ブラジルの歴史
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ブラジル合衆国時代
1889年11月15日にデオドロ・ダ・フォンセカ元帥により共和制が樹立されると、フォンセカは大統領に選ばれた[74]。ルイ・バルボーザの発案によってアメリカ合衆国憲法とアルゼンチン憲法を参考にして貴族制度の廃止などを盛り込んだ1891年憲法が公布され、この憲法の中でそれまでの県(provincia)は新たに州(Estado)となり、正・副大統領の直接選挙、三権分立が定められ、国名はブラジル合衆国と定められた。各州は独自の州憲法と州軍を保有し、ブラジルは中央集権的な帝制国家から、地方分権的な連邦共和制国家に移行した[74]。この地方分権的な政体は、コーヒー農場主をはじめとした共和主義の勝利であった[74]。
無血クーデターを経て権力を握ったフォンセカは、軍部を後ろ盾とし、ふたたび中央集権を進める動きをみせた[75]。1891月11年3日、フォンセカは議会を解散させ、戒厳令を敷いた。一方、軍の青年将校は大統領であるフォンセカよりも、副大統領のフロリアーノ・ペイショトを支持していた。これにくわえ、陸軍に対し反感を抱く海軍が、地方分権を志向する議会の側についたため、軍部の政治介入が成功、結果としてフォンセカは1891年のうちに失脚し、ペイショトが大統領となった。このときのクーデターにちなんで、ブラジルでは現在も、軍部による政治介入はフロリアニズモと呼ばれている。
反乱時代
カヌードス戦争
1894年に初の文民大統領として、サンパウロ州出身のプルデンテ・デ・モライスが就任した。旧共和政初期には旱魃や低開発が続く北東部は極めて不安定であり、モライス時代には1896年に北東部のバイーア州でアントニオ・コンセリェイロ(助言者アントニオの意)によって率いられたカヌードス戦争(カヌードスの乱とも)が勃発した[76]。コンセリェイロはキリスト教に深く帰依し、バイーア州の奥地のカヌードスにコロネルの支配が及ばない30,000人が生活する共同体を築いていたが、政府はカヌードスを認めず、三次に渡る遠征の末、1897年10月5日カヌードスの住民は一人残らず皆殺しにされ[77]、反乱は鎮圧された。この反乱はエウクリデス・ダ・クーニャに『奥地』を書かせた。この反乱は通貨価値を下落させたが、政府はロスチャイルドから借り入れて急場をしのいだ[78]。
コンテスタードの反乱
一方南部では1912年にパラナ州とサンタ・カタリーナ州の両州で千年王国思想の影響を受けたコンテスタードの反乱が勃発し、この反乱は5万人以上の農民を巻き込んで実に4年間続いた[79]。カヌードスやコンテスタードの反乱者はヨーロッパ化した中央政府や知識人には「狂信者」、「王政復古主義者」と呼ばれ、ダ・クーニャが『奥地』で表したように後進的な非白人を科学的な文明が討伐するとの大義名分が持ち出された[80]。しかし、彼等の反乱は理論的には洗練されていなかったが、人種主義や貧困に苦しむ人々が生活のために必要な資源を得るための戦いであった[81]。カヌードスの反乱が鎮圧された後にも、北東部の貧しい人々の戦いは、大地主に対するカンガセイロ(匪賊)の跋扈という形で続けられ、1918年から1938年まで活動した義賊[[ランピアン|ランピアン]]のような人物を生み出した[82]。
領土拡大
1898年にサンパウロ州出身のカンポス・サレスが大統領に就任し、リオ・ブランコ男爵を外務大臣に任命した。リオ・ブランコはこの先15年に渡って外務大臣を続け、アマゾン川流域地域における近隣諸国との間での国境未画定地の獲得に奔走し、1899年にボリビアとの間のアクレ紛争でアクレ州を獲得したのを皮切りに、フランス領ギアナ、オランダ領ギアナ、イギリス領ギアナ、コロンビア、ベネズエラとの武力とアメリカ合衆国の支持を背景にした交渉で多大な成果を挙げ、戦争に訴えずにブラジルの領土を299,400km²拡大した[83]。1909年には大戦争の際にウルグアイから得た広大な領土についてウルグアイとの合意が結ばれ、国境紛争を解決した。
移民
