ブラジルの歴史 軍事独裁政権時代

ブラジルの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 09:20 UTC 版)

軍事独裁政権時代

ブラジル・クーデターによってゴラール政権が崩壊し、4月15日にカステロ・ブランコ将軍が大統領に就任すると、外資導入を進める意図を持って1964年7月に「経済活動三カ年計画」を実施し、インフレ抑制のための緊縮財政や国営企業の民間への払い下げ、公務員の縮小、福祉予算の減少などを行ったが、この結果、国民資本の企業倒産が相次いだこともあり、それまでに比べて国民の窮乏化が進んだ。当初カステロ・ブランコは左翼を追放して軍部の作成した「国家安全保障ドクトリン」に基づく統治を行う以上の意向を持っていなかったが、相対的に窮乏化した国民の軍政への反対は根強く、1965年10月の地方選挙で反軍政派の社会民主党や労働党が圧勝すると、同月中にカステロ・ブランコは強硬路線に転換して戒厳令を敷き、国会や地方議会の解散や既存政党の解体再編成を行って11月中には国家革新同盟とブラジル民主運動の二党による翼賛体制が樹立された。また、外交面ではそれまでの第三世界外交が改められ、ブラジルは親西側諸国の一員として、南米における親米反共の砦となった。

軍政令第5号。ナショナル・アーカイブ (ブラジル)

ブラジル連邦共和国の成立

カステロ・ブランコの退陣後、1967年に形式的な選挙を経て大統領に就任したコスタ・エ・シルヴァ将軍は、カステロ・ブランコの用意した新憲法を公布し、1967年憲法によって大統領に戒厳令の施行や地方諸州への介入権が認められた。また、この憲法によって国名がブラジル合衆国から現在のブラジル連邦共和国と改められた。このような軍事政権に対して学生のデモや労働者の抗議集会が高まりを見せ、ストライキが起きた。さらに過激な軍政反対派は都市ゲリラに結集し、リオデジャネイロやサンパウロでは、キューバ革命の影響を受けたカルロス・マリゲーラ率いる民族解放行動(ALN)や10月8日革命運動などによって蜂起が発生し、サンパウロのテレビ塔爆破事件やアメリカ合衆国大使チャールズ・エルブリック誘拐事件が発生した。強権的な政策に野党からの批判を受けたシルヴァ政権は、国会を解散して大統領の意向による議員の追放を可能とする軍政令第五号を発令し、ブラジルの立憲体制は完全に機能不全に陥った。

高度経済成長

1969年にシルヴァが病気で辞任すると一時的に陸海空三軍司令官による軍政が敷かれた後、エミリオ・ガラスタズ・メディシポルトガル語版将軍が大統領に就任。大学の閉鎖、議員や大学教授の追放など前政権以来の反体制派の弾圧を非合法的な手段により徹底して都市ゲリラを殲滅することに成功し、治安を回復した。この回復した治安と、強権によって保障された低賃金労働によって軍事政権は積極的な外国資本導入を進め、工業部門をはじめとして「ブラジルの奇跡」と呼ばれる年率10%もの高度経済成長を達成したが、貧富の差はさらに拡大した。特に農村部に進出した多国籍企業の近代集約型農業実践と、それに伴う土地独占によって農地を失った農民が大量に大都市に流出した結果、大都市を取り囲むファヴェーラの拡大や、元々悪かった治安の急激な悪化に拍車がかかった。さらに、1967年から始まったブラジルの高度経済成長そのものも、1973年の第一次オイル・ショックにより先進国からの外国資本の流入が止まると、1974年中に外資導入を軸とした経済成長は終焉した。

前政権の過ちの修正

1974年に大統領に就任したエルネスト・ガイゼル将軍は高まる国民の不満を背景に、軍政令第五号を破棄するなど前政権以来の強権統治を修正した。ガイゼルはオイル・ショック以来の経済の低迷と、国民の貧困化を背景に経済に対する国家の統制を強め、外国資本の一部規制を行った。また、1977年にはベネズエラカラカスとブラジルを結ぶアマゾン横断道路が完成した。

