四日市ぜんそく 四日市の地域事情

四日市ぜんそく

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 12:05 UTC 版)

四日市の地域事情

[93] [94] [95]

四日市市(南部・中部・北部・西部)の違い

  • 四日市市は以下の3つの地域に区分される。
    1. 四日市市南部地域
    2. 四日市市北部地域
    3. 四日市市西部地域
  • 四日市市南部は塩浜地区を中心とする南部地域(工業地域)と中部地区など四日市市街がある中部地域(商業地域)に地域区分される。
  • 四日市市南部の塩浜地区は革新勢力である日本社会党が強くて、四日市北部(漁村)と四日市西部(農村)は保守勢力である自由民主党が強くて自由民主党と革新勢力との地域対立と政治思想対立があった。
  • 四日市市は、四日市市南部(公害が発生した工業地帯)、四日市市北部(水害が発生した旧桑名藩領の漁村地域)、四日市市西部(旧三重郡の農村から宅地開発がされた地域)の地域対立があった。四日市市の地域による違いなど、地元の地域事情が四日市市の郷土史史料の中で、四日市市が抱えていた都市問題と三重県の政治問題として記述されている。

公害都市のイメージ

  • 堀江貴文ブログの記述でも話題となったように、水俣市と同様、公害病の名称は四日市市に公害都市のイメージを与えた[96]

宝町

  • 昭和7年の東洋毛糸紡績四日市工場の馳池西部進出時に工場社宅として造成されて東紡社宅と呼ばれていた。昭和27年の臨海土地区画整備事業による町名新設で馳池大字宝島から宝町に改名された。東洋紡績塩浜工場はコスモ電子・太陽化学クノール食品の工場や企業用地となった[97]

石原町

  • 石原産業の四日市工場が塩浜に進出した後に造成された500戸の社宅地。町名は石原産業の企業名が由来である。三重火力発電所の建設で中里町の石原産業社員社宅が建設されて石原産業社員が引っ越して石原町(社宅の住民がいなくなり無人となった)は消滅した[98]

浜旭住宅

  • 浜旭住宅は通称は浜住で鈴鹿川と健康増進センターの間にある町で住宅街。海軍官舎は日本肥料(三菱化学)の社宅と塩浜病院の職員の官舎となった。「名医の町」として四日市ぜんそくの治療をする三重県下最大の塩浜病院や戦後に四日市市立塩浜小学校が立地していた[99]

小浜町

  • 昭和15年に旭村一帯に第2海軍燃料廠ができて、社宅地として建設された土地の町だった。内部川のトロッコで水田を埋め立てて昭和18年に造成された。石原産業・大協石油日本板硝子など関連軍需工場の社宅が建設された。塩浜小字浜田から四日市市中部地区浜田と区別するため小浜となった[100]

松泉町

雨池町

  • 現在は海山道西のパナソニック四日市工場の敷地である。昭和42年の四日市公害対策で九鬼喜久男市長の集団移転政策で消滅した町である。古地図では北新貝と呼ばれた新田開発地である[102]

平和町

  • 海軍燃料廠の国有地だった。国有地払下げで四日市市が戦後の住宅復興対策として、4戸1棟の住宅15棟を建設して、太平洋戦争引揚者や戦災者を優先して入居した。昭和35年には磯津橋北詰の堤防に67戸の住宅があった。平和な生活を願って命名された。昭和42年の四日市公害対策で九鬼喜久男市長の集団移転政策で消滅した町である[103]

川尻町

参考文献の『おはなし歴史風土記』に以下の記述あり。1958年に、三重県四日市市に四日市コンビナートが建設されて、日本で最初の石油化学コンビナートとして石油を原料として、化学製品を製造する工場が稼働して、その時は多くの市民は「これで四日市が繁栄する」と喜んだ。「四日市コンビナートからの法人税で、学校建設や道路建設や商店街の再開発ができる。四日市市の流入する人口が急増して仕事が増加して経済が成長する。四日市は、生き生きした金持ちの自治体となる。四日市市民は四日市の繁栄と経済成長をする」と思考した。田畑を四日市コンビナートの石油化学企業の用地に売り渡した四日市市川尻町では、これが四日市のための貢献として役に立つ事を喜んで、川尻町中心部に大きな「日本合成ゴム誘致記念碑」を建立した。川尻町民は、日本合成ゴム四日市工場を「自分たちの工場」と呼び、川尻町の誇りとした。新工業の栄える石油化学重工業の町となった四日市を日本中の全国から見学に来て、人々は「四日市こそ新しい化学工業都市の代表だ」とうらやんだ[104]

