乗務は、1982年に終了した。

香港政庁は、1970年代後半から、香港島北部に新たな鉄道を敷設する計画を検討し、一方香港トラムでは、東側の終点であった筲箕湾から、柴灣までの軌道延伸を計画していた。路線延伸には、道路の拡張などの工事を伴う事から、結局1980年12月に香港MTR港島線の建設が決定し、トラムの延伸計画は中止となった。さらに香港政庁では、MTR路線と並行する香港トラム路線の廃止も検討されたが、1984年に会社側が行った市民アンケートの結果、大多数の香港市民が路線存続を希望したため、MTR開業後も路線は維持される事になった。1985年香港鉄路港島線開通後も利用者の減少はほとんど無く、現在でも黒字経営である。また軌道や停留所の整備など、改良工事も頻繁に行われている。

1986年より、老朽化した車体の更新が開始され、1992年までで終了したが、それまでの車両の基礎となった120号車については、記念車として従来の車体に基づいて車体新造された。また2両は貸切用の車両に改造された。

1989年には、開業以来、銅鑼湾の中心地にあった車庫及び工場の「霎東街車廠」が、新たに建設された屈地街車廠に移設された。跡地は再開発され、商業施設のタイムズスクウェア(時代広場)となった。

1990年8月から11月14日にかけて、週末のみ、試験的に終夜運転が実施されたが、それ以降、終夜運転は行われていない。

2000年には、新型車両の導入が開始された。近代的な車体形状を採用したが、冷房無しにもかかわらず、窓の多くが固定式とされた為、車内の換気が充分ではなく、特に夏場は乗客より不評である事から、増備されていない。また1両(171号車)は、初の冷房付き車両として製造されたが、試作車であり、既に廃車されている。また2001年からは、八達通による料金支払いが可能になった。

2009年、トラムの経営権を有する九龍倉集團有限公司(Wharf社)は、香港電車有限公司の株式50%を欧州各国で市電などを経営するフランス資本のVeolia社傘下の威立雅交通中國有限公司(Veolia Transport社)に売却し、さらに2010年には残りの株式も売却する事が決定した。新会社の事業方針は、現在の路線や車両は、香港の重要な観光資源であるとしてそのまま維持し、より収益を得る為に、現路線の海岸側への新線敷設などを検討していると報じられている。

2011年6月7日以降、運賃は従来の2香港ドルから2.3香港ドル(いずれも大人料金)に値上げされた。

2013年5月18日、路面電車の脱線事故が発生、車両が傾き乗客77人が負傷[1]

2014年12月28日、香港MTR港島線上環(スンワン) - 堅尼地城(ケネディタウン)間が延伸開業した。その影響で、1日の利用客が、昨年1月から2月の約20万人から約18万人に減少しており、会社では、MTRへの対抗のため、冷房車の導入や渋滞しやすい区間で電車を優先走行可能な様にするなど、サービス強化を図る事を明らかにしている。

2016年1月15日、一般観光客が利用可能な観光用車両が登場し、運行を開始した。

2017年4月6日夜、セントラル付近を走行中の123号車が脱線転覆する事故が発生、運転士を含む7名が負傷した。原因は調査中である。

路線データ

  • 路線長
    • 本線(堅尼地城-筲箕灣) - 複線13.5km
    • 跑馬地支線 - 単線ループ2.7km
    • 全線(堅尼地城<>石塘咀<>鬱地<>西營盤<>上環<>中環<>金鐘<>灣仔<>跑馬地<>銅鑼灣<>天后<>北角<>鰂魚涌<>西灣河<>筲箕灣) - 15km
  • 停留所数 - 123
  • 軌間 - 1,067mm
  • 複線区間 - 本線の全線
  • 電化区間 - 全線(直流550V)

  1. ^ 香港で路面電車脱線 乗客77人が重軽傷 BS日テレ(2013年5月18日)2017年4月17日閲覧
  2. ^ 西行きは奇数番号+W、東行きは偶数番号+E、ハッピーバレー線は105~112が付与。各系統の起終点となる停留所(筲箕湾など)は、停留所名の略号となっている。
  3. ^ なお車両は新たに製造されたもので、従来の88号車は、空き番だった30号車に改番されている。
  4. ^ 元の18号車は、48号車に改番されている。
  5. ^ 上環発10:30、14:30、18:30の3往復で、銅鑼湾からはその約1時間後に折り返しとなる。
  6. ^ a b Hong Kong Tram # 12 オレゴン電気鉄道博物館、2018年12月3日閲覧。






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