井上成美
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 13:49 UTC 版)
教育思想
井上は軍事学よりも普通学を重視する教育方針を堅持した。この方針は武官教官の一部から強い反発を受け、戦局の悪化で即戦力を求める軍令部や航空関係者からも強く批判された。井上は、1952年(昭和27年)10月に、長井の自宅を訪れた防衛大学校初代校長の槇智雄(井上と同郷)に、その心境を井上は「私は(槇さんに)『ジェントルマンを作るつもりで教育しました』とお答えしました。つまり兵隊を作るんじゃないということです。丁稚教育じゃないということです。それではそのジェントルマン教育とは何かということになれば、いろいろ言えるでしょうが、一例を言ってみれば、イギリスのパブリック・スクールや、オックスフォード・ケンブリッジ大学における紳士教育のやり方ですね。これは、それとは別の話ですが、第一次世界大戦の折、イギリスの上流階級の人達が本当に勇敢に戦いましたね。日ごろ国から、優遇され、特権を受けているのだから、今こそ働かねばというわけで、これは軍人だけじゃないですね。エリート教育を受けた大半の人達がそうでしたね。私は、一次大戦の後、欧州で数年生活してみて、そのことを実感として感じました。『ジェントルマンなら、戦場に行っても兵隊の上に立って戦える…ということです。ジェントルマンが持っているデューティとかレスポンシィビィリィティ、つまり義務感や責任感…戦いにおいて大切なのはこれですね。その上、士官としてもう一つ大切なものは教養です。艦の操縦や大砲の射撃が上手だということも大切ですが、せんじつめれば、そういう仕事は下士官のする役割です。そういう下士官を指導するためには、教養が大切で、広い教養があるかないか、それが専門的な技術を持つ下士官と違ったところだと私は思っておりました。ですから、海軍兵学校は軍人の学校ではありますが、私は高等普通学を重視しました。そして、文官の先生を努めて優遇し、大事にしたつもりです」と語った[329]。井上は、教官たちに「自分がやりたいのは、ダルトン・プランのような 『生徒それぞれの天分を伸ばさせる天才教育』 ではない。兵学校の教育は 『画一教育』 であるべき。兵学校では、まず劣等者をなくし、少尉任官後に指揮権を行使するのに最低限度必要とされる智・徳・体の能力を持たせて卒業させ、その見込みのない者は退校させねばならない。兵学校教育の目標は、結果として、少尉任官に指揮権を行使する最低限度能力を持てないと見込まれる退校者を出さないよう、生徒をしっかり教育することである」という旨を示し、秀才は放っておけ、まず劣等者をなくせ、と端的に指示した[330]。
井上が兵学校長在任中に兵学校生徒は激増したが、それを教育する教官、特に普通学教官・体育教官の充足が困難で、太平洋戦争開戦後に制度化された一般兵科予備士官を活用することとなった。予め、教官配置に適した大学生等を「青田買い」して(具体的な方法は出典文献に記載なし)、兵科予備学生として採用し、兵科予備士官の基礎教育(6か月ないし3か月)のうちから「教育班」に配属して「教官養成教育」を施し、基礎教育終了後、一般の予備学生が砲術学校や通信学校などで教育される所を、「教育班」の予備学生は兵学校で「教官実務教育」を数か月受け、兵学校の普通学教官・体育教官となった[331]。戦争が激化し、初級士官の消耗と需要が激増すると、特に戦場帰りの武官教官から「戦争が終わるまでの特別措置として、普通学の時間を思い切って減らし、軍事学・訓練を主としたものに兵学校教育を転換すべし」という意見が高まったが、井上は、あくまでも、従来通りの「普通学重視」の方針を貫いた[332]。
兵学校には、よく海軍の現役・退役の先輩がやって来た。井上の着任以前は、その都度、全校生徒を集めて、先輩の講話を聞かせる例であったが、井上はこれを止めさせた。井上は「大将だって何を言い出すか分らない。自分の方針に反するようなことを言われては迷惑至極だ。例えば、校長時代にダルトン・プランという『天才教育』を主張した永野修身元帥が生徒の前で『おのれの天分を伸ばせ』などと言われたら、自分のしている百日の説法も屁一つになってしまう。ただでさえ、生徒たちは、自分の好きな学科だけやって嫌いなものをなおざりにする傾向があるのだから尚更である」と回想する[333]。
兵学校では、従来、最初の1年は全員が英語を学び、後は、英・独・仏・支那・露のいずれかを希望によって専修するシステムだったが、1941年(昭和16年)9月からは、全学年を通して英語だけを学ぶシステムに変っていた[334]。太平洋戦争開戦の前から、日本社会では「英米排斥」の風潮が強くなっており、中学校では英語の授業を減らしたり、廃止する所が多くなっていた。それを反映して、陸軍士官学校では、採用試験から英語を除いた。海軍省教育局は、非公式に兵学校側の意見を問い合せてきた。それを受けての、兵学校の教頭以下の教官を集めての会議では、英語科の教官以外が全員一致で「優秀な中学生が、英語の試験を嫌って陸士に流れるのを防ぐため、海兵でも陸士に倣って採用試験から英語を除くべし」と主張した。教頭が、井上に「教官の総意はご覧の通りですが、採用試験から英語を除くべし、と教育局に返答してよろしいでしょうか」と決裁を求めると、井上は「兵学校は将校を養成する学校だ。およそ自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。英語の嫌いな秀才は陸軍に行ってもかまわん。外国語一つもできないような者は海軍士官には要らない。陸軍士官学校が採用試験に英語を廃止したからといって、兵学校が真似をすることはない」と即答した。井上のこの決断により、兵学校の採用試験に英語が残されたことはもちろん、入校後の生徒教育でも英語が廃止されることはなかった。多数意見を却下された教官たちから「校長横暴」との声もあったが、「こういう問題は多数決で決めることではない」という井上の考えは揺るがなかった[335]。このことは、戦後、大学に入り直すなどして再出発することになった卒業生達から相当感謝されている[336]。
