四日市ぜんそく 公害対策

四日市ぜんそく

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 02:20 UTC 版)

公害対策

[97] [98]

  • 四日市市によって四日市市内の小学校・中学校・高等学校などの教育機関を対象に、以下の公害対策が実施された。
  1. うがい室を設置して毎日6回のうがいをする。
  2. 毎朝実施する乾布摩擦を小学校で導入する。
  3. 悪臭がする時に塩浜小学校の全員で避難する公害用講堂の設置をする。
  4. 教室での空気洗浄機の設置をする。
  5. 臭いが酷い時に使用する活性炭入りの公害マスクを使用しながらの小学校への通学をする。
  6. ビタミンA入りの肝油を子供に配り飲食をする[69]
  7. 小学校の遠足は空気が綺麗な場所へ行き公害病児は林間学校へ行く。
  8. 小学校・中学校・高等学校の移転などの公害対策をした。
  • しかし児童以外の公害患者には、公害問題を解決する積極的な公害対策をしなかった。
  • 塩浜地区を中心とする四日市市南部地域・四日市市中部地域が四日市公害の発生地区であった。四日市市北部・四日市市西部には大気汚染による公害被害がなかった。
  • 日本社会党日本共産党などの革新政党が積極的な公害対策を行い、公害患者を支援して公害裁判の支援や環境運動を繰り広げた。
  • 四日市ぜんそくの発生を予防する四日市市民全員を対象とする公害対策で効果があったのは以下の積極的な政策であった。
  1. 中近東(アラブ地方)の硫黄含量の多い重油から低硫黄重油への切り換えによる原料の変更を実施する。
  2. 四日市コンビナートの煙突に脱硫装置を設置する。
  3. 60m級の煙突から150m - 200mの高煙突への変換によって亜硫酸ガスの拡散を防止するなどの環境技術の革新政策を行った[99]
  4. 喘息患者の医療費を公費で無料化する。
  • これらの政策が四日市公害の対策に最も効果があった。

四日市市の対策

四日市市は住民に対する公害対策として、塩浜地区の塩浜小学校と三浜小学校では健康作りのため学校内にうがい室が設置されてうがいと乾布摩擦を取り入れて、教室では空気洗浄機を設置した。社会科の教科書でも掲載されている活性炭入りのマスクで塩浜地区の小学生が通学した。塩浜小学校と三浜小学校の児童は体力測定で四日市市内の中で下位であった。塩浜小学校ではスモッグに包まれて校庭・教室に悪臭が充満して目からポロポロ涙が出て児童は校庭に避難するなど戦争中の空襲警報を再現する生き地獄だった。公害による環境悪化から逃れるために、塩浜中学校と四日市商業高等学校の定時制課程(富田地区移転後は四日市北高等学校に改称、現在の三重県立北星高等学校)が移転した。また、乳児死亡率が全国平均と比較して、四日市市(特に塩浜地区などの四日市市南部・中部)の乳児死亡率が高かった事から、乳児も健康対策から空気が綺麗な四日市市郊外に避難した。

公害の発生地区

  • 1967年9月に公害病認定患者9人がコンビナート6社を相手に提訴した。
  • 公害が発生したのは、四日市市全体ではなく四日市市24地区中の以下の地区で公害があった[100]
    1. 塩浜地区
    2. 中部地区
    3. 日永地区
    4. 橋北地区
    5. 海蔵地区
    6. 羽津地区
    7. 楠地区(三重郡楠町)
    8. 内部地区の一部
    9. 河原田地区の一部
    10. 常磐地区の一部
  • 以上が公害発生地区でこれら7地区から8地区のみで、四日市喘息が発生した。公害発生地区は特に酷い公害の被害を受けた第1コンビナート周辺の塩浜地区(塩浜小学校区・三浜小学校区)から公害の拡大で浜田地区(浜田小学校区)・日永地区(日永小学校区)・三重郡楠町(現在の楠地区)第2コンビナート周辺で被害を受けた納屋地区(納屋小学校区)・東橋北地区(東橋北小学校区)・西橋北地区(西橋北小学校区)・海蔵地区(海蔵小学校区)・中部地区(中部東小学校区・中部西小学校区)を中心とする四日市市南部の臨海地域であり、四日市市北部と西部は公害で汚染されず喘息患者が少なかった。