ところが昭和40年代になり、四日市コンビナートの工場が書き出す二酸化窒素・二酸化イオウ・煙・玉ねぎの腐ったようなひどい匂いが、四日市市民に襲いかかった。川尻町には毎晩のように自治会会合が開催された。夏には蛙が鳴き、蛍の飛んでいた川尻町が、わずかの期間に人間が居住することが困難な公害の町に変化したからである。川尻町の住民と四日市の市民団体は、川尻町の全世帯を対象に、川尻町の全住民が公害がない他地域への集団移転による避難対策を、四日市市議会に請願するほどであった。「誘致記念碑は川尻町の恥や、取り壊せ」一人の農民の意見と、「記念碑を残すべき」とする意見と「壊すべき」との意見が対立して、記念碑の破壊が会合の結果によって決定していたところに、一人の老人が、みんなの住民を諭して、「記念碑は川尻町の魂じゃ。魂を壊してはいかん。川尻町のような悲劇が二度とないように、二度と公害がおきないように、わしらには世間の人に話す責任がある。川尻町の百姓の魂として記念碑を残さなければ、自分たちの先祖に申し訳ない」と呼びかけた。(歴史教育者協議会 1984)

平田佐矩市長と磯津漁民一揆(塩浜・富洲原魚事件)

塩浜地区の漁民は伊勢湾で捕れる魚が四日市コンビナートからの排水で油まみれとなり、伊勢湾の魚が汚染されるようになった。塩浜地区の磯津港で捕獲される魚は風評被害もあり漁業ができなくなった[105][106]

大気汚染より海の汚染が先であり、重油により臭い魚が多数ある。苦情で値引きがされる。東京都が通達するの記事が報道された[107]。そこで塩浜地区の漁民は昭和38年6月21日に「平田佐矩あの四日市市長が全部悪い漁業責任を取ってもらおう」と塩浜から富洲原まで大量の魚を持ちながら歩いた。富田地区富洲原地区の四日市市北部は四日市公害が発生せず四日市コンビナートを誘致したのが北部出身の平田市長だった事から北部(加害者)南部(被害者)の構造があり平田佐矩に反省させるため「油まみれになった魚を富田地区と富洲原地区の人が買って食べてくれるのか」と市長に迫り、平田佐矩市長に責任を追及するため富田一色本町の自宅に追し寄せた[108]。しかし、平田佐矩市長は「私が全部買います」と言って、魚を全部私費で買いとったことで、塩浜の漁師は無責任な悪徳政治家ではないと感心して、この対応で平田佐矩市長が責任感が強い人格者だったと理解し、塩浜地区の人は市長を恨むのをやめた。平田市長によって買い上げられた汚染された魚は富洲原港沖の伊勢湾で適切に処分されたエピソードがある[109]

また、平田市長は在任中に市内の喘息患者の医療費を、自身の財産と公費で無料化するなどして責任をとった。平田紡績は公害による汚染で伊勢湾周辺の漁村の富洲原漁港(四日市市富洲原地区の富田一色漁港と天ヶ須賀漁港)、富田漁港(四日市市富田地区の東富田町など富田浜周辺)、磯津漁港(四日市市塩浜地区の磯津地区の漁港)、川越漁港(三重郡川越町の北部の漁港)、楠漁港(三重郡楠町の漁港)、赤須賀漁港(桑名市赤須賀地区周辺の漁港)で行われていた漁業が衰退して、漁網の需要が減少した。水質汚染で漁業が衰退した事で平田紡績の経営が悪化し、四日市公害が平田紡績消滅の要因となった。

四日市市長(九鬼喜久男)

