げんぼう 【玄昉】
玄昉
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玄昉(げんぼう、生年不詳 - 天平18年6月18日〈746年7月15日〉)は、奈良時代の法相宗の僧。俗姓は阿刀氏(安斗氏)[1]。善珠の父とする史書もある[2]。僧官は僧正。
- ^ 読みは「あと」。姓は連。阿刀連の出自は安都雄足の項を参照。
- ^ 『扶桑略記』延暦16年4月丙子条による。
- ^ 『続日本紀』巻第16、天平18年6月己亥(18日)条。
- ^ 遣唐大使多治比広成が種子島に帰り着いたのは前年の11月20日であり、節刀を返上したのは7年の3月10日、天皇に拝謁したのは同月25日である。
- ^ 池口恵観『密教の呪術 その実践と応用』KKロングセラーズ 2013年、第2章2節「密教はなぜ秘密の教えなのか」
- ^ 福山敏男『奈良朝寺院の研究』綜芸舍 1978年
- ^ 大津透『律令国家と隋唐文明』岩波書店〈岩波新書 新赤版 1827〉、2020年、p.144
- ^ 『千手千眼陀羅尼経残巻』として1巻のみ現存。京都国立博物館蔵、国宝。
- ^ 堀池春峰「奈良の頭塔について」『南都仏教史の研究〈下〉諸寺篇』 法蔵館 1982年
- ^ 史跡頭塔発掘調査報告 2001, p. 148.
- ^ 史跡頭塔発掘調査報告 2001, pp. 147–149.
- ^ 村井古道『奈良坊目拙解』享保20年(1735年)
- ^ 奈良市史編集審議会編『奈良市史 社寺編』、吉川弘文館、1985、p.147
玄昉
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玄昉
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遣唐使に学問僧として参加したが、目下長安の風俗街で色事に耽る日々を送る。他方、帰国後の自分の有利を考慮し、精力的に立ち回る。
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玄昉
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前出の玄昉は、橘諸兄政権の際に吉備真備らと共に権勢を揮ったが、『元亨釈書』には玄昉が「藤室と通ず」(藤原氏の妻と関係を持った)とあり、これは藤原宮子のことと思われる。宮子との密通の話は『興福寺流記』『七大寺年表』『扶桑略記』などにもみえる。また『今昔物語集』『源平盛衰記』には、光明皇后と密通し、それを藤原広嗣に見咎められたことが乱の遠因になったとしている。もちろん、いずれも後世の公式ではない史料であり、信用する必然性は乏しい。同様に権勢を揮ったために妬まれ、早くから破戒僧という話が流布していた道鏡と混同された形跡もみられる。玄昉の栄達が妬まれたこと、さらには彼の没落と死去がこれらの話を作り出した、とも考えられる。 いずれにしても『続日本紀』によれば、宮子は36年間も「幽憂に沈んだ」のに、玄昉「法師が一見」しただけでその悩みが一気に解消し、長寿を全うしたことになる。その理由として、頼富本宏は「在唐経験の長い玄昉は、薬学的・医学的知識も充分に持っていた可能性を指摘しておきたい」と、何らかの投薬を行った可能性を指摘している。
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