1902年にはサンパウロ州出身のロドリゲス・アルヴェスが、1906年にはミナス・ジェライス州出身のアフォンソ・ペナが大統領に就任した。以降、産業の中心だったサンパウロ州(コーヒー)と、ミナス・ジェライス州(牛乳)出身者の間で交互に大統領を出す体制が生まれ、両州の主産業からこの体制はカフェ・コン・レイテ(ポルトガル語でカフェオレの意)と呼ばれるようになった[84]。この時期に首都リオデジャネイロの改造が行われ、またサンパウロ州で発展を続けるコーヒー産業のために、奴隷制廃止後の代替労働力として南欧を中心とするヨーロッパからイタリア人、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人、ポーランド人、ウクライナ人、フランス人、ユダヤ人などが、中東から歴史的シリア出身のアラブ人(レバノン人、パレスチナ人など)が、さらに1908年には日本からも日本人移民が導入された。1820年から1930年までにヨーロッパや日本から約500万人の移民が流入したが、定着した約350万人の移民のうち、約200万人がサンパウロに定住した[85]。1900年代から工業化がリオデジャネイロとサンパウロで進んでいたが、これらの諸事情よりサンパウロ市の経済の中心としての地位は不動のものになった。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、1917年4月にブラジル商船がドイツの潜水艦に撃沈されたのをきっかけに、親米英外交に基づいて同年中にブラジルはドイツ帝国に宣戦布告し、連合国の一員となった。戦闘には参加せず、戦後はパリ講和会議に代表を派遣している。さらに国際連盟に加盟することにもなったが[86]、常任理事国になれなかったために1926年に連盟を脱退した。
ベルナルデス政権の腐敗による反乱
1922年にはミナス・ジェライス出身のアルトゥール・ベルナルデスが大統領に就任した。ベルナルデス政権もまた今までの政権の例に漏れず腐敗していたが、早くも同年には陸軍の青年将校(テネンテ)がリオデジャネイロの兵営で反乱を起こした。この反乱を端緒として下級青年将校による政治改革運動のテネンチズモが勃発した。この反乱は鎮圧されたが、1920年代には次第にこのカフェ・コン・レイテ体制に対する批判が強まり、軍や地方諸州の反乱が起こることになった[87]。
1924年にはサンパウロで陸軍の部隊が反乱を起こし、1925年4月にリオ・グランデ・ド・スルの兵営から反乱を起こしたルイス・カルロス・プレステス少佐(「希望の騎士」)の下でプレステス部隊を結成し、約1,500人からなるこの部隊は1929年にボリビアに亡命するまでに24,000kmに渡ってブラジル奥地を転戦し、53度に及ぶ政府軍やコロネルの私兵の追撃を退けた[88]。しかし、1926年にベルナルデスが任期を終えると、このような活躍がありながらもテネンチズモは、最後まで反ベルナルデス政権以上の大衆的な綱領を持たなかったために革命運動には繋がらずに終焉することになった[89]。
文化
文化面では、文学においては1897年にブラジル文学アカデミーが設立され、初代会長にはマシャード・デ・アシスが就任した。旧共和政初期には『奥地』(1902)のエウクリデス・ダ・クーニャや、リマ・バレット、モンテイロ・バレットなどが活躍した。さらに、19世紀末からナショナリズムの称揚が進み、歴史家カピストラーノ・デ・アブレウによる『ブラジルの古い道と植民』(1899年)の発表をきっかけに、ブラジルの国民性の根源を内陸部の混血住民に求める言説が生まれた。第一次世界大戦によってそれまでのブラジルのエリートが発展の模範にしてきた西ヨーロッパが没落するとこの潮流は一層強くなり、1922年2月にサンパウロで「近代芸術週間」が開催されるとブラジル独自の文化運動は盛り上がりを見せ、音楽では「ブラジルのブラジル化」を掲げた作曲家のエイトル・ヴィラ=ロボスが活躍した。文学では『ジョアン・ミラマールの叙情的回想』(1924)、『食人宣言』(1928)を著し、「食人運動」を提唱したオズヴァルド・デ・アンドラーデや、『マクナイーマ』(1928)で知られ、近代芸術週間そのものを後押ししたマリオ・デ・アンドラーデ、グラサ・アラーニャが、美術ではアニータ・マルファッチやディ・カヴァルファンチなどが活躍し、ブラジルのヨーロッパからの文化的独立が進んだ。 ラジオや蓄音機(レコード)といった電化製品の普及によりポピュラー音楽もより身近なものになり、1917年にはサンバ・カンサォンの最初の曲「Pelo Telefone(電話で)」が作曲され、サンバの中産階級化や大衆化が進んだ。教育面では帝政期からの伝統だった高等教育の拡充がさらに進み、1912年にブラジル初の大学であるパラナ連邦大学がクリチバに設立された。しかし、大衆教育は依然顧みられず、1890年に67.2%だった非識字率は[70]、1929年にも60.1%に留まった[70]。