1965年に平田佐矩が急死し、その後に四日市市長となったのが、九鬼産業グループの経営者で四日市九鬼家出身の九鬼喜久男である。九鬼喜久男は「石油化学に公害は無い」[110]や「四日市の喘息は一般的な病気である」[111]という考えの持ち主であり、1966年(昭和41年)の四日市市長選挙で吉田千九郎元市長に接戦の末に勝利した。江戸時代に四日市市に移住した四日市九鬼家が九鬼産業グループを経営していた[112]。四日市九鬼家が、飯南郡飯高町出身で東京帝国大学を卒業した優秀な社員の男性を九鬼紋十郎の婿養子としたのが九鬼喜久男である。喜久男は九鬼産業の婿養子として九鬼肥料工業の社長になった。喜久男は四日市のケネディと呼ばれた大正時代生まれの若い市長である[113]九鬼紋十郎衆議院議員の養子となった九鬼は、公害患者との懇談会で「塩浜はいつまで漁業をするのか」と発言した。四日市市議会で「経済発展のための工業化政策に四日市コンビナートが必要であり、少々の公害被害が発生するのはやむを得ない」と発言した[114]。霞ヶ浦地区の第3コンビナートの建設をするための富田地区連合自治会との話し合いで「味噌屋には味噌のにおいがするコンビナートにはコンビナートのにおいがして当たり前」と発言し、特に四日市市内の地区では公害患者が多い塩浜地区民と対立した。

また、四日市の更なる工業化を目指して、第2コンビナート(午起地区)や第3コンビナート(霞ヶ浦地区)を建設して四日市コンビナートに進出した石油化学系企業を税制面で優遇した。大気汚染を出していた石油化学企業や財界の味方となり、公害対策も真面目にしなかったため「公害市長」としての悪評が広がった。

1972年に田中覚が三重県知事を辞職して衆議院議員に転身した。九鬼は、田中が知事として1972年にあった公害裁判の判決の頃に決断した総量規制などの公害対策を中止させ、四日市コンビナートの企業や三重県の財界を優遇するために三重県知事選挙に出馬する事とした。九鬼喜久男は「四日市に公害は無いと」して公害患者の存在を認めていなかった。九鬼は三重県教職員組合による公害に対する環境教育は偏向的な左翼思想教育だと認識しており三重県教育委員時代から三重県教職員組合と全面対決をしていた。三重県教職員組合は「反九鬼・反公害キャンペーン」を行い、全国一の組織率を誇る三重県教職員組合は組織の存亡をかけて田川亮三候補を全面支援した。九鬼は三重県南勢地域に建設予定の芦浜原子力発電所建設の推進、塩浜地区磯津公害患者への補償中止を公約にしていた。結局、選挙当初は自由民主党や財界の支持を得た九鬼が有利と見られていたが、四日市ぜんそく問題(四日市公害対策などの環境問題)が争点となり民社党日本社会党など野党の支持を得た田川亮三が当選、九鬼は落選した。

三重県知事(田中覚)

田中覚は故郷である塩浜地区の大気汚染の実態を、自身の身体で受ける健康被害で実験するために津市の三重県知事公舎ではなく、四日市市塩浜地区付近の三重郡楠町に住み楠町の楠駅から三重県庁まで近鉄名古屋線で通勤していた。塩浜地区出身の田中覚三重県知事は公害対策を真面目にした事で四日市市民の支持を得て衆議院議員に当選をする。伊勢新聞の記事では1972年第33回衆議院議員総選挙に出馬した田中覚候補を応援するために四日市市の中心市街地に来た田中角栄内閣総理大臣が達者な田中節で演説していたが、それを聞いていた地元四日市の高齢女性が田中角栄に対して「四日市の公害をどうにかして」と叫んだ。田中角栄総理大臣は四日市市内で記者会見をして「日本改造計画は四日市ぜんそくの発生とは無関係である。四日市公害は日本列島改造計画など公共事業政策が原因ではない。四日市コンビナート建設の計画ができる方が日本列島改造計画ができる時期より以前の話である」と述べた。「三重田中覚」の意味で塩浜地区に新しく埋め立てられた四日市コンビナートの土地が「三田町」と命名されて、塩浜地区には田中覚の支持者が多かった。

また田中覚は晩年に自身の人生を振り返り、四日市喘息の慰霊碑で慰霊をした。田中覚は自身の故郷である塩浜地区民の公害被害に心を痛めていた。実際には四日市喘息ではない心臓ぜんそくであったが、四日市喘息に発病したと主張して喘息症状で死去した。田中覚の伝記として平野孝 が執筆した『菜の花の海辺から 評伝田中覚』があり、紹介のタイトル文では「公害の責任を問われた総理大臣はいないが、公害の責任を問われた田中覚のような首長(昭和30年から昭和47年の公害発生時の三重県知事。四日市市長は吉田勝太郎→平田佐矩→九鬼喜久男と交代している)はいるか」と読者に問いかけている。従兄弟加藤寛嗣(昭和51年から平成8年の四日市市長)と菜の花だった塩浜のコンビナートが建設された土地で菜の花がたくさん咲く自然で子供時代に一緒に良く遊んだ思い出と「田中は地獄に落ちる」と故郷である塩浜地区民から非難される文章がある[115]