語学に優れていた井上は兵学校の英語教育について、「英語を英語のまま理解し、使う(英語を和訳し、日本語を英訳するのではない)」する「直読直解主義」を英語教官に示し、そのような教育をするよう工夫を求めた。そのため、英英辞典の使用を奨励し、その時に在校していた73期・74期と、入校予定の75期の一人一人に貸与するため、総数5千冊の英英辞典が必要となった。井上は、兵学校主計長に特に指示して、英英辞典5千冊を調達させた。英語教官たちは、井上の方針を実現するべく「授業中に日本語を一切使わない」など試行錯誤した[337]。ただし、兵学校の「名物英語教官」であった、文官教授の平賀春二は、井上の唱える英語教育方法は理想的だが、戦時中の兵学校で実現するのは困難と考えた。平賀は「旧制高等学校のように英語の時間数の多い学校でなら効果も上がりましょう。しかし、時間数の比較的少ない兵学校で、しかも戦局日々に緊迫の度を加えつつある折から、このような授業はまどろっこしく、且つ非能率だと思われてなりませんでした。また微妙な個所は外国の言葉ではままならず…」という[337]。井上も、「井上式英語教授法」の徹底が難しいことは理解しており、授業視察で、自分の期待通りの英語教育が実行されていないのを見ても、「井上式」を強制することはなかった[337]。
井上は兵学校にはつまらないルールが多すぎる、という結論に達し、生徒隊と企画課に訓育・学術教育とも、もっとゆとりのあるやり方に改めるよう指示した。その結果、生徒隊では隊務処理を、生徒が居住する「生徒館」内で済ませるよう改め、ルールを減らしていった。井上の改革は、生徒隊監事をして「校長はみんなぶちこわしてしまう」と言わせるほどであった[338]。学術教育についての井上の考え「詰め込み教育の改善」(井上の前任の各校長も、井上同様の印象を持ち、部下に検討・改善を指示していた)の実現は困難だった。井上の求めに応じて、企画課が検討して提出した答申は「かつて、永野校長時代に導入したダルトン・プランは失敗に終わった。当時の修業年限は3年8か月(その後、4年まで延長)あったが、現在は3年であり、さらに短縮される趨勢である。兵学校の学術教育で教えるべき内容が増えているのに、入校者の学力は、中学校の教育水準の低下によって落ちる一方。生徒数の増加によって、上下の格差が開いている。現在の兵学校の学術教育は、『劣』の生徒に、十分正確に理解させるので手一杯である」という趣旨であった。井上は「生徒数が非常に多くなっていたので、リモートコントロール方式、つまり教官たちに私の考えを充分理解してもらい、教官を通じて生徒たちに私の考え方を伝えてもらう方式を採った。私が兵学校で、何千人という生徒に対してやったのは『教官教育』です。それしか手はないと考えました」と回想する[339]。
井上は、兵学校長に着任して生徒の様子を実見した印象を「あのころの流行語でいうと、張り切っているのです。張り切っているというのは、私、大嫌いなんです。人間、朝から晩まで張り切っていられるものではないんです。リズムがあるはずなんだ」「下士官、兵ならいい。人から命じられて、人の指図で働くには、ああいうのが最良の部下なんだ。しかし、士官というものは、何を、いかに、いつ、どこでどうすべきかを、自分で考えて決定せねばならない。つまり、士官にとって自由裁量が一番大切なのだ。生徒に家畜みたいな生活をさせてはいけない、そう思いました」と回想する[14]。
井上が兵学校長に着任して約半年後、旧知の間柄でもある陸軍士官学校長の牛島満中将が兵学校を視察した際、「井上さん、君の所の生徒は皆可愛い顔をしている。私の所の生徒はもっと憎らしい顔をしているがね」と言った。これに対して、井上は「制服の色や形のせいでしょう」と答えているが、「校長横暴と言われながらもやってきたことの成果が出ている。他所の人も同じ感じを持つんだ」と、内心自ら慰めるところがあった[340]。
注釈
- ^ 「成美」の正しい読みは「シゲヨシ」[4]。しかし「セイビ」とも呼ばれた[5]。1981年に英国で刊行された日英海軍間関係の研究書には「イノウエ シゲヨシ 海軍少将、海軍省軍務局長。イノウエ セイビという呼び方で、より知られている…」とある[6]。
- ^ もう一人は塚原二四三。
- ^ 1959年(昭和34年)に井上が財団法人水交会の求めに応じて行った談話の中に「私は運動神経が極めて鈍いので、武道体技その他の実技はお話にならないほど下手で、剣道、柔道、水泳共クラス中最劣等だったと記憶する」とあり、スポーツは苦手であった[9]。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』では入校席次8位[12]
- ^ 大連-仁川-鎮海湾-佐世保-鹿児島-津方面巡航
- ^ マニラ-アンボイナ-パーム島-タウンズビル-ブリスベーン-シドニー-ホバート-メルボルン-フリーマントル-バタヴィア-シンガポール-香港-馬公-基隆方面巡航