日本列島一周マラソン

歴史風土記の記述で実際にあったストーリが以下のように執筆されている。四日市市立塩浜小学校では乾布摩擦を行うための音楽と『左手、下から上へ。上から下への。左首、右首。左腹、右腹』と先生の号令が教室中に響き、号令に合わせて児童たちの胸や腹がみるみる赤くなった。塩浜小学校では公害に負けない身体つくりのために、乾布摩擦やうがいやマラソンに力を入れていた。1時間目の授業が終わると児童たちは廊下に集まってうがいをする校則があった[101]。重曹水で、のどにこびりついている二酸化硫黄中和するためである。2時間目の授業が終了すると、全員がグランドを目指して日本列島1周マラソンとして1周150mのグランドを10周すると1.5kmを複数回何度も重ねて日本列島1周マラソンとして走り続けるなどの体育活動や健康活動で努力をしていた(歴史教育者協議会 1984)。

革新政党による公害対策

四日市市議会で日本社会党や日本共産党を支持する革新系四日市市議会議員が「平田佐矩市長は、ロングビーチ(姉妹都市提携)へばかり行ってないで、公害患者救済に本腰を入れろ」と追及した。日本社会党日本共産党など革新勢力が自由民主党政権の保守勢力による高度経済成長が公害を招いたと公害問題に取り組み、また塩浜地区出身の前川辰男市議が四日市公害の問題に熱心に取り組んだ。前川辰男議員の四日市市議会での、公害に苦しむ塩浜地区民の思いを込めた演説は、公害対策や環境問題に取り組む名演説として感動を呼び、四日市市議会の議場から拍手が鳴り響いた。塩浜地区以外の四日市市議会議員は当初他人事のように思っていた。公害が他の地区の拡大したことで四日市市議会でも公害の重要さが他地区の市議の間でも問題視された。

「このままでは、四日市コンビナートの企業と九鬼喜久男を中心とする四日市市に殺される。どうせ死ぬなら、裁判で訴えよう」の患者の思いから、塩浜地区出身で日本社会党所属の前川辰男市議は、知り合いの野呂汎弁護士と相談した結果、四日市コンビナート企業と直接関係がなかった塩浜地区の患者と、悪質で公害の加害者であると立証できる企業に絞って四日市公害訴訟を津地方裁判所に提訴した。原告全員が揃ったのは、記念撮影をした場面の1回であり、病気による欠席が頻繁にあったことや、原告の78歳の男性や、38歳の主婦が病死したことで2度と全員が揃わなかった。日本社会党は革新政党として公害問題に取り組み「四日市ぜんそくを解決した社会党」と革新政党としての実績を宣伝して、支持者の獲得活動をした。1972年7月の第一次訴訟の勝訴判決後に沢井余志郎の呼びかけで、磯津地区の公害患者による第二次訴訟が準備されたが、四日市コンビナート企業と公害患者との和解による方法で解決した。

原告患者で裁判中に38歳で病死した原告の主婦には娘(長女)がいた。しかし、母親の死亡で高校1年生の1学期に中退をして高校進学するが困難となっていた。母親の公害病死後に経済的に貧困家庭となり、やむを得ず家事手伝い(主婦かわり)となっていた。その事情を知った日本社会党に所属していた塩浜地区出身の(四日市市議会議員)の福田香史や日本社会党所属の女性団体が、四日市市の日本社会党に支援活動を呼びかけて奨学金として高校進学が可能となり、感動物語として新聞記事となった。1972年9月1日には、福田香史市議(日本社会党)と秋葉三菱油化総務部長に付き添われて高校復学の手続きをとった。学習資金は三菱油化、家政婦の給与の補填は三菱化成が援助をした。本人の意思に関らずの善行であった[102]

以上は 前川辰男 1981,前川辰男 1988

環境技術の革新

四日市市は公害病と認定した市民に対し、市費で治療費を補償する制度を1965年に開始。当時は国側にも公害患者を公費で救済する制度はなく、市の試みは全国初だった。認定患者の数は同年5月に行われた第一回の審査の時は18人だったが、1967年6月末には381人、1970年9月末には544人と急増。患者の増加に市だけでは治療費を負担できなくなり、国や企業も分担金を出すようになった。

四日市市の大気汚染を改善したのは、実は高煙突ではなく、脱硫装置の普及、より硫黄分の少ない原油への切り替えだった。この2つは硫黄酸化物削減法としては、当時最も効果的であった。国と企業は硫黄分の少ない原油の輸入を増やすと同時に脱硫装置の開発を研究した。四日市コンビナートでは、 1969年大協石油(現在のコスモ石油)が初めて設置し、効果を上げた[103]

