ブラジル合衆国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 07:59 UTC 版)
「ブラジルの歴史」の記事における「ブラジル合衆国時代」の解説
「連邦主義革命(英語版、ポルトガル語版)」および「アメリカ合衆国とブラジルの関係(英語版)」も参照 1889年11月15日にデオドロ・ダ・フォンセカ元帥により共和制が樹立されると、フォンセカは大統領に選ばれた。ルイ・バルボーザの発案によってアメリカ合衆国憲法とアルゼンチン憲法を参考にして貴族制度の廃止などを盛り込んだ1891年憲法が公布され、この憲法の中でそれまでの県(provincia)は新たに州(Estado)となり、正・副大統領の直接選挙、三権分立が定められ、国名はブラジル合衆国と定められた。各州は独自の州憲法と州軍を保有し、ブラジルは中央集権的な帝制国家から、地方分権的な連邦共和制国家に移行した。この地方分権的な政体は、コーヒー農場主をはじめとした共和主義の勝利であった。 無血クーデターを経て権力を握ったフォンセカは、軍部を後ろ盾とし、ふたたび中央集権を進める動きをみせた。1891月11年3日、フォンセカは議会を解散させ、戒厳令を敷いた。一方、軍の青年将校は大統領であるフォンセカよりも、副大統領のフロリアーノ・ペイショト(ポルトガル語版)を支持していた。これにくわえ、陸軍に対し反感を抱く海軍が、地方分権を志向する議会の側についたため、軍部の政治介入が成功、結果としてフォンセカは1891年のうちに失脚し、ペイショトが大統領となった。このときのクーデターにちなんで、ブラジルでは現在も、軍部による政治介入はフロリアニズモと呼ばれている。
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