政教分離法
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政教分離法の影響
上記のように、政教分離法は骨抜きにされた部分もあったが、しかし、その制度的枠組みがもつ意味は決して軽いものではなかった[6]。この法律により、フランス革命期に始まって1世紀以上におよんだ、共和派とカトリックとの文化統合をめぐる闘争に一応の決着がつき、1905年以降、「ライシテ(laïcité)」の国家原理はナチ占領期の一時期(ヴィシー政権)を除いて、第四共和政を経て第五共和政の現在までフランス共和国の法的枠組みを一貫してかたちづくってきたからである[6]。
「ライシテ」とは、非宗教性、世俗性、政教分離の3要素を内包する概念であり、フランスでは愛国的な共和主義的理念として発展してきた[7] [注釈 6]。1946年の第四共和政憲法では、信教の自由が明記されるとともに、第一条では、フランスが「不可分で、ライックで、民主的で、社会的な共和国である」こと(四原則)を強調しており、1958年の第五共和政憲法でも、人種・宗教による差別の禁止、法の下の平等がいっそう強調されている。
フランス革命以来、共和派がスローガンにしてきた「単一にして不可分な共和国」はすべての中間権力の介在を排除し、万民法のもとに個人を公民として直接的に国家に統合しようという社会システムであったが、共和派にとってはカトリック教会の位階システムは国家内国家そのものだったのである[6]。「議会制とライシテの共和国」こそが、フランス的な国民国家だったのであり、100年にわたる習俗革命の完成であり、国民統合の成果だった[6]。一方、長期的にみれば、教会が国家の統制から離れることもこれにより可能となったのである[5]。
政教分離法およびそのなかのライシテ原則は、共和主義・世俗主義の思潮および信教の自由を保障しようという立場に対し、世界的にも大きな影響力をもった。
ポルトガルでは、1910年10月5日革命によって王政が倒れた[8]。テオフィロ・ブラガによるポルトガル第一共和政はイエズス会などすべての修道会を廃止し、教会財産を没収した。翌1911年には、政教分離法が施行され、ローマ教皇庁と断交した[8]。ポルトガルの新憲法は、ブラジルとフランスのそれを範としたものであった[8]。
ライシテの原則は、1922年のトルコ革命にも影響をあたえた。その過程で生み出されたのが「ライクリッキ(laiklik)」と呼ばれるトルコ共和国(1923年10月29日建国)独自の政教分離原則である[9]。建国の父、ムスタファ・ケマル・アタテュルクはこの原則をフランスのライシテ原則を参考にして形成し、1937年にはこの原則を含む一連の「ケマル主義」を確立させた[9]。ライクリッキ原則は、現行の第三共和政憲法である1982年憲法においても継承されており、そこでは、宗教的自由(第24条第1項)、国家の非宗教性(第24条第4項および第5項)が定められている[10]。
日本国憲法(1946年公布、1947年施行)においても、第20条に、
- 一 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
- 三 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
また、第89条には、
- 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、……これを支出し、又はその利用に供してはならない。
の規定がある。
注釈
- ^
ドレフュス事件とは、1894年、フランス陸軍参謀本部の将校アルフレド・ドレフュス大尉がドイツのスパイ容疑で告発されるという事件。彼がアルザス出身のユダヤ人であったことから、ジャーナリズムを中心に反ユダヤ主義的世論が興るとともに、それに対して自然主義文学の作家エミール・ゾラがフェリックス・フォール大統領への公開質問状「私は弾劾する」を新聞紙上で発表して再審を求めるなど、一個人の冤罪事件から自由と民主主義をめぐる議論や国家体制をめぐる議論へと発展した。1899年、ドレフュスは再審の結果、有罪判決が下されたうえで大統領令によって特赦されるという政治決着が図られて世論は沈静化し、1906年、ドレフュスに対し無罪判決がくだされた。
- ^ 急進党(急進共和・急進社会党)は、フリーメイソン、自由思想協会、人権同盟などを基盤に急進派の大同団結によって1901年に成立した、ジョルジュ・クレマンソーを党首とする急進共和主義・自由主義の政党で、その名から、社会主義政党と考えられがちだが、実際には中南部の農民層を支持基盤とする中道政党で、また、フランス初の本格的政党である。フランス革命が政党も含め結社全般を危険視したのに対し、第三共和政では、1884年に労働組合結成を認めるなど結社全般に対し寛容であった。社会主義者たちも1905年に統一社会党を組織した。なお、急進党は第一次世界大戦後には社会党・共産党を中心とした、いわゆる「人民戦線内閣」に加わっている。長井(2006)p.164
- ^ コンブ自身は、かつて神学を専攻し、修道会系コレージュで教授した経験をもっていた。谷川(1999)p.186
- ^ ガリカニスム(ガリカン教会主義、フランス教会自立主義)とは、フランスのカトリック教会のローマ教皇庁からの独立、教皇権の制限を求める政治的、宗教的立場のことであり、フランスの古名「ガリア」に由来する。ガリカニスムの絶頂期はフランス絶対王政下のいわゆる「アンシャン・レジーム」といわれた時期で、フランス革命によって打撃を受けたが、ナポレオンによる第一帝政とウィーン体制下のフランス復古王政において復活を遂げ、その後も大きな影響力をもった。ガリカニスムは、ポリティークの思想や王権神授説にささえられ、イエズス会などの教皇至上主義(ウルトラモンタニズム)とは激しく対立した。
- ^ 第一次世界大戦直前には「挙国一致」の名のもとに、無認可だった修道会の復活が公的に承認されるにいたった。谷川(2001)p.367
- ^ ライシテの語源は、ギリシャ語の「ラオス (laos、民衆)」「ライコス(laikos、民衆に関すること)であり、トルコの「ライクリッキ」も同一起源である。意味合いとしては、「政教分離」「教育・婚姻など市民生活における法制度の宗教からの独立」「国家の宗教的中立性」を含んでいる。なお、フランス第四共和政憲法にみえる「ライック」とは、「ライシテ」の形容詞形である。
出典
- ^ a b 谷川(1999)pp.179-185
- ^ 谷川(2001)pp.350-353
- ^ a b c d 谷川(2001)pp.362-364
- ^ a b c プライス(2008)pp.282-286
- ^ a b c d e f 長井(2006)pp.164-165
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 谷川(2001)pp.364-367
- ^ 満足圭江「現代フランス社会における『ライシテ』概念の変容』(東洋哲学研究所)
- ^ a b c 金七(2011)p.97
- ^ a b 小泉洋一, 「トルコの政教分離に関する憲法学的考察 : 国家の非宗教性と宗教的中立性の観点から」『甲南法学』 48巻 4号 p.297-345, 2008年, 甲南大学法学会, NAID 110007119662, doi:10.14990/00000673 。
- ^ 小泉洋一, 「トルコにおけるライクリッキの原則と憲法裁判所 : 2008年の二判決におけるライクリッキ」『甲南法学』 51巻 3号 p.213-237, 2011年, 甲南大学法学会, NAID 120005577035, doi:10.14990/00000721。
- 1 政教分離法とは
- 2 政教分離法の概要
- 3 政教分離法の影響
- 4 脚注
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