このような脱硫対策が実現した背景には、硫黄が鉱山で採掘するよりも安価で手に入るという事情があった。これが実現するとともに硫黄鉱石の需要がなくなり、日本の硫黄鉱山は1960年代以降に閉山へと追い込まれたのであった。

また、精製過程で発生していた大量の水素ガスの利用法として水素を燃料とする自動車の開発が期待されていたが、実際に水素自動車が開発された頃には、精製方法の見直しによって、水素が発生しないように変わっていた。


注釈

  1. ^ 戦時中の原子爆弾投下を繰り返さないノーモア広島ノーモア長崎の原爆ノーモアのヒロシマ・ナガサキがあるが、戦後の革新政党や環境運動家が叫んだノーモアとして公害問題では水俣病のノーモア水俣と四日市ぜんそくと四日市公害に反対するノーモア四日市と新潟水俣病再びのワンモア水俣がある。イタイイタイ病は富山病ではなくて呼称が地名ではなくてノーモアと言われなかった。
  2. ^ 静岡ではノーモア四日市と第二の四日市公害が叫ばれた
  3. ^ 社会科日本史戦後の公害の記述では四日市ぜんそくについては亜硫酸ガスが原因とされているが、水俣病・イタイイタイ病のように原因物質が正確には立証や特定されていない