外交関係の拡大

一方、外交面では国民主義的な傾向から、ブラジルと同様の歴史的背景を持つアフリカのポルトガル植民地の独立運動を支持した。日本との関係もさらに拡大し、田中角栄首相とガイゼル大統領が相互に両国を訪問した。また、西ドイツの技術を導入して密かに核兵器開発を進めた[106]

統制の廃止と住民の抵抗

1979年に野党候補を選挙で破って大統領に就任したジョアン・フィゲイレド退役大将はこの路線を更に進めた。同年8月には恩赦法が制定されて政治犯の釈放や、追放者の帰国が認められ、カエターノ・ヴェローゾフェルナンド・エンリケ・カルドーゾなどが帰国し、11月には政党法が制定され、政党の結成が自由化された。また、キューバ、ソ連との関係も再開した。この頃にはブラジルは軍事政権下の開発政策によってラテンアメリカ最大の工業国となっており、隣国のウルグアイ、パラグアイ、ボリビアを経済圏に取り込んだ。他方ではこの時期に弾圧されていた労働運動が復活し、1980年にはルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァの指導するサンパウロの自動車労組によって労働者と農民、失業者などを包括した大規模なゼネストが勃発した。また、スラム内でもレオナルド・ボフ神父らが働きかけた解放の神学などにより、住民の組織化が進み、ファヴェーラの住民を弾圧する警察や軍隊に対して抵抗運動が行われた。ルーラはこうした人々を結集して1982年に結成された労働者党の初代党首となった。このように、開発モデルが挫折し、スタグフレーションに陥ったブラジル経済にとって1980年代はスタート時から「失われた10年」となり、結果的に軍部の政治的影響力の低下・民政移管へと繋がった。

アルゼンチンとの関係改善

また、建国以来長らく対立が続いていたアルゼンチンとの関係では、1980年5月にはフィゲイレード大統領がアルゼンチンを訪問し、1982年に勃発したマルビナス戦争では、ブラジルはアルゼンチンの軍事行動を支持しないものの、マルビナス諸島のアルゼンチン帰属を認めるなどの歩み寄りを行い、後の両国の関係改善のきっかけを作った。

1985年に行われた大統領選挙ではブラジル民主運動党のタンクレード・ネヴェスが勝利したが、ネヴェスは就任式直前に病気に倒れ副大統領のジョゼ・サルネイが大統領職を代行、1か月後にネヴェスが死去すると正式に大統領に昇格した。

文化

文化面では、クーデター後軍事政権によって文化への弾圧が進んだため、多くの分野で文化活動は低調になった。音楽ではクーデター後、ボサノヴァはシコ・ブアルケのような例外を除いて概して低調となり、アメリカ合衆国やイギリスから流入したロックが支持を集めた。1960年代にはロックに影響を受けたトロピカリア運動が盛んになり、カエターノ・ヴェローゾジルベルト・ジルガル・コスタムタンチスマリア・ベターニアらが活躍した。トロピカズモとは距離を置いたところでもブラジルのポピュラー音楽は発展し、サンバ・ロックのジョルジ・ベンが活躍した。1970年代にはムジカ・ポプラール・ブラジレイラ(MPB)が人気を集め、ミルトン・ナシメントイヴァン・リンスが活躍する一方で、アフリカ系アメリカ人の音楽も流入し、ファンクに影響を受けたバンダ・ブラック・リオやベベートなどが活躍した。1980年代にはロックがさらに若者の心を掴んだ。軍事政権時代にはテレビが発達し、大衆の最大の娯楽となった。スポーツにおいては、1970年にメキシコで開催されたFIFAワールドカップでは軍事政権はメキシコからの衛星中継に予算を惜しまず、ペレの大活躍もあって代表チームは3度めの優勝を遂げ、ジュール・リメ杯を永久保持できたことは、不安定な国情の中、明るいニュースとなった。


