ブラジルの歴史 ブラジルの独立

ブラジルの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 09:20 UTC 版)

ブラジルの独立

ドン・ジョアン6世
ブラジル人の独立派政治家ジョゼー・ボニファシオ・デ・アンドラーダ・エ・シウヴァ

1807年にフランス帝国の皇帝ナポレオン・ボナパルトによる大陸封鎖令にポルトガルが反抗したことをきっかけに、ジュノー元帥に率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻した。リスボン陥落の二日前にイギリス海軍に護衛されてポルトガル女王のマリア1世、当時摂政王子を務めていたジョアン6世、その妃でスペイン王カルロス4世を父にもつカルロッタなど王室関係者を含めたポルトガル宮廷の15,000人が脱出し、1808年の3月8日に一向はリオデジャネイロに辿りついた。王室の船団が到着した際のリオデジャネイロは人口5万人前後であり、王室が中心部の土地を接収したため深刻な住宅不足が発生し、郊外への都市の拡張が進められた[64]。「ブラジル第二の発見」と呼ばれるこの出来事の影響は大きく、ポルトガル王室がブラジルにたどり着くと直ちにイギリスとポルトガル亡命王室との間で自由貿易協定が結ばれ、ブラジル国内でイギリス人は領事裁判権を含む特権的な立場を認められた。ジョアン6世は綿工業の振興を支援したが成果は上がらず、ブラジル市場のイギリスへの開放が進むに連れて競争力のあるイギリス製品にブラジル市場は席巻され、植民地時代以来の綿工業や製鉄産業は壊滅し、イギリスへの経済的従属がこの時期に完成した。また、インディオとの戦争も再開された。

ポルトガル人とブラジル人の対立

王室の移転により、1815年にポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都と定められたリオデジャネイロは急速に開発が進み、劇場、宮廷、学校、図書館などが整備され、この頃ようやくブラジル初の新聞が創刊された。カピタニア制も正式に廃止され、カピタニアの代わりに新たに県(provincia)が置かれた。しかし、ポルトガル人とブラジル人の人種的、政治的な対立が深まり、また共和制を求めるブラジル人も多かったため、次第に両者の関係は険悪なものとなっていった。

王室は外国人の移住と入植を奨励した。1818年にスイス人移民が導入され、更にイギリス市場向けのの生産を狙ってポルトガル領マカオから中国人移民が共にリオデジャネイロ県に導入された。スイス人入植地も茶の生産も失敗に終わったものの、これらの移民は後の移民国ブラジルを象徴する、最初の近代的な移民となった。また、この茶の栽培経験は後にコーヒーの栽培に生かされることになった。

1816年にマリア1世が死去すると[65]ジョアン6世が連合王国の王位に就いた。外交面ではジョアン6世はイギリスと同盟してフランスに宣戦布告し、仏領ギアナを占領した。さらには植民地時代の政策を延長してラ・プラタ川方面への侵攻を図り、旧リオ・デ・ラ・プラタ副王領を二分した連邦同盟カウディージョホセ・アルティーガス英語版を破ってバンダ・オリエンタルを1821年7月にシスプラチナ州としてブラジルに編入した。ジョアン6世は即位に際してポルトガルとブラジルを対等の王国と定め、この措置には多くのブラジル人が納得したものの、相次ぐ増税や旱魃などのブラジル社会の不安定な様子を反映して、次第に自由主義的な立場から共和制を望むブラジル人の数は増加していった。1817年3月6日にレシーフェで聖職者の反乱が起き、自由と平等を旨とする共和国の樹立が宣言され、アメリカ合衆国、イギリス、リオ・デ・ラ・プラタ連合州アルゼンチン)に使節が派遣されたが、これは75日後に鎮圧された。この事件はペルナンブーコ革命ポルトガル語版と呼ばれており、特に奴隷制の存在を前提とした自由主義革命であるという重大な限界はあったものの、後の革命運動の模範となる一つのあり方を提示した。

独立へ

「独立か死か」(1888)。ペドロ・アメリコ画。

1820年にポルトガルのポルトで自由主義革命(ポルトガル1820年自由主義革命)が勃発し、ジョアン6世が革命委員会の要求によって新憲法を承認し、ポルトガルに帰国すると、王子のペドロが連合王国の摂政としてブラジルに残された。しかし、1821年に開催されたポルトガル議会において、対等な立場であるはずのポルトガル代表の議員が130人だったのに対し、ブラジル代表の議員は72人に過ぎず、さらにポルトガル政府はブラジルを再び植民地にすべく、摂政王子ペドロの帰国を要求した。しかし、ポルトガルのポルトにおける自由主義革命にブラジル残留ポルトガル軍は影響を受けており、穏健派のジョゼー・ボニファシオ、急進派のシプリアーノ・バラタ、ゴンサルヴェス・レドをはじめとするブラジル人は1822年1月に王子のペドロに独立を勧めた。1822年9月7日、ペドロはサンパウロのイピランガ川のほとりで「独立か死か」との、いわゆる「イピランガの叫び」(: Grito do Ipiranga)を発し、ブラジルの独立が宣言された[注釈 17]。ペドロはリオでブラジル皇帝ペドロ1世として即位し、ブラジル帝国が建国され、ハプスブルク家の黄色とブラガンサ家の緑のリボンで町は満ち溢れた。ポルトガル軍は残留したものの、ホセ・デ・サン=マルティンに仕えてペルー解放に同行した元英王立海軍の軍人、トマス・コクレーン卿の活躍もあり、マラニョンのポルトガル軍は排除された。こうしてブラジルの独立が達成されることとなった。