- ^ 海軍では練習艦隊遠洋航海の終了後、クラスヘッドは連合艦隊旗艦に乗組む慣例であった[17]。
- ^ 「兼 分隊長」の辞令は出ていない[24]。
- ^ 榎本は井上と同学齢の1890年(明治23年)1月16日生、東京帝大法科を卒業した翌年の1915年(大正4年)10月に海軍教授兼海軍省参事官兼海大教官、1924年(大正13年)12月に海軍書記官、1938年(昭和13年)10月には、中将に相当する海軍文官の最高位「高等官一等」となり、国際法の権威として、次官級の待遇を受けて軍政に参画していた[33]。井上が兵37期クラスヘッドとして中将に進級したのは1939年(昭和14年)11月なので、井上が1945年(昭和20年)5月に大将に親任されるまでは、官吏としての席次において榎本が井上よりも上だった。榎本は井上が心を許した生涯で数少ない親友だった[34][35]。
- ^ 赤屋根で2本煙突の平屋の洋館で[55]、庭先から歩いて海岸に降りることができた[56]。この家に一時期住んでいた井上の孫の丸田研一によると、南側に応接室・食堂・寝室が並び、応接間と食堂の前がテラスになっていて、食堂と応接室には暖炉があり、北側に台所と女中部屋(この部屋のみ畳敷き)があった。応接室が成美の部屋で、机と成美が寝る造り付けのベッドがあった。寝室には2つのベッドがあり、靚子と研一が使った[57]。1975年(昭和50年)の井上の死の直後に、井上宅を見た中田整一が「洋風の2間ばかりの小さな家」と形容した、つましい家であった[58]。この家は、もともと1932年(昭和7年)11月1日に肺結核で死去した妻の喜久代の療養所として計画されたものである。当時、肺結核の治療法は「空気の清浄な場所で、十分な栄養を取って静養する」以外になかった。井上がイタリアから帰国して以降、空気の良い鎌倉に家を借りて喜久代を療養させていたが、さらに「空気の良い所」を求めた井上は長兄の秀二が、長井町に別荘を建てていたのでその土地の一部を譲り受けた。井上は秀二の別荘に泊まりに行っては半年もかけて具体的な計画を練った[59]。訪問客が「海に面していて、風の日はさぞきついでしょう」と尋ねると、井上は図を描いて「この家の建っている崖はこういう形で、快速軍艦の艦橋前面に似ている。ここを補強して強風が直接当たらずに上へ吹き抜けるようにしている。三浦半島のこの辺では台風時の瞬間最大風速が何メートル程度、風向きはこのように変るので、崖の先端からベランダまでこのくらい離して、屋根を何センチ低くした」と、細かい説明をしたという[60]。
- ^ 『伝記』や『阿川』では、当時の通称の「お茶の水高女」と表記されているが、『わが祖父-井上成美』 57頁に「(靚子は)東京高等女子師範学校(現 お茶の水女子大学)の付属に通っていた」とある。
- ^ この頃、井上宅に通じる畑の中の道は、自動車が通れる道幅があり、井上宅の玄関先まで自動車が入れた戦後の混乱時に、井上宅に通じる道について、近所の農民たちが畑の境界線をなし崩しに広げて道幅を狭め、1965年(昭和40年)頃には自動車が入れない細道になっており、井上宅の不動産価値を著しく下げていた[61]。
- ^ 戦後の井上は、今川福雄大佐に「私は、少将昇進後は新設される第三航空戦隊の司令官に補されると内定していました。時局が急変したので、第三航空戦隊の新設が流れ、横須賀鎮守府参謀長になったのです。海軍の人事は予定通り行きません」という旨を語った[67]。
- ^ 戦後の井上は「新聞記者も商売だ。彼らの成り立つように考えてやる(適切に情報を開示する)ことが必要だ。その反面、利用もできる」と語っている[71]。
- ^ 那珂はこの日は九州方面に出動中だったので、同じく横鎮所属で同型艦の木曽が代わりとなった[70]。
- ^ 米内は、早朝に副官から事件の報告を受けていた[73]。
- ^ 井上が答申書の条件としていた兵学校・機関学校の修業年限「4年」は、答申書提出の翌年3月卒業の兵65期・機46期まで維持されたが、1939年(昭和14年)3月卒業予定だった兵66期・機47期は支那事変により1938年(昭和13年)9月に繰上卒業して「3年6か月」となり、戦争の激化で最終的には「2年4か月」に短縮された[79]。
- ^ 井上が海軍省軍務局長として日独伊三国同盟に猛反対していた時、陸軍大臣の板垣征四郎中将は三国同盟を推進する勢力の中心だった[94]。板垣征四郎は、この時期には、陸相から支那派遣軍総参謀長に転じて南京にいた[95]。
- ^ 山本は、海大甲種学生29期で井上の教えを受け、その後、井上が軍務局一課長で山本が海軍大臣秘書官、井上が軍務局長で山本が軍務局第一課A局員、井上が支那方面艦隊参謀長で山本が同艦隊先任参謀、井上が海軍次官で山本が軍務局一課長と、4度に渡り、部下として勤務した。戦後に井上が胃潰瘍で倒れた際に世話になった医師が、偶然に山本の従兄かつ義弟であった。戦後も、井上と山本はたびたび手紙や品物をやり取りしていた[101]。
- ^ 井上は「戦艦なんか造ったって、飛行機が進歩したらだめだぞ、戦にならないぞという考えは、二、三年前の昭和12年頃から私の頭にあった。大きな戦艦なんか造るのはむだだ、と会議があるたびに出したわけです」と回想する[106]。
- ^ 「新軍備計画論」は、井上自筆(ペン書き)の原本が、防衛庁防衛研究所に現存している(1982年(昭和57年)現在)[109]。