注釈
- ^ ブラジルにおいては先カブラル時代(葡: pré-cabralina)と呼ばれる。
- ^ ブラジル高校歴史教科書は「現在のミナスジェライス州ラゴーアサンタ地方で発見された、石斧、石槌、水晶の破片、貝塚がその証拠である。」と書いている[7]。
- ^ 「インディオという用語自体、スペイン人が造り出したものであり、インディアス(アジア)に到達したという誤解の産物である。」[8]
- ^ 先住民の生活は、夫婦と子ども単位で暮らし、弓矢や石斧などの労働用具は個人の所有物であり、畑を耕したり、狩猟・漁労に頼っていた。およそ200人を限度とした小さい共同体において[9]、全員が働き、性別や年齢に基づいた分業が行われ、女性は料理したり、育児をしたり、畑で作物を栽培したりし、収穫時は男性も協力した。一方、男性は、戦争、狩猟、漁労、土地を開墾し畑用地を獲得することなどに従事した。伐採後の樹木は焼かれ、今日の「焼き畑」に相当し、現代も農村部で行われている。このような社会に社会階級はなく、競争はそれほど激しくなく、連帯を大切にし、村落の首長も労働は義務であった。老人の生き方についてはアーサー・ベンの映画『小さな偉人』(1970年)に表現されているという[10]。
- ^ 「真の十字架島」の意、ブラジルは最初島と考えられていた。後にマヌエル1世によって「サンタクルスの地」(聖なる十字架の地の意)と命名された。
- ^ スオウの一種、1501年に派遣された遠征隊の水先案内人アメリカコ・ヴェスプッチが「大西洋岸森林にこの木が自生しているのを発見した。バウ・ブラジルは、十字軍時代にアジアから持ち込まれて以来、イタリア・フランス・フランドルの織物業の補助的原料として使われていた。この木の名称が国名の由来になった。
- ^ 1492年のスペイン(西: Corona de Castilla)でのレコンキスタ達成の結果、追放されてポルトガルに移住し改宗したセファルディムの子孫である。
- ^ しばしばフェルナン・デ・ノローニャ(葡: Fernando de Noronha)と誤表記される。
- ^ 16世紀のうちに、ブラジルの砂糖産業はマデイラ諸島やサン・トメ島といった、大西洋の島々における砂糖生産を圧倒し、同世紀末には世界随一の生産量となった。しかし、これらのプランテーションの整備は、資金面の問題でポルトガル人の農場主単体では行えず、ポルトガル系ユダヤ人やドイツ、イタリア、オランダの商人たちに頼ることとなった[22]。また、ブラジル砂糖産業の独占も、オランダが17世紀中葉に始めた西インド諸島の砂糖生産[23]によって崩れていくこととなる[24][25]。
- ^ このうち、イスラーム化したハウサ人は植民者に対し極めて反抗的であり、黒人奴隷の反乱の主体となることが多かった[26]。
- ^ スペイン語では西: Gaucho - ガウチョ
- ^ キロンボ・ドス・パルマーレスを南北アメリカ大陸初の共和制国家とみなす見解も存在する[35]。
- ^ スペイン領アメリカ政府は、1551年にリマ、メキシコでの大学新設を皮切りに、新大陸に20の大学を置いた。また、1535年にはメキシコで書物が初めて印刷、1539年には印刷所が開かれていた[45]。
- ^ ラブラドール葡: lavradorとも、小作農あるいは食客、農場主に依存・従属していた人々。
- ^ 本名アントニオ・フランシスコ・リスボア(葡: Antônio Francisco Lisboa)。アレイジャジーニョは「小さな障害者」の意。
- ^ Modinha、モジーニャ、モディーニャとも。
- ^ ただしこの叫びを裏付ける公式の記録は存在しない[66]。
- ^ サンパウロ州以外の諸州では、「サン・パウロの革命」または「1932年反革命」と呼称される[90]。
- ^ 1932年、作家のプリニオ・サルガードによって結成。
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