出典

  1. ^ a b 『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)沢井余志郎63頁
  2. ^ http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2634
  3. ^ 『ファミリー版世界と日本の歴史12巻』『現代4巻21世紀への扉』72頁
  4. ^ 四日市ぜんそく 地球doctor
  5. ^ 四日市ぜんそくの原因の質問と回答より
  6. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、28頁14行目から25行目
  7. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久212頁
  8. ^ 『四大公害病』政野淳子執筆192頁2行目から4行目
  9. ^ a b (参考文献)は四日市市史(第14巻)史料編現代I。
  10. ^ a b (参考文献)は四日市市史(第15巻)史料編現代II。
  11. ^ a b (参考文献)は、四日市市史(第19巻)通史編現代。
  12. ^ (引用ホームページ)は、「四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1」四日市公害ぜんそく。
  13. ^ (引用ホームページ)は、かんきょう四日市
  14. ^ 『菜の花の海辺から上巻評伝田中覚』42頁
  15. ^ 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌(昭和51年に発行)187ページから188ページ下段8行目
  16. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)巻末付表の37ページから38ページ歴代市長・助役・収入役3役
  17. ^ 綿糸紡績の歴史じばさん三重 2020年2月11日閲覧
  18. ^ 『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)沢井余志郎144頁から146頁
  19. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、34頁右側の段落1行目から15行目
  20. ^ 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌(昭和51年に発行)187頁から188頁下段8行目
  21. ^ 2008年総務省 都道府県統計 県民1人当たりのGDP(県民所得)
  22. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)巻末付表の37頁から38頁 歴代市長・助役・収入役3役
  23. ^ 参考文献は、川名英之 1986,菅井益郎 2001,四日市公害記録写真集編集委員会 1992
  24. ^ (参考文献)は、四日市市史(第14巻)史料編現代Iの四日市公害についての記述。
  25. ^ (参考文献)は、四日市市史(第15巻)史料編現代IIの四日市公害を中心とする四日市戦後史の記述。
  26. ^ (参考文献)は、四日市市史(第19巻)通史編現代、639頁
  27. ^ 塩浜中女子生徒・海蔵小学校1年生死亡の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、635頁
  28. ^ 公害予防マスク・文部大臣視察。汚染地区非汚染地区小学校健康比較の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、708頁
  29. ^ 広報よっかいちの公害統計の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、731頁
  30. ^ 最初の公害患者の死亡の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、739頁
  31. ^ 公害患者の自殺の記述。公害患者の年齢・性別・地区別の統計。四日市市史(第19巻)通史編現代、752から755頁
  32. ^ 雨池町・平和町の集団移転の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、618頁
  33. ^ 日本横断運河の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、703頁
  34. ^ 公害対策委員会設置の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、723頁。黒川調査団の記述。
  35. ^ (引用ホームページ)は「四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1」四日市公害ぜんそく
  36. ^ a b ファミリー版世界と日本の歴史12巻現代4巻21世紀への扉71頁
  37. ^ a b ファミリー版世界と日本の歴史12巻現代4巻21世紀への扉72頁
  38. ^ http://www.cty-net.ne.jp/~mido-kan/site1/ayamachi.html
  39. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、700頁から702頁
  40. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、30頁右側1行目から3行目と左側1行目から9行目
  41. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、700から702頁
  42. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、723頁
  43. ^ 『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)沢井余志郎102頁から107頁
  44. ^ 『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)沢井余志郎112頁から115頁
  45. ^ 『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)沢井余志郎110頁から111頁
  46. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)713頁
  47. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、541頁1行目から7行目
  48. ^ a b 日本の公害④高度経済成長と公害4頁。写真と絵画と集成は樋口健二。監修は宮本憲一
  49. ^ 四日市市史708頁4行目から15行目
  50. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、731頁4行目から12行目
  51. ^ http://www.mie-kita.gr.jp/kuwako_rekisi/31.html
  52. ^ https://www.pref.mie.lg.jp/common/content/000799580.pdf#search=%27%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E6%B4%A5%E5%B8%82100%E6%AD%B3%E4%BB%A5%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E5%8F%A3%27
  53. ^ 日本の公害④高度経済成長と公害35頁。写真と絵画と集成は樋口健二。監修は宮本憲一
  54. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、639頁11行目から12行目
  55. ^ 中日新聞. (1974年10月20日) 
  56. ^ 日本の公害④高度経済成長と公害81頁。写真と絵画と集成は樋口健二。監修は宮本憲一
  57. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、639頁12行目から13行目
  58. ^ http://yokkaichi-kougai.exp.jp/contents1/guide/1_zensoku/contents/preguidecss.htm
  59. ^ 四日市公害学習案内ガイドブック
  60. ^ http://yokkaichi-kougai.exp.jp/contents2/siminjuku/2007/7_m/flash/guidebook1%20zensoku.swf
  61. ^ 発作の苦しみ訴え稲垣君