当初は塩浜地区に公害が発生したため「塩浜喘息」と呼ばれたが周辺地区にも拡がったため四日市喘息に改められた。公害による喘息患者のため県立塩浜病院で治療が行われたが公害患者の減少のため、1994年に閉鎖された。

(平野孝 1997)

九鬼喜久男市長による政治問題化

公害の発生だけで即裁判となるのではなく、戦後の高度経済成長期は日本全国でコンビナートによる大気汚染があり、公害問題は存在していた。四日市市以外の地域では神奈川県川崎市の川崎公害があった。昭和30年代から、国家政策に基づいて京浜工業地帯の一部である川崎市臨海部に石油化学コンビナートが建設されて、東京電力により火力発電所が設置されて、日本鋼管製鉄所も稼働していた。川崎市臨海部のコンビナート工場群からの大気汚染物質の排出に加えて、昭和40年代以降のモータリゼーションによる自動車交通量の急増が加わり、川崎区幸区を中心として激甚な大気汚染が出現した。川崎市で川崎ぜんそくと呼ばれる健康被害が発生した。その他の大気汚染による昭和時代戦後期の公害として、岡山県水島臨海工業地帯にも水島コンビナートの汚染物質によって大気汚染が拡大した公害があった。他には阪神工業地帯の阪神地域で発生した西淀川公害訴訟などの大阪公害や首都圏にも大気汚染が発生する環境問題があった。なぜ四日市ぜんそくだけが他の地域と比べて特に問題となったのかと云う疑問があるが、中京工業地帯の一部である四日市市特有の政治的な地域事情がある。

四日市コンビナートを誘致した平田は、公害患者への医療費無料化などの政策で公害対策を真面目に行っていた。四日市市と塩浜地区を中心とする公害患者の関係は良好であった。

平田の死後に四日市市長となった九鬼喜久男が「今は石油化学産業の時代で、工業化化学のおかげで今の日本がある。私は四日市市長として四日市の工業化をもっと進行させる」として四日市市議会で表明した。公害対策を真面目に取り組まず「工業化のために四日市市民に少々犠牲が出ても良い」と発言して公害患者や塩浜地区民と対立した。九鬼の公害対策の不備による政治問題化が四日市公害裁判の要因であり、訴訟の大きな引き金となった。

社会科の教育の内容

四日市市に実際に行ったことがない社会科の教師による日本史の戦後史における四大公害の授業や、保健科の教師によって、四日市市に対する公害の誤ったイメージができている。教科書的な化学の知識である、亜硫酸ガスが原因とする化学の授業に似た化学教育や環境教育を行って、理系的な科学教育を受けている[注釈 8]。公害の誤ったイメージを教育された他の都道府県民は、実際に四日市に行ってみるとイメージとの違いを感じる人が多い。だが、公害による大気汚染は改善したが汚染が完全に無くなったとはいえず今でもぜんそくにならない程度の悪臭は存在する。

三重県四日市市は、小中学校の社会科の教科書にある四日市公害の記述について、その後の環境改善の取り組みを加筆するよう求める要望書を文部科学省などに提出した。田中俊行市長が平成22年4月13日の定例会見で明らかにした。 田中市長は「現行教科書の記述では『四日市市は公害のまち』というイメージが永久に固定化され、改善の過程が全く認識されない。企業誘致にも集客活動にも不利になる」と話した。四日市市は社会科教科書の出版社9社のうち1社にしか環境改善の記述がないという見解である[116]

四日市公害(四日市ぜんそく)の認知度は国内では高い。海外では四日市市と姉妹都市提携があるアメリカ合衆国ロングビーチ市)と中華人民共和国天津市)では四日市公害の知名度が高いがその他の国ではそれほど有名ではない。

四日市市の政治問題

四日市ぜんそくは医学上の健康問題や理系の化学分野の知識として科学技術上の環境問題とされる。それ以外には政治問題であったとされる。高度経済成長を推進した自由民主党政権が保守政党(四日市コンビナート企業側)であり、保守政党の自由民主党vs日本社会党日本共産党の革新政党(公害患者側)の対立構図と保守政党の九鬼喜久男四日市市長vs公害患者側の構図がある。

