四日市ぜんそく
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公害対策
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- 四日市市によって四日市市内の小学校・中学校・高等学校などの教育機関を対象に、以下の公害対策が実施された。
- うがい室を設置して毎日6回のうがいをする。
- 毎朝実施する乾布摩擦を小学校で導入する。
- 悪臭がする時に塩浜小学校の全員で避難する公害用講堂の設置をする。
- 教室での空気洗浄機の設置をする。
- 臭いが酷い時に使用する活性炭入りの公害マスクを使用しながらの小学校への通学をする。
- ビタミンA入りの肝油を子供に配り飲食をする[69]。
- 小学校の遠足は空気が綺麗な場所へ行き公害病児は林間学校へ行く。
- 小学校・中学校・高等学校の移転などの公害対策をした。
- しかし児童以外の公害患者には、公害問題を解決する積極的な公害対策をしなかった。
- 塩浜地区を中心とする四日市市南部地域・四日市市中部地域が四日市公害の発生地区であった。四日市市北部・四日市市西部には大気汚染による公害被害がなかった。
- 日本社会党や日本共産党などの革新政党が積極的な公害対策を行い、公害患者を支援して公害裁判の支援や環境運動を繰り広げた。
- 四日市ぜんそくの発生を予防する四日市市民全員を対象とする公害対策で効果があったのは以下の積極的な政策であった。
- 中近東(アラブ地方)の硫黄含量の多い重油から低硫黄重油への切り換えによる原料の変更を実施する。
- 四日市コンビナートの煙突に脱硫装置を設置する。
- 60m級の煙突から150m - 200mの高煙突への変換によって亜硫酸ガスの拡散を防止するなどの環境技術の革新政策を行った[99]。
- 喘息患者の医療費を公費で無料化する。
- これらの政策が四日市公害の対策に最も効果があった。
四日市市の対策
四日市市は住民に対する公害対策として、塩浜地区の塩浜小学校と三浜小学校では健康作りのため学校内にうがい室が設置されてうがいと乾布摩擦を取り入れて、教室では空気洗浄機を設置した。社会科の教科書でも掲載されている活性炭入りのマスクで塩浜地区の小学生が通学した。塩浜小学校と三浜小学校の児童は体力測定で四日市市内の中で下位であった。塩浜小学校ではスモッグに包まれて校庭・教室に悪臭が充満して目からポロポロ涙が出て児童は校庭に避難するなど戦争中の空襲警報を再現する生き地獄だった。公害による環境悪化から逃れるために、塩浜中学校と四日市商業高等学校の定時制課程(富田地区移転後は四日市北高等学校に改称、現在の三重県立北星高等学校)が移転した。また、乳児死亡率が全国平均と比較して、四日市市(特に塩浜地区などの四日市市南部・中部)の乳児死亡率が高かった事から、乳児も健康対策から空気が綺麗な四日市市郊外に避難した。
公害の発生地区
- 1967年9月に公害病認定患者9人がコンビナート6社を相手に提訴した。
- 公害が発生したのは、四日市市全体ではなく四日市市24地区中の以下の地区で公害があった[100]。
- 以上が公害発生地区でこれら7地区から8地区のみで、四日市喘息が発生した。公害発生地区は特に酷い公害の被害を受けた第1コンビナート周辺の塩浜地区(塩浜小学校区・三浜小学校区)から公害の拡大で浜田地区(浜田小学校区)・日永地区(日永小学校区)・三重郡楠町(現在の楠地区)第2コンビナート周辺で被害を受けた納屋地区(納屋小学校区)・東橋北地区(東橋北小学校区)・西橋北地区(西橋北小学校区)・海蔵地区(海蔵小学校区)・中部地区(中部東小学校区・中部西小学校区)を中心とする四日市市南部の臨海地域であり、四日市市北部と西部は公害で汚染されず喘息患者が少なかった。
日本列島一周マラソン
歴史風土記の記述で実際にあったストーリが以下のように執筆されている。四日市市立塩浜小学校では乾布摩擦を行うための音楽と『左手、下から上へ。上から下への。左首、右首。左腹、右腹』と先生の号令が教室中に響き、号令に合わせて児童たちの胸や腹がみるみる赤くなった。塩浜小学校では公害に負けない身体つくりのために、乾布摩擦やうがいやマラソンに力を入れていた。1時間目の授業が終わると児童たちは廊下に集まってうがいをする校則があった[101]。重曹水で、のどにこびりついている二酸化硫黄を中和するためである。2時間目の授業が終了すると、全員がグランドを目指して日本列島1周マラソンとして1周150mのグランドを10周すると1.5kmを複数回何度も重ねて日本列島1周マラソンとして走り続けるなどの体育活動や健康活動で努力をしていた(歴史教育者協議会 1984)。