- ^ 井上の回想では、井上は、及川海相に文書を手渡した後で「これでいい。私はこれでやめます。正しいことが一つも通らない海軍はいやになったから、馘を切って下さい」と言うと及川は「馘は切らんよ。やめさせない」と答えたという[111]。井上が「海軍を辞めます」と言ったのは、海軍省軍務局一課長時代、支那方面艦隊参謀長時代に続いて三度目であった。
井上の回想によれば「井上は破壊的な議論ばかりするという声が耳にはいったからです(省部連絡会議で、マル五計画を痛烈に批判したことを指す[112]。)。これじゃいかんと思ったので、建白書に自分の考えをまとめたのです。ただ破壊的に、こんなもの(マル五計画、その他の日本海軍の考え)はダメだと批判していただけではない。ずっと以前から、どういう軍備が必要かということを考えていたのだ、ということを示すためにもね。それで私はやめますっていったんだ」「私はいわゆる大艦巨砲主義に反対して、海軍の空軍化を力説したのだが、あれは航空本部長のときにいったんで誤解され、損をしましたよ。航空本部長でもってやったもんだから、我田引水だとか、セクショナリズムだとか、そういうふうにとられてしまいました」[113]。 - ^ 横須賀、呉のような軍港地には、鎮守府等の海軍の司令部が、艦隊司令部とは別に陸上に置かれていた。しかし、旗艦鹿島の母港の役割を果たしていたトラックには海軍の陸上司令部は存在せず、鹿島がその機能を兼ねていた[122]。
- ^ 大日本帝国憲法下の「官吏」は、「高等官(武官は士官)」とその下の「判任官(武官は准士官・下士官」の二つに分れた。高等官は、さらに上から「親任官(武官は大将)」「勅任官(武官は中将・少将)」「奏任官(武官は大佐~少尉)」の3つに分かれた。「官吏」の下の身分として、「兵卒」や「傭人・雇員」があり、「臨時雇い」の位置づけだった[126]。
- ^ 戦時中の1943年(昭和18年)・1944年(昭和19年)に、井上が奥津ノブ子(井上が4F長官の時、トラック所在の第四海軍軍需部の少女傭員であった)に送った手紙4通を見ると、現役の海軍中将たる顕官にあった井上が、奥津ノブ子を全く対等に遇していたことが分る[127]。
- ^ 太平洋戦争中は、中将に進級してから5年半経過しても現役にある者は大将に親任される例であった[172]。1939年(昭和14年)11月15日に 中将に進級した井上は、予備役にならなければ、1945年(昭和20年)5月に大将に親任される計算となる。史実では、井上は1945年(昭和20年)5月15日に大将に親任された。
- ^ その「当分の間」が終わる前に、太平洋戦争の敗戦で帝国海軍そのものが潰えてしまった[176]。
- ^ 兵78期は、それまでの海兵生徒が「中学4年修了以上」であったのと異なり、新設の「海軍兵学校予科生徒」として中学3年修了者を採用し[187]、1945年(昭和20年)4月3日に4,048名が、長崎県の針尾分校に入校した[186]。
- ^ 陸軍では、1938年(昭和13年)頃に士官学校修業年限を約半減して速成教育に転じたが、これを失敗と判断し、修業年限を旧に復しつつある状況。
- ^ この頃の心境につき井上は「ただでさえ3年修業でも教育は充分でないのに、まことに不見識な年限短縮であった。そして、それも急に決めてきたため、教科はすべてが尻切れになる次第だった。このような取扱いをされる生徒は、人間づくりの最も大切な年頃を踏みにじられたもので、見ようによっては一生を台なしにされるわけで、私は校長として看過すべきではないと思った。そして、今後これ以上の修業年限の短縮には、職を賭しても反対して生徒を守ろうと決心した」と回想する。
- ^ 戦後日本を支配したGHQは、軍の諸学校出身者(海兵や陸士を卒業した者は、旧制高校卒業者と同等に扱われ、旧制大学受験資格が与えられた)を、全学学生の1割に制限した[201]。
- ^ 高木は、前年の1943年(昭和18年)の秋頃から、東條・嶋田ラインの戦争指導に疑問を抱き、海軍部内・部外の同志と密かに意見を交わしていた。同志と語らい、「1944年(昭和19年)7月20日に東條を暗殺する」具体的計画を立てて準備をするに至ったが、実行寸前の7月18日に東條内閣が総辞職したため未遂に終わった[213]。
- ^ 高木惣吉少将は、1944年(昭和19年)から10年ほど前の1932年(昭和7年)「肺尖炎」という病気で転地療養をしたことがあった[214]。1944年(昭和19年)には肺尖炎はほぼ治癒していたが、生来の持病である「胃酸過少症」に悩まされ、常に希塩酸の小瓶を持ち歩かねばならない重症であった[215]。高木を、海軍省教育局長の要職から閑職に退かせても部内に不審を抱かせない名目として、井上が「病気休養」を持ち出すのは自然だった。
- ^ 米内が海相就任後も自宅に住んでいたので、海軍大臣官邸は空き家の状態だった。家族がおらず、東京に家を持たない井上は、次官就任を受諾した時に、大臣官邸の中の使用人区画に住む了解を得て、以来、大臣官邸の中に住んでいた[222]。
- ^ もともと次官は中将のポストである[232]。井上は高木に「次官退任は、大将になったから」と語っている。しかし、嶋田繁太郎の下で長く海軍次官を務めた沢本頼雄が、1944年(昭和19年)3月1日に大将に親任された後も、同年7月まで「軍事参議官 兼 海軍次官事務取扱」として次官の職務を務めた[235]直近の例があったこのため海軍大臣秘書官の麻生孝雄中佐、岡本功中佐らは、「大将次官でなぜ悪い。大将進級に反対する余り、次官までやめることはないではないかと思った」と、戦後不満を漏らしている[236]。