注釈

  1. ^ ブラジルにおいては先カブラル時代ポルトガル語版: pré-cabralina)と呼ばれる。
  2. ^ ブラジル高校歴史教科書は「現在のミナスジェライス州ラゴーアサンタ地方で発見された、石斧、石槌、水晶の破片、貝塚がその証拠である。」と書いている[7]
  3. ^ インディオという用語自体、スペイン人が造り出したものであり、インディアスアジア)に到達したという誤解の産物である。」[8]
  4. ^ 先住民の生活は、夫婦と子ども単位で暮らし、弓矢や石斧などの労働用具は個人の所有物であり、畑を耕したり、狩猟・漁労に頼っていた。およそ200人を限度とした小さい共同体において[9]、全員が働き、性別や年齢に基づいた分業が行われ、女性は料理したり、育児をしたり、畑で作物を栽培したりし、収穫時は男性も協力した。一方、男性は、戦争、狩猟、漁労、土地を開墾し畑用地を獲得することなどに従事した。伐採後の樹木は焼かれ、今日の「焼き畑」に相当し、現代も農村部で行われている。このような社会に社会階級はなく、競争はそれほど激しくなく、連帯を大切にし、村落の首長も労働は義務であった。老人の生き方についてはアーサー・ベンの映画『小さな偉人』(1970年)に表現されているという[10]
  5. ^ 「真の十字架島」の意、ブラジルは最初島と考えられていた。後にマヌエル1世によって「サンタクルスの地」(聖なる十字架の地の意)と命名された。
  6. ^ スオウの一種、1501年に派遣された遠征隊の水先案内人アメリカコ・ヴェスプッチが「大西洋岸森林にこの木が自生しているのを発見した。バウ・ブラジルは、十字軍時代にアジアから持ち込まれて以来、イタリア・フランス・フランドルの織物業の補助的原料として使われていた。この木の名称が国名の由来になった。
  7. ^ 1492年スペイン英語版西: Corona de Castilla)でのレコンキスタ達成の結果、追放されてポルトガルに移住し改宗したセファルディムの子孫である。
  8. ^ しばしばフェルナン・デ・ノローニャ(: Fernando de Noronha)と誤表記される。
  9. ^ 16世紀のうちに、ブラジルの砂糖産業はマデイラ諸島サン・トメ島といった、大西洋の島々における砂糖生産を圧倒し、同世紀末には世界随一の生産量となった。しかし、これらのプランテーションの整備は、資金面の問題でポルトガル人の農場主単体では行えず、ポルトガル系ユダヤ人やドイツ、イタリア、オランダの商人たちに頼ることとなった[22]。また、ブラジル砂糖産業の独占も、オランダが17世紀中葉に始めた西インド諸島の砂糖生産[23]によって崩れていくこととなる[24][25]
  10. ^ このうち、イスラーム化したハウサ人は植民者に対し極めて反抗的であり、黒人奴隷の反乱の主体となることが多かった[26]
  11. ^ スペイン語では西: Gaucho - ガウチョ
  12. ^ キロンボ・ドス・パルマーレスを南北アメリカ大陸初の共和制国家とみなす見解も存在する[35]
  13. ^ スペイン領アメリカ政府は、1551年にリマ、メキシコでの大学新設を皮切りに、新大陸に20の大学を置いた。また、1535年にはメキシコで書物が初めて印刷、1539年には印刷所が開かれていた[45]
  14. ^ ラブラドール: lavradorとも、小作農あるいは食客、農場主に依存・従属していた人々。
  15. ^ 本名アントニオ・フランシスコ・リスボア(: Antônio Francisco Lisboa)。アレイジャジーニョは「小さな障害者」の意。
  16. ^ Modinha、モジーニャ、モディーニャとも。
  17. ^ ただしこの叫びを裏付ける公式の記録は存在しない[66]
  18. ^ サンパウロ州以外の諸州では、「サン・パウロの革命」または「1932年反革命」と呼称される[90]
  19. ^ 1932年、作家のプリニオ・サルガードポルトガル語版によって結成。

出典

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