保守・革新連合の相乗りであった平田佐矩(四日市市長)と田中覚(三重県知事)が誘致して公害問題を招き、保守・革新連合のオール与党であった。四日市公害が深刻化して三重県の政治は保守の九鬼喜久男(四日市市長)vs革新政党の前川辰男日本社会党所属の四日市市議会議員)の対立構図が誕生した。九鬼喜久男vs萩原量吉日本共産党の三重県議会議員)の対立構図も誕生した。保守・革新の相乗りから、三重県知事選挙は保守政党の「九鬼喜久男」vs革新政党の「田川亮三」の対立構図となった。四日市市長選挙も「保守」vs「保守・革新連合」対立構図から保守政党の「岩野見斉」vs革新政党の「前川辰男」の対立構図となった。

四日市市の経済問題

東洋紡績(四日市工場・三重工場・東洋紡績富田工場東洋紡績楠工場・塩浜工場)、東亜紡織(泊工場・東亜紡織楠工場)、平田紡績(四日市紡績工場・富洲原漁網工場)、三幸毛糸紡績(富田工場)、網勘製網(富田工場)などが立地していた四日市市は「紡績の町四日市」と呼ばれていた、繊維産業の町であった。繊維産業を中心とする軽工業の都市の四日市市から、新たに石油産業と化学産業を育成するために四日市コンビナートが誘致されて、四日市市が重工業化された。四日市市の産業構造が軽工業中心の繊維の町から重工業中心の石油化学の町に転換した事を意味する経済問題である。

四日市市の都市問題

四日市市南部・中部の伊勢湾沿いの臨海地域は、公害被害や漁業被害・再開発の遅れにより衰退を余儀無くされた。同じく伊勢湾沿いの臨海部である四日市市北部の富田地区・富洲原地区も伊勢湾台風東海豪雨などの水害や漁業被害や再開発の遅れで衰退を余儀なくされた。

四日市市の中心市街地である中部地区の人口は1965年の38488人をピークに1995年には24602人まで減少し、四日市市の中心部の橋北地区の人口は1965年の14667人をピークに1995年には7143人まで減少した。四日市市南部地域の塩浜地区は1965年の人口15650人をピークに1995年には8192人まで減少した[117]

四日市市北部地域の富田地区の人口は1965年の14461人をピークに1995年には11722人まで減少した。四日市市北部地域の富洲原地区の人口は1950年の17869人をピークに1995年には9761人まで減少するドーナツ化現象が発生するなど、四日市の市政が抱える都市問題が浮き彫りとなった。四日市公害を契機に四日市市内の政界の名門の家柄であった(九鬼紋七・九鬼紋十郎が国会議員を務めた九鬼家と平田耕一国会議員を務めたチヨダウーテ平田家と平田佐矩が四日市市長を務めた平田紡績家と九鬼喜久男が四日市市長を務めた九鬼産業家)・財界の名門の家柄であった(四日市市の平田佐次郎二代目平田佐次郎平田佐十郎平田佐矩の平田家と九鬼紋七九鬼紋十郎九鬼喜久男などが経営していた九鬼産業家の四日市二大実業家の富洲原平田家と四日市九鬼家が四日市地域で平田財閥と九鬼財閥を形成した)・教育界(平田一族の宗村佐信暁学園を創設して宗村完治・宗村南男が暁学園の理事長を務めた)で名門であった平田家(平田紡績家)と九鬼家(九鬼産業家)は没落に至った。