- ^ 井上がいつ長井に引っ越したかは不明。1945年(昭和20年)10月15日の予備役編入に先立ち、8月末に既に井上が長井にいたと伺わせる情報もある[250]。
- ^ 研一は、丸田家の縁者宅を転々とした後、約2年後に、八巻信雄・順子夫妻に引き取られて成人するまで養育され、早稲田大学教育学部を卒業して出版社に勤務した。丸田吉人の妹である八巻順子はクリスチャンで、「この子の面倒を見なければならない」という強い責任感を持ち、夫を説得して研一を引き取った。それを知った井上は、八巻順子に丁重な礼状を送った[262]。
- ^ 山本善雄少将は、あくまでも自分の想像に過ぎないが、として「井上さんが、ちょっとした贈り物にも返礼しなければ気が済まない性分なのは、支那方面艦隊でお仕えした自分はよく知っている。富士子さんの、入院中の井上さんへの献身的な看護ぶりは、我々が頭を下げてお礼を言いたい程であった。しかし、戦後の井上さんにはこれに報いる手立てが何もない。そこに軍人恩給が復活して、受給者(井上)が死んだ場合、親または配偶者は半額の遺族扶助料が終身支給されるようになった。井上さんが、押しかけ女房の気味のあった富士子さんと、敢えて結婚に踏み切られたのは、命の恩人である富士子さんに、自分の死後、僅かながらも終身の年金を保証し、せめてもの 『お返し』 をするためだったのではないか」という旨を述べている[282]。
- ^ 出典に、具体的な時期は書かれていない。矢野志加三中将は1966年(昭和41年)1月に72歳で死去している。1953年(昭和28年)の井上の大病の後、1964年(昭和39年)に深田秀明による金銭支援が始まる前の、昭和30年代のことであろう[283]。
- ^ 浦賀船渠の関連会社で、戦前・戦中はエリコン20ミリ機銃をライセンス生産していた大日本兵器が戦後に機械メーカーに転じて日平産業となった。合併を経て、2012年(平成24年)現在はコマツNTCとなっている。
- ^ この経緯について、井上が1975年(昭和50年)12月に死去した後、井上の相続人である孫の丸田研一が、井上の死の直後に深田から説明された。丸田は晩年の井上を支えていた、兵学校長時代の企画課長だった小田切正徳大佐から深田の説明を裏づける話を聞き、井上宅の押入れから、深田の説明通りの内容の公正証書を発見した[289]。
- ^ 1965年(昭和40年)当時の「古鷹ビル」は、2011年(平成23年)現在は「ふるたかビル」と改称している模様。
- ^ 日名子実三とその作品について詳述している、広田肇一 『日名子実三の世界-昭和初期彫刻の鬼才』 思文閣出版、2008年(平成20年)、74-75頁に、「井上成美像」が、制作の経緯、「 『井上成美』 (井上成美伝記刊行会)から転載」とクレジットされた写真と共に掲載され、「 『井上成美像』 であるが、謹厳実直、信念一貫、眼光炯々、井上の風貌と性格をあますところなく表現した(日名子の)初期肖像作品の優作である」と評されているが、「井上成美像」の所在については記述がない。
- ^ ママ。正しくは「多磨」。
- ^
以下の文章が、粗末な便箋2枚に書かれていた。
井上成美遺言 (明治二十二年十二月九日生まれ)。
小生の葬儀は密葬の事。
雑件
- (一)、葬儀場は勧明寺(長井町・・・)電話・・局の「・・・・」井上宅から歩いて十分。
- (二)、埋葬。東京多摩[注釈 44]霊園の本家墓地に埋葬のこと。この事は在中野分家の現主人井上秀郎承知。井上秀郎住所(・・・)
- (三)、花輪、供物、香典等は一切お辞退の事。附言。おつ夜その他の段等は荒井、長井等一般世間の習慣に依る事。
- ^ 阿部信行元首相は、井上が市立横須賀病院を退院した直後の1953年(昭和28年)9月7日に死去[279]。
出典
- ^ 阿川弘之 『米内光政』 新潮文庫、2002年、214頁。
- ^ a b 『伝記』 263頁。
- ^ 新名丈夫 『沈黙の提督 井上成美 真実を語る』 新人物文庫(新人物往来社)、2009年。
- ^ 『伝記』 資料編 314頁。井上成美の「奉職履歴」の原簿(海軍省人事局が所管。戦後は厚生省援護局<1982年(昭和57年)現在>が保管)。
- ^ 阿川弘之 『我が青春の記憶』 文藝春秋、2008年、付属CD1。
- ^ Arthur J. Marder, Old friends, new enemies: the Royal Navy and the Imperial Japanese Navy, Oxford: Oxford University Press, 1981, Reprinted 2002, p. 98。
- ^ 新名丈夫 『沈黙の提督 井上成美 真実を語る』 新人物文庫(新人物往来社)、2009年。
- ^ 『伝記』 3-4頁。
- ^ 『伝記』 資料編 272頁。
- ^ 『伝記』 5-7頁。(1939年(昭和14年)2月23日の朝日新聞宮城県版内容)
- ^ 『伝記』 26頁。
- ^ 秦郁彦編著 『日本陸海軍総合事典』 東京大学出版会、1991年、262頁
- ^ 『伝記』 25-26・28頁。
- ^ a b 『伝記』 360-361頁。
- ^ 『伝記』 27頁。
- ^ 『伝記』 31頁。
- ^ 小泉昌義 『ある海軍中佐一家の家計簿』 光人社NF文庫、2009年、91頁。
- ^ 『伝記』 49頁-50頁。
- ^ 『伝記』 53-57頁。