文化面では、ポルトガル宮廷のブラジル到来と共に、ブラジルにもポルトガルのエリート層が愛好していたイギリスやフランスの文化があふれるようになった。特に1816年に招聘されたジョアヒン・レブルトン、グランジャン・ド・モンティニ、ジャン・バティスト・ドブレらからなるフランスの文化使節団はブラジルの芸術に大きな影響を与えた。教育面では、植民地防衛のために、高等教育を受けた人材を養成する必要に迫られ、陸軍士官学校(1808)、医学学校(後のバイーア連邦大学)(1808)、海軍士官学校(1810)などの専門学校が設立された。博物館や図書館(1810)、植物園(1810)なども整備された。しかし、帝政期と同様に高等教育に偏重した教育政策を採りながらも、総合大学の設立はブラガンサ家の治世中には最後までなされなかった。


注釈

  1. ^ ブラジルにおいては先カブラル時代ポルトガル語版: pré-cabralina)と呼ばれる。
  2. ^ ブラジル高校歴史教科書は「現在のミナスジェライス州ラゴーアサンタ地方で発見された、石斧、石槌、水晶の破片、貝塚がその証拠である。」と書いている[7]
  3. ^ インディオという用語自体、スペイン人が造り出したものであり、インディアスアジア)に到達したという誤解の産物である。」[8]
  4. ^ 先住民の生活は、夫婦と子ども単位で暮らし、弓矢や石斧などの労働用具は個人の所有物であり、畑を耕したり、狩猟・漁労に頼っていた。およそ200人を限度とした小さい共同体において[9]、全員が働き、性別や年齢に基づいた分業が行われ、女性は料理したり、育児をしたり、畑で作物を栽培したりし、収穫時は男性も協力した。一方、男性は、戦争、狩猟、漁労、土地を開墾し畑用地を獲得することなどに従事した。伐採後の樹木は焼かれ、今日の「焼き畑」に相当し、現代も農村部で行われている。このような社会に社会階級はなく、競争はそれほど激しくなく、連帯を大切にし、村落の首長も労働は義務であった。老人の生き方についてはアーサー・ベンの映画『小さな偉人』(1970年)に表現されているという[10]
  5. ^ 「真の十字架島」の意、ブラジルは最初島と考えられていた。後にマヌエル1世によって「サンタクルスの地」(聖なる十字架の地の意)と命名された。
  6. ^ スオウの一種、1501年に派遣された遠征隊の水先案内人アメリカコ・ヴェスプッチが「大西洋岸森林にこの木が自生しているのを発見した。バウ・ブラジルは、十字軍時代にアジアから持ち込まれて以来、イタリア・フランス・フランドルの織物業の補助的原料として使われていた。この木の名称が国名の由来になった。
  7. ^ 1492年スペイン英語版西: Corona de Castilla)でのレコンキスタ達成の結果、追放されてポルトガルに移住し改宗したセファルディムの子孫である。
  8. ^ しばしばフェルナン・デ・ノローニャ(: Fernando de Noronha)と誤表記される。
  9. ^ 16世紀のうちに、ブラジルの砂糖産業はマデイラ諸島サン・トメ島といった、大西洋の島々における砂糖生産を圧倒し、同世紀末には世界随一の生産量となった。しかし、これらのプランテーションの整備は、資金面の問題でポルトガル人の農場主単体では行えず、ポルトガル系ユダヤ人やドイツ、イタリア、オランダの商人たちに頼ることとなった[22]。また、ブラジル砂糖産業の独占も、オランダが17世紀中葉に始めた西インド諸島の砂糖生産[23]によって崩れていくこととなる[24][25]
  10. ^ このうち、イスラーム化したハウサ人は植民者に対し極めて反抗的であり、黒人奴隷の反乱の主体となることが多かった[26]
  11. ^ スペイン語では西: Gaucho - ガウチョ
  12. ^ キロンボ・ドス・パルマーレスを南北アメリカ大陸初の共和制国家とみなす見解も存在する[35]
  13. ^ スペイン領アメリカ政府は、1551年にリマ、メキシコでの大学新設を皮切りに、新大陸に20の大学を置いた。また、1535年にはメキシコで書物が初めて印刷、1539年には印刷所が開かれていた[45]
  14. ^ ラブラドール: lavradorとも、小作農あるいは食客、農場主に依存・従属していた人々。
  15. ^ 本名アントニオ・フランシスコ・リスボア(: Antônio Francisco Lisboa)。アレイジャジーニョは「小さな障害者」の意。
  16. ^ Modinha、モジーニャ、モディーニャとも。
  17. ^ ただしこの叫びを裏付ける公式の記録は存在しない[66]
  18. ^ サンパウロ州以外の諸州では、「サン・パウロの革命」または「1932年反革命」と呼称される[90]
  19. ^ 1932年、作家のプリニオ・サルガードポルトガル語版によって結成。

出典

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