  62. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、739頁3行目から6行目
  63. ^ 『四大公害病』193頁、著者は政野淳子、発行者は中公新書
  64. ^ 『四大公害病』194頁3行目から7行目
  65. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、739頁6行目から12行目
  66. ^ 伊勢新聞: 三重県地域面. (1972年9月3日) 
  67. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、739頁13行目から740頁7行目
  68. ^ http://yokkaichi-kougai.exp.jp/contents1/guide/4_5nen/contents/shidouan3.htm
  69. ^ a b http://www.city.yokkaichi.mie.jp/kankyo/kogai/aramashi12.html
  70. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I、635頁5行目
  71. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、29頁5行目から10行目
  72. ^ 『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県、歴史教育者協議会、岩崎書店、76頁8行目から77頁18行目
  73. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、31頁1行目から11行目
  74. ^ 参考文献は、四日市市史(第14巻)史料編現代I、の四日市公害裁判の四日市ぜんそく訴訟についての記述。
  75. ^ 参考文献は、四日市市史(第15巻)史料編現代IIの四日市公害を中心とする四日市戦後史の記述に掲載されている内容。
  76. ^ 四日市コンビナートを誘致した公害初期に四日市の市長であった平田市長の記述。塩浜地区出身の田中覚三重県知事の記述。平田佐矩の後任の四日市市長は九鬼喜久男であり、午起地区に第2四日市コンビナートを建設して、塩浜地区以外の四日市市南部・中部の臨海部に公害を拡大させた。四日市市の大気汚染をさらに悪化させたのに加えて、公害対策を怠り、四日市市民が死亡するケースとして子供の病死や公害患者の自殺など被害を拡大させた。四日市市の九鬼喜久男市長が、「四日市公害」の歴史に関わった記述を引用。
  77. ^ https://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10859329338.html
  78. ^ 『しおはま80年の変遷』塩浜村の四日市市合併80年史(発行)四日市市に合併80周年記念事業実行委員会編集委員会32頁
  79. ^ 『しおはま80年の変遷』塩浜村の四日市市合併80年史(発行)四日市市に合併80周年記念事業実行委員会編集委員会33頁
  80. ^ a b 『しおはま80年の変遷』塩浜村の四日市市合併80年史(発行)四日市市に合併80周年記念事業実行委員会編集委員会34頁
  81. ^ a b 『しおはま80年の変遷』塩浜村の四日市市合併80年史(発行)四日市市に合併80周年記念事業実行委員会編集委員会35頁
  82. ^ 『しおはま80年の変遷』塩浜村の四日市市合併80年史(発行)四日市市に合併80周年記念事業実行委員会編集委員会71頁
  83. ^ 『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県、歴史教育者協議会、岩崎書店、70頁1行目から72頁上段14行目
  84. ^ http://yokkaichi-kougai.exp.jp/contents1/guide/3_kiroku/contents/sonnara.htm
  85. ^ 磯津漁民一揆平田市長魚を買うの記述
  86. ^ 昭和35年3月3日7朝日新聞夕刊。
  87. ^ 『くさい魚とぜんそくの証文―公害四日市の記録文集』(はる書房、1984年)83頁8行目から85頁2行目
  88. ^ 四日市市史(第14巻)史料編現代I 四日市市史(第15巻)史料編現代II。「塩浜・富洲原魚事件」。1963年の出来事として記述
  89. ^ 昭和41年12月13日四日市市議会議事録
  90. ^ 昭和42年6月16日四日市市議会議事録
  91. ^ 『三重県紳士録』、246頁第3段落の左側の(住所・生年・現職・経歴・趣味・家庭・横顔)の九鬼喜久男の項目
  92. ^ 『三重県紳士録』246ページ第3段落の左側の(住所・生年・現職・経歴・趣味・家庭・横顔)の九鬼喜久男の項目
  93. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、30頁4行目から6行目
  94. ^ 平野孝 『菜の花の海辺から 上巻』27頁 法律文化社、1997年
  95. ^ asahi.com 平成22年4月14日
  96. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)巻末付表の74頁地区別の人口と世帯数の推移。昭和30年から平成7年
  97. ^ (参考文献)は、四日市市史(第19巻)通史編現代。630頁⇒三重県立四日市商業高等学校と塩浜中学校の移転の記述。810頁⇒四日市公害裁判の四日市ぜんそく訴訟の記述。
  98. ^ (参考文献)は国史大辞典(四日市ぜんそくの項目で公害対策と環境技術の革新についての内容)の記事。
  99. ^ http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9B%9B%E6%97%A5%E5%B8%82%E5%96%98%E6%81%AF/四日市喘息用語辞書 [リンク切れ]
  100. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)736頁
  101. ^ 『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県、歴史教育者協議会、岩崎書店、74頁1行目から76頁7行目
  102. ^ 四日市ぜんそく公害訴訟判決その後 私記 公害四日市の戦後
  103. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、31頁右側14行目から23行目
  104. ^ 『四大公害病』176頁、著者は政野淳子、発行者は中公新書
  105. ^ 『四大公害病』178頁。著者は政野淳子。発行者は中公新書
  106. ^ 四日市公害からの提言環境快適都市をめざして(上野達彦朴恵淑)40頁
  107. ^ 四日市公害記録写真集編集委員会 『四日市公害記録写真集』四日市公害訴訟判決20年記念、42頁から47頁
  108. ^ 日本の公害④高度経済成長と公害19頁。写真と絵画と集成は樋口健二。監修は宮本憲一
  109. ^ 『「四日市公害」市民運動記録集 1971-1982 全4巻』日本図書センター、2007年発行の42頁の新聞記事
  110. ^ 『四大公害病』204頁から205頁
  111. ^ http://yokkaichi-kougai.www2.jp/index.php/component/content/?view=featured&start=80
  112. ^ 『四大公害病』194頁10行目から195頁4行目
  113. ^ 「退官前日公害救済に扉」中日新聞 2022年7月29日付け、1面(岐阜11版)
  114. ^ 『引用ホームページ』は「四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1」四日市公害ぜんそく。
  115. ^ 『引用ホームページ』は武田邦彦が執筆した「工学倫理講 第七回 水俣病と四日市喘息」。
  116. ^ 2012年(平成24年)1月6日読売新聞社会面25頁
  117. ^ 蒋豊 (2017年10月23日). “中日で共に環境問題に取り組み理解し合う”. 人民日報海外版日本月刊. 2023年8月5日閲覧。
  118. ^ 読売新聞三重版、2011年10月3日






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「四日市ぜんそく」の関連用語

四日市ぜんそくのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



四日市ぜんそくのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの四日市ぜんそく (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS