ブラジル国内の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 23:49 UTC 版)
「アイルトン・セナ」の記事における「ブラジル国内の反応」の解説
セナが事故死した1994年5月1日にはサンパウロにてサッカー・サンパウロFC対パルメイラスの試合が開催されていたが、開催者はこの試合開始直後に試合を止め、セナの死去のアナウンスを優先し、黙祷を行った。当日のレースのテレビ中継を担当していた現地のテレビ局は事故後、一日以上セナ関連の番組を放送し続け、事故を掲載した新聞・雑誌は即日完売、葬儀を放送したテレビ番組の視聴率は60%を超えた。またブラジルにとっては英雄の死であったため、国葬が行われた。 セナの亡骸がイタリアから母国に搬送されるに際しては、ヴァリグ・ブラジル航空の定期便のマクドネル・ダグラス MD-11のファーストクラスの客席が用いられ、空からはブラジル空軍機が出迎えた。地上では100万人以上のブラジル国民が沿道に会して、その亡骸を迎えたといわれる。 母国の政府はセナの死に対して国葬の礼をもってあたり、アラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガー、ミケーレ・アルボレート、ティエリー・ブーツェン、エマーソン・フィッティパルディ、ジャッキー・スチュワート、デイモン・ヒル、ロン・デニス、フランク・ウィリアムズらが式に参列して、サンパウロ市にあるモルンビー墓地に葬られた。多くのドライバーがセナの葬儀に出向いたため、FIA会長のマックス・モズレーはセナの葬儀ではなく、5月7日にオーストリアのザルツブルクで行われたローランド・ラッツェンバーガーの葬儀に出席した。また、Deutsche Presse-Agenturによると、ミハエル・シューマッハは葬儀には参列しなかった。墓碑銘の「NADA PODE ME SEPARAR DO AMOR DE DEUS(神の愛より我を分かつものなし)」は「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである(ローマ人への手紙8:39)」に因む。 ブラジル政府は、セナの命日に当たる5月1日を交通安全の日と制定。サンパウロ州政府は、サンパウロ市内からグアルーリョス国際空港を経てリオデジャネイロ方面へ伸びる道路のひとつで、かつて「トラバリャドーレス」と呼ばれた州道70号線を、「アイルトン・セナ高速道路」 (Rodovia Ayrton Senna) に名称変更し、故人を祈念した。その他、リオデジャネイロ市がネルソン・ピケ・サーキットにアクセスする道路の一つをセナの名に改称。サンパウロ地下鉄では、彼が生まれ育った地域にある駅名「ジャルジン・サンパウロ駅」に彼の名前を付けて変更を行う(Estação Jardim São Paulo-Ayrton Senna)など、他のブラジル国内の偉人に並んで、セナの名を冠した道路やサーキットなどが各地で生まれ偲ばれている。 また、同年に行われた1994 FIFAワールドカップではサッカーブラジル代表が1994 FIFAワールドカップ・決勝で4度目の優勝を果たし、「SENNA...ACELERAMOS JUNTOS, O TETRA É NOSSO!」(セナ、共に走ろう。4度目の優勝は我々のものだ)という横断幕を掲げた。
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