国包 (掛川市)とは? わかりやすく解説

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国包 (掛川市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/12 05:06 UTC 版)

日本 > 静岡県 > 掛川市 > 国包
国包
国包
国包の位置
北緯34度40分0.7秒 東経138度3分46.38秒 / 北緯34.666861度 東経138.0628833度 / 34.666861; 138.0628833
日本
都道府県 静岡県
市町村 掛川市
区域 大東区域
地区 千浜地区
人口
2018年(平成30年)11月30日現在)[1]
 • 合計 253人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
437-1414[2]
市外局番 0537 (掛川MA)[3]
ナンバープレート 浜松
※座標は掛川市国包集会場付近

国包(くにかね)は、静岡県掛川市の地名である。

地名の由来

郷土雑誌によると、当地に住んでいた鍛冶の名にちなむ。

地理

菊川平野の南部の牛淵川が菊川に合流する地点の南に位置する。

歴史

江戸時代から1889年(明治22年)まで城東郡国包村として存在した。江戸時代には横須賀藩に属していた。石高は「元禄高帳」によると293石余であり、「天保郷帳」「旧高旧領」によると411石余であった。「遠淡海地志」によれば戸数40戸であった。1832年(天保2年)〜1847年(弘化3年)まで東海道掛川宿代助郷であった。稲作を中心に五穀のほかダイコンからし菜シロウリウリトウガンスイカナスサトウキビ木綿などを栽培した。用水は牛淵川を利用した。鎮守は鹿島大明神で、ほかに寺社は春日大明神社・天神社・天王社・天白社・臨済宗竜泉寺があった。1868年(明治元年)に、駿府藩領(同2年静岡藩と改称)、同4年静岡県浜松県を経て同9年再び静岡県に所属した。1889年(明治22年)千浜村の大字となる。1891年(明治24年)の戸数は、48戸、人口289人、船数2船であった。

沿革

世帯数と人口

2018年(平成30年)11月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

大字 世帯数 人口
国包 83世帯 253人

小・中学校の学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[4]

番・番地等 小学校 中学校
全域 掛川市立千浜小学校 掛川市立大浜中学校

交通

鉄道
鉄道は通っていない。
バス
しずてつジャストライン掛川大東浜岡線国安バス停が最寄。
道路
地域内ではないが、静岡県道372号線、静岡県道247号線が付近を走る。

施設

  • 国包集会場
  • 掛川市役所大東支所(三俣)

その他

日本郵便

  • 郵便番号 : 437-1414[2](集配局:遠江大東郵便局[5])。

警察

町内の警察の管轄区域は以下の通りである[6]

番・番地等 警察署 交番・駐在所
全域 掛川警察署 大東交番

脚注

  1. ^ a b 掛川市の住民登録人口”. 掛川市 (2018年12月2日). 2019年1月1日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2019年1月1日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年1月1日閲覧。
  4. ^ 掛川市内小・中学校通学区一覧”. 掛川市. 2019年1月1日閲覧。
  5. ^ 郵便番号簿 平成29年度版 - 日本郵便. 2019年01月01日閲覧 (PDF)
  6. ^ 交番・駐在所案内”. 掛川警察署. 2018年12月31日閲覧。

参考文献

外部リンク




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