- ^ 『伝記』 58-60頁。
- ^ 『伝記』 60-62頁。
- ^ 『伝記』 63頁。
- ^ 『伝記』 66-67頁。
- ^ 『伝記』 資料篇 315頁 奉職履歴。
- ^ 『伝記』 66-71頁。
- ^ 『伝記』 71-73頁。
- ^ 『伝記』 74-78頁。
- ^ 『伝記』 78-80頁。
- ^ 『伝記』 79頁。
- ^ 『伝記』 80-82頁。
- ^ 『伝記』 83-88頁。
- ^ 『伝記』 89-97頁。
- ^ 『伝記』 279頁。
- ^ 雨倉孝之 『海軍アドミラル軍制物語』 光人社、1997年、122-128頁。
- ^ 『伝記』 73・432頁、秦郁彦編著 『日本陸海軍総合事典』 東京大学出版会、1991年、172-173頁。
- ^ 『伝記』 102-103頁。
- ^ 『伝記』 98-104頁。
- ^ 『伝記』 226頁。
- ^ 『伝記』 105-110頁。
- ^ 『伝記』 111-113頁。
- ^ 『伝記』 134頁。
- ^ 『伝記』 129頁。
- ^ 『阿川』 86-87頁。
- ^ 『伝記』 136頁。
- ^ 『伝記』 136-137頁。
- ^ 『伝記』 142-143頁。
- ^ a b 『伝記』 143頁。
- ^ 『阿川』 90頁。
- ^ 『阿川』 90-91頁。
- ^ a b 『阿川』 91頁。
- ^ 『伝記』 145頁。
- ^ a b 『伝記』 145-146頁。
- ^ 『伝記』 152頁。
- ^ 『伝記』 156-159頁。
- ^ 『阿川』 48頁。
- ^ 『伝記』 499頁。
- ^ 丸田研一 『わが祖父-井上成美』 徳間書店、1987年、24頁。
- ^ 中田整一 編/解説 『真珠湾攻撃総隊長の回想-淵田美津雄自叙伝』 講談社文庫、2010年、380-381頁。
- ^ a b 『伝記』 168頁。
- ^ 『阿川』 131頁。
- ^ a b 『阿川』 532頁。
- ^ 『阿川』 146頁。
- ^ 『阿川』 144頁。
- ^ 『阿川』 133・142頁。
- ^ 『阿川』 212頁。
- ^ 『伝記』 173-174頁。
- ^ 『伝記』 171-174頁。
- ^ 『伝記』 174頁。
- ^ 『伝記』 172-173頁。
- ^ a b 『伝記』 176頁。
- ^ a b 『伝記』 178頁。
- ^ 『伝記』 179頁。
- ^ a b 『伝記』 180頁。
- ^ 『伝記』 180-181頁。
- ^ 『伝記』184頁
- ^ a b 『伝記』 182-183頁。
- ^ 『阿川』 173頁。
- ^ 『阿川』 176頁。
- ^ 平間洋一他 『今こそ知りたい江田島海軍兵学校』 新人物往来社、2009年、70頁-72頁。
- ^ a b 『伝記』 211頁。
- ^ 『伝記』 221頁。
- ^ 『伝記』 223頁。
- ^ 『伝記』 224頁。
- ^ 『伝記』 228頁。
- ^ a b 宮野澄(1982),p128-9
- ^ 『阿川』 194頁。
- ^ a b 『伝記』 227頁。
- ^ 『伝記』 233-237頁。
- ^ 『阿川』 204頁。
- ^ a b 『伝記』 242-243頁。
- ^ 『伝記』 244頁。
- ^ 『伝記』 245-247頁。
- ^ 『伝記』 256-257頁。
- ^ 『伝記』 231頁。
- ^ 『阿川』 209頁。
- ^ 『阿川』 213頁。
- ^ a b 『伝記』 258頁。
- ^ 『伝記』 258-259頁。
- ^ 『阿川』 235頁。
- ^ 『伝記』 259-260頁。
- ^ 『伝記』 資料編 250頁。
- ^ 『伝記』 262頁。
- ^ 『伝記』 267頁。
- ^ 『伝記』 261頁。
- ^ 『伝記』 271頁。山本親雄少将の証言。
- ^ 『伝記』 272-273頁。
- ^ 『伝記』 268頁。
- ^ 新名丈夫『海軍戦争検討会議記録』毎日新聞163-164頁、『伝記』 283・287-289頁。
- ^ 『伝記』 資料編 125-135頁。
- ^ 『伝記』 292頁。
- ^ 『伝記』 292-293頁。
- ^ 『伝記』 289ページ
- ^ 『伝記』 293頁。
- ^ a b 『伝記』 304頁。
- ^ 『伝記』 305頁。
- ^ 『伝記』 304-305頁。
- ^ 『伝記』 305-306頁。
- ^ 『伝記』 306-307頁。
- ^ 『伝記』 309-310頁。出席していた海軍書記官・榎本重治の証言。
- ^ 『伝記』 310-311頁。
- ^ 『阿川』 272頁。
- ^ 『伝記』 318頁。
- ^ 『伝記』 320頁。
- ^ 『伝記』 322頁。
- ^ 『伝記』 317-318頁。
- ^ 『海軍アドミラル軍制物語』 35頁。熊谷直 『帝国陸海軍の基礎知識』 光人社NF文庫、2007年、76・87頁。
- ^ 『伝記』 資料編 257-258頁。
- ^ 『伝記』 322-325頁。
- ^ 戦史叢書49南東方面海軍作戦(1)ガ島奪回作戦開始まで26頁
- ^ a b 『伝記』 325頁。
- ^ 『阿川』 283-287頁。
- ^ a b #奥宮、太平洋戦争329-330頁
- ^ 草鹿 1979, pp. 83–85.
- ^ 草鹿 1979, pp. 90–91.
- ^ 草鹿 1979, p. 92.
- ^ a b 草鹿 1979, p. 113.
- ^ 草鹿 1979, pp. 93–94.
- ^ 戦史叢書49 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで 163頁
- ^ 『伝記』 331頁。
- ^ a b c #奥宮、太平洋戦争330頁
- ^ 『伝記』 333-334頁。
- ^ a b 『伝記』 464-465頁。
- ^ 吉田俊雄 『大本営参謀 最後の証言』 光人社NF文庫、2012年、78頁。
- ^ 『大本営参謀 最後の証言』 (光人社NF文庫版)、77-78頁。
- ^ 『ソロモンの激闘』 「歴史群像」太平洋戦史シリーズVol.59、学習研究社、2007年、93頁。
- ^ 『阿川』 312-313頁。
- ^ 『伝記』 526頁。
- ^ #ガダルカナル(辻1975)30頁
- ^ a b c #ガダルカナル(辻1975)31-32頁
- ^ 半藤一利 『遠い島ガダルカナル』 PHP文庫、2005年、51頁。
- ^ 千早正隆『井上成美のすべて』、新人物往来社、1988年(昭和63年)。千早 『日本海軍失敗の本質』(PHP文庫)160-197頁
- ^ 森史朗 『暁の珊瑚海』 光人社、2004年(平成16年)、60頁-61頁
- ^ 戸高一成編『海軍反省会7』PHP研究所269頁
- ^ 半藤一利『遠い島ガダルカナル』PHP文庫、2005年(平成17年)、50頁-61頁
- ^ #ガダルカナル(辻1975)52-53頁
- ^ 戦史叢書77巻 大本営海軍部・聯合艦隊(3)昭和十八年二月まで 19頁
- ^ 『伝記』 347頁。
- ^ 『伝記』 347-348頁。
- ^ 『阿川』 331頁。
- ^ 『伝記』 349頁。
- ^ 『伝記』 346頁。
- ^ a b 『伝記』 350頁。
- ^ 『伝記』 351頁。
- ^ 『伝記』 351-352頁。
- ^ a b c #翔鶴海戦記154頁『戦時中の海軍兵学校』
- ^ 『阿川』 377頁。
- ^ 『伝記』 355-356頁。
- ^ 『わが祖父-井上成美』 42・113-119頁。
- ^ 『阿川』 378-380頁。
- ^ 『伝記』 371-372頁。
- ^ 雨倉孝之 『帝国海軍士官入門』 光人社NF文庫、2007年、283-286頁
- ^ a b 『海軍アドミラル軍制物語』 163-164頁。
- ^ 『伝記』 349-350頁。
- ^ 『伝記』 370頁。
- ^ a b 『伝記』 356頁。
- ^ 『帝国海軍士官入門』 286-287頁。
- ^ 『伝記』 361-362頁。
- ^ 『伝記』 363頁。
- ^ 『伝記』 373-374頁。
- ^ 『伝記』 374-375頁。
- ^ 『伝記』 資料篇 204-206頁。
- ^ 『阿川』 447-449頁。
- ^ 『伝記』 353・410頁。
- ^ 『伝記』 354頁。
- ^ 『伝記』 354-355頁。
- ^ a b 『今こそ知りたい江田島海軍兵学校』 73頁。
- ^ 『今こそ知りたい江田島海軍兵学校』 86頁。
- ^ 『伝記』 394頁。
- ^ 『伝記』 392-396頁。
- ^ 『伝記』 398頁。
- ^ 『伝記』 398-399頁。
- ^ 『伝記』 399-400頁。
- ^ a b 『伝記』 400頁。
- ^ 『伝記』 400-401頁。
- ^ 『伝記』 401-402頁。
- ^ 『伝記』 403-404頁。
- ^ 『伝記』 405頁。
- ^ 『伝記』 418頁。
- ^ 『伝記』 406-407頁。
- ^ a b 『伝記』 407頁。
- ^ a b 『伝記』 397頁。
- ^ 『伝記』 397-398頁。
- ^ 『伝記』 415-417頁。
- ^ 斎藤成文「科学観測用ロケットの発展の経過 : 7. 観測ロケットの発達と科学衛星計画の進展―私のノートから(その3)―」『日本航空宇宙学会誌』第27巻第302号、日本航空宇宙学会、1979年、127-135頁、doi:10.2322/jjsass1969.27.127、ISSN 0021-4663、NAID 130003958301。
- ^ 『伝記』 424-425頁。
- ^ 『伝記』 426-427頁。
- ^ 『伝記』 406頁。
- ^ 『伝記』 429頁。アジア歴史資料センター レファレンスコード A03023548800 『特ニ親任官ノ待遇ヲ賜フ 海軍次官 井上成美』。
- ^ 発令は8月5日付。大蔵省印刷局 〔編〕 (1944年8月7日). “官報. 1944年08月07日”. 2012年4月29日閲覧。
- ^ 『伝記』 419頁。ある文官教官の記憶による
- ^ 『伝記』 446頁。
- ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 334-342頁
- ^ 『伝記』 451頁。
- ^ 『伝記』 449頁。
- ^ a b 『伝記』 452頁。
- ^ 『伝記』 446-447頁。
- ^ 『伝記』 447頁。
- ^ 『伝記』 452-453頁。
- ^ 『伝記』 476・486-487頁。
- ^ 『伝記』 487-488頁。
- ^ 『伝記』 488頁。
- ^ 『伝記』 425頁。
- ^ 『伝記』 453頁。
- ^ 『伝記』 453-454頁。
- ^ 『伝記』 454頁。
- ^ 戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発・生産・補給457頁
- ^ 戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期28-29頁
- ^ 『伝記』 458-461頁。
- ^ 『伝記』 463-464頁。
- ^ 『伝記』 466頁。
- ^ 『伝記』 465-466頁。
- ^ a b 『伝記』 470頁。
- ^ 『伝記』 471-472頁。
- ^ 『伝記』 472-473頁。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』 198頁。
- ^ 『伝記』 475頁。
- ^ 『伝記』 474頁。
- ^ 『伝記』 474-475頁。
- ^ 『伝記』 474-478頁。
- ^ a b 『伝記』 479頁。