注釈

  1. ^ 塩浜地区など四日市市南部地域と海蔵地区など四日市市中部地域のみで四日市公害が発生した。患者は「死ぬより辛い」というほどの発作に苦しんだ。四日市市北部地域の富田地区・富洲原地区と四日市市西部地域は四日市公害の被害とは無関係である
  2. ^ 四日市市のみの公害と誤解されるが隣接する三重郡楠町にも公害患者が多数いた
  3. ^ 簡易表記や教育内容の教科書や正式名の四日市ぜんそくの呼称以外に難解漢字表記や医学用語では四日市喘息や水質汚染や喘息以外の病気など公害全体を指す四日市公害の呼称や四日市喘息の呼称がある
  4. ^ 四日市ぜんそくは他の三つの公害の水俣病・イタイイタイ病・新潟水俣病を日本政府が昭和43年に公害病と認定したが、四日市ぜんそくは日本政府の公害病認定がなくて公害病扱いされず、四日市のぜんそく事件と呼ばれていて、公害病ではなくて事件扱いされていた。
  5. ^ 戦時中の原子爆弾投下を繰り返さないノーモア広島ノーモア長崎の原爆ノーモアのヒロシマ・ナガサキがあるが、戦後の革新政党や環境運動家が叫んだノーモアとして公害問題では水俣病のノーモア水俣と四日市ぜんそくと四日市公害に反対するノーモア四日市と新潟水俣病再びのワンモア水俣がある。イタイイタイ病は富山病ではなくて呼称が地名ではなくてノーモアと言われなかった。
  6. ^ 静岡ではノーモア四日市と第二の四日市公害が叫ばれた
  7. ^ 2000年代の日本の都道府県で1人当たりの県民経済計算の所得がプラスとなったのは三重県・愛知県・静岡県・神奈川県・東京都・鹿児島県の6都県のみ。それ以外の府道県はマイナス成長か0%成長であった。三重県はシャープの立地、鹿児島県はキャノンの立地によるものである。
  8. ^ 社会科日本史戦後の公害の記述では四日市ぜんそくについては亜硫酸ガスが原因とされているが、水俣病・イタイイタイ病のように原因物質が正確には立証や特定されていない

出典

  1. ^ 『ガリ切りの記』生活記録運動と四日市公害(出版社)影書房(著者)沢井余志郎63頁
  2. ^ http://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2634
  3. ^ 『ファミリー版世界と日本の歴史12巻』『現代4巻21世紀への扉』72頁
  4. ^ 四日市ぜんそく 地球doctor
  5. ^ 四日市ぜんそくの原因の質問と回答より
  6. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、28頁14行目から25行目
  7. ^ 時代の流れが図解でわかる。『早わかり昭和史』古川隆久212頁
  8. ^ 『四大公害病』政野淳子執筆192頁2行目から4行目
  9. ^ (参考文献)は四日市市史(第14巻)史料編現代I。
  10. ^ (参考文献)は四日市市史(第15巻)史料編現代II。
  11. ^ (参考文献)は、四日市市史(第19巻)通史編現代。
  12. ^ (引用ホームページ)は、「四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1」四日市公害ぜんそく。
  13. ^ (引用ホームページ)は、かんきょう四日市
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  15. ^ 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌(昭和51年に発行)187ページから188ページ下段8行目
  16. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)巻末付表の37ページから38ページ歴代市長・助役・収入役3役
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  20. ^ 『引用ホームページ』は「四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1」四日市公害ぜんそく。
  21. ^ 『引用ホームページ』は武田邦彦が執筆した「工学倫理講 第七回 水俣病と四日市喘息」。
  22. ^ (参考文献)は四日市市史(第14巻)史料編現代I。
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  30. ^ (参考文献)は、四日市市史(第14巻)史料編現代Iの四日市公害についての記述。
  31. ^ (参考文献)は、四日市市史(第15巻)史料編現代IIの四日市公害を中心とする四日市戦後史の記述。
  32. ^ (参考文献)は、四日市市史(第19巻)通史編現代、639頁
  33. ^ 塩浜中女子生徒・海蔵小学校1年生死亡の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、635頁
  34. ^ 公害予防マスク・文部大臣視察。汚染地区非汚染地区小学校健康比較の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、708頁
  35. ^ 広報よっかいちの公害統計の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、731頁
  36. ^ 最初の公害患者の死亡の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、739頁
  37. ^ 公害患者の自殺の記述。公害患者の年齢・性別・地区別の統計。四日市市史(第19巻)通史編現代、752から755頁
  38. ^ 雨池町・平和町の集団移転の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、618頁
  39. ^ 日本横断運河の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、703頁
  40. ^ 公害対策委員会設置の記述。四日市市史(第19巻)通史編現代、723頁。黒川調査団の記述。
  41. ^ (引用ホームページ)は「四日市公害。学習案内。ガイドブック NO.1」四日市公害ぜんそく
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  122. ^ 四日市市史(第19巻・通史編・現代)736頁
  123. ^ 『おはなし歴史風土記』第24巻 三重県、歴史教育者協議会、岩崎書店、74頁1行目から76頁7行目
  124. ^ 四日市ぜんそく公害訴訟判決その後 私記 公害四日市の戦後
  125. ^ 菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、31頁右側14行目から23行目
  126. ^ 2012年(平成24年)1月6日読売新聞社会面25頁
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