革新政党による公害対策
四日市市議会で日本社会党や日本共産党を支持する革新系四日市市議会議員が「平田佐矩市長は、ロングビーチ(姉妹都市提携)へばかり行ってないで、公害患者救済に本腰を入れろ」と追及した。日本社会党や日本共産党など革新勢力が自由民主党政権の保守勢力による高度経済成長が公害を招いたと公害問題に取り組み、また塩浜地区出身の前川辰男市議が四日市公害の問題に熱心に取り組んだ。前川辰男議員の四日市市議会での、公害に苦しむ塩浜地区民の思いを込めた演説は、公害対策や環境問題に取り組む名演説として感動を呼び、四日市市議会の議場から拍手が鳴り響いた。塩浜地区以外の四日市市議会議員は当初他人事のように思っていた。公害が他の地区の拡大したことで四日市市議会でも公害の重要さが他地区の市議の間でも問題視された。
「このままでは、四日市コンビナートの企業と九鬼喜久男を中心とする四日市市に殺される。どうせ死ぬなら、裁判で訴えよう」の患者の思いから、塩浜地区出身で日本社会党所属の前川辰男市議は、知り合いの野呂汎弁護士と相談した結果、四日市コンビナート企業と直接関係がなかった塩浜地区の患者と、悪質で公害の加害者であると立証できる企業に絞って四日市公害訴訟を津地方裁判所に提訴した。原告全員が揃ったのは、記念撮影をした場面の1回であり、病気による欠席が頻繁にあったことや、原告の78歳の男性や、38歳の主婦が病死したことで2度と全員が揃わなかった。日本社会党は革新政党として公害問題に取り組み「四日市ぜんそくを解決した社会党」と革新政党としての実績を宣伝して、支持者の獲得活動をした。1972年7月の第一次訴訟の勝訴判決後に沢井余志郎の呼びかけで、磯津地区の公害患者による第二次訴訟が準備されたが、四日市コンビナート企業と公害患者との和解による方法で解決した。
原告患者で裁判中に38歳で病死した原告の主婦には娘(長女)がいた。しかし、母親の死亡で高校1年生の1学期に中退をして高校進学するが困難となっていた。母親の公害病死後に経済的に貧困家庭となり、やむを得ず家事手伝い(主婦かわり)となっていた。その事情を知った日本社会党に所属していた塩浜地区出身の(四日市市議会議員)の福田香史や日本社会党所属の女性団体が、四日市市の日本社会党に支援活動を呼びかけて奨学金として高校進学が可能となり、感動物語として新聞記事となった。1972年9月1日には、福田香史市議(日本社会党)と秋葉三菱油化総務部長に付き添われて高校復学の手続きをとった。学習資金は三菱油化、家政婦の給与の補填は三菱化成が援助をした。本人の意思に関らずの善行であった[102]。
環境技術の革新
四日市市は公害病と認定した市民に対し、市費で治療費を補償する制度を1965年に開始。当時は国側にも公害患者を公費で救済する制度はなく、市の試みは全国初だった。認定患者の数は同年5月に行われた第一回の審査の時は18人だったが、1967年6月末には381人、1970年9月末には544人と急増。患者の増加に市だけでは治療費を負担できなくなり、国や企業も分担金を出すようになった。
四日市市の大気汚染を改善したのは、実は高煙突ではなく、脱硫装置の普及、より硫黄分の少ない原油への切り替えだった。この2つは硫黄酸化物削減法としては、当時最も効果的であった。国と企業は硫黄分の少ない原油の輸入を増やすと同時に脱硫装置の開発を研究した。四日市コンビナートでは、 1969年に大協石油(現在のコスモ石油)が初めて設置し、効果を上げた[103]。
このような脱硫対策が実現した背景には、硫黄が鉱山で採掘するよりも安価で手に入るという事情があった。これが実現するとともに硫黄鉱石の需要がなくなり、日本の硫黄鉱山は1960年代以降に閉山へと追い込まれたのであった。
また、精製過程で発生していた大量の水素ガスの利用法として水素を燃料とする自動車の開発が期待されていたが、実際に水素自動車が開発された頃には、精製方法の見直しによって、水素が発生しないように変わっていた。
注釈
出典
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