- ^ 『伝記』 480頁。
- ^ 『伝記』 480-481頁。
- ^ a b 『伝記』 486頁。
- ^ 『伝記』 488-489頁。
- ^ 『伝記』 489頁。
- ^ a b 『伝記』 490頁。
- ^ 『伝記』 491頁。
- ^ 『わが祖父-井上成美』 170頁。
- ^ 『阿川』 31-32頁。
- ^ a b 『伝記』 498頁。
- ^ 『阿川』 47-48頁。
- ^ 『阿川』 116頁。
- ^ 『伝記』 502-503頁。
- ^ a b 『伝記』 511頁。
- ^ 『阿川』 340頁。
- ^ a b c d e 『伝記』 68頁。
- ^ 『伝記』 496-497頁。
- ^ a b 『伝記』 514頁。
- ^ 『伝記』 501頁。
- ^ 『伝記』 500-501・522-523頁。
- ^ 『阿川』 58頁。
- ^ 『わが祖父-井上成美』 173-178頁・204-206頁。『阿川』 549-550頁。『伝記』資料編 260-261頁。
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、19頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『朝日新聞』1952年3月15日一面
- ^ 『阿川』 327-330頁。
- ^ 『わが祖父-井上成美』 196頁。
- ^ 『伝記』 497-498頁。
- ^ 『阿川』 341頁。
- ^ 『伝記』 527-528頁。
- ^ 『伝記』 528-529頁。
- ^ 『伝記』 506頁。
- ^ 『阿川』 351-352頁。
- ^ 『阿川』 353頁。
- ^ 『阿川』 360頁。
- ^ 『阿川』 358・366頁。
- ^ 『阿川』 358-359頁。
- ^ 『伝記』 534頁。
- ^ 『阿川』 352-354頁。
- ^ a b c d 『阿川』 368頁。
- ^ a b 『伝記』 558頁。
- ^ 『阿川』 578頁。
- ^ 『阿川』 368-369頁。
- ^ a b 『伝記』 548頁。
- ^ 『伝記』 548-549頁。
- ^ a b 『伝記』 549頁。
- ^ 『阿川』 552-553頁。
- ^ 『阿川』 532-533頁・554-558頁。
- ^ 『阿川』 556頁。
- ^ 『わが祖父-井上成美』 44頁。
- ^ a b 『わが祖父 井上成美』 46頁。
- ^ 『伝記』 550-551頁。
- ^ 『阿川』533頁。
- ^ 『伝記』 479-480頁。
- ^ 『伝記』 558-560頁。
- ^ 宮野澄『最後の海軍大将・井上成美 文藝春秋文春文庫 339頁。
- ^ 『伝記』 559頁。
- ^ 『伝記』 570-571頁。
- ^ 『伝記』 571頁。
- ^ 『伝記』 572-573頁。
- ^ 『伝記』 560-561頁。
- ^ 横須賀市議会 (1999年9月8日). “平成11年 第3回定例会( 9月)-09月08日-01号”. 2012年4月29日閲覧。
- ^ 『真珠湾攻撃総隊長の回想-淵田美津雄自叙伝』(講談社文庫版) 384頁。
- ^ 「井上成美記念館-株式会社リゾートコンベンション企画」。
- ^ 光尾豊 (5 April 2024). "最後の海軍大将・井上成美が隠せい生活、横須賀の邸宅解体…英語塾開設し子どもらに教える". 讀賣新聞オンライン. 読売新聞社. 2024年4月5日閲覧。
- ^ 『阿川』 221頁。
- ^ 『日本海軍失敗の本質』 160頁。
- ^ 『阿川』 528頁。
- ^ 『伝記』 257頁。
- ^ 『伝記』 507頁。
- ^ 『伝記』 154頁。
- ^ 『阿川』 347頁。
- ^ 『伝記』 386頁-387頁。
- ^ 『わが祖父-井上成美』 188-189頁。
- ^ 『阿川』 543頁。
- ^ 『阿川』 165頁。
- ^ 『伝記』 資料篇 19頁 「思い出の記」。
- ^ 『伝記』 資料篇 23頁 「思い出の記」。
- ^ 『伝記』 191頁。
- ^ 『阿川』 169頁。
- ^ 『阿川』 564頁。
- ^ 『伝記』 225-226頁。
- ^ 『伝記』 210頁。
- ^ 『伝記』 290-291頁。
- ^ a b c #奥宮、太平洋戦争331-332頁
- ^ 『伝記』 302頁。
- ^ 『伝記』 296-297頁。
- ^ 『伝記』 298-299頁。
- ^ 『伝記』 338-340頁。
- ^ 『伝記』 364-365頁。
- ^ 『伝記』 366-367頁。
- ^ 『伝記』 357-358頁。
- ^ 『伝記』 359頁。
- ^ 『伝記』 375-376頁。
- ^ 『伝記』 388頁。
- ^ 『伝記』 388-389頁。
- ^ 『阿川』
- ^ a b c 『伝記』 389-391頁。
- ^ 『伝記』 361頁。
- ^ 『伝記』 362-363頁。
- ^ 『阿川』 398頁。
- ^ 半藤 2013, 位置番号 3904-3914、海軍大将略歴:井上成美
- ^ 『伝記』 10頁。
- ^ 『伝記』 550頁。
- ^ 塚本誠 『ある情報将校の記録』 中公文庫、1998年、40頁。
- ^ 『伝記』 535頁。
- ^ 『伝記』 537頁。
- ^ 『阿川』 544-546頁。
- ^ 『わが祖父-井上成美』 38頁。
- ^ 『伝記』 資料編 328頁。
- ^ 『わが祖父-井上成美』 178-181頁・213頁。
- ^ 『伝記』 7-8頁。
- ^ 『伝記』 17頁。
- ^ 『伝記』 14-16頁。
- ^ 『伝記』 22頁。
- ^ 『阿川』 181頁。
- ^ 『阿川』 265頁。
- ^ 『阿川』 337頁。
- ^ 『伝記』 17-19頁。
- ^ 『阿川』 214頁、『伝記』 550頁。
- ^ 『わが祖父-井上成美』 55頁。
- ^ 『伝記』 455頁。
- ^ 『伝記』 232-233頁。
- ^ 『官報』第1040号「叙任及辞令」1916年1月22日。
井上成美と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 井上成美のページへのリンク