ブラジルの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 09:20 UTC 版)
ヴァルガス時代
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2Fd%2Fd6%2FGet%25C3%25BAlio_Vargas_08111930.jpg%2F220px-Get%25C3%25BAlio_Vargas_08111930.jpg)
プレステス部隊の蜂起の最中の1926年にサンパウロ州出身のワシントン・ルイスが大統領に就任したが、1929年の世界恐慌はブラジルのコーヒーを中心とした経済に大打撃を与えた[87]。その一方でサンパウロ州はカフェ・コン・レイテ体制の維持を図ろうとしたため、1930年に体制から離反したミナス・ジェライス州を加えた地方諸州が「自由同盟」(アリアンサ・リベラル)を結成し、1930年のサンパウロ州出身のジュリオ・プレステスが当選した大統領選挙を不正選挙だと批判した[87]。
この間、自由同盟は武装蜂起を計画した。同年10月3日、リオ・グランデ・ド・スル州、ミナスジェライス州、パライバ州から反乱が勃発。すでにリオデジャネイロを支配下においていた軍部は、この反乱を支持し[90]、11月3日にリオ・グランデ・ド・スル州のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが大統領に就任した[90]。同月11日、ヴァルガスは臨時大統領令第一号を公布した。これは、1891年憲法を廃止し、行政権と国及び地方自治体の立法権を大統領に移管するものであった[90]。
就任後、伝統的な大農園主を基盤に持たなかったヴァルガスはテネンテ(青年将校)と、都市中間層、労働者に支持基盤を求め、既存のサンパウロ州、ミナス・ジェライス州の大地主との戦いをはじめた。このため、既得権益を奪われることになるサンパウロで1932年7月9日に反乱が勃発したが(護憲革命)[注釈 18]、ヴァルガスはこれを鎮圧した[90]。
-
エスタード・ノーヴォ(新国家)のイメージ
-
インテグラリスタの総会(1935年)
中央に座っているのが党を指導したサルガード -
民族解放同盟結成者の一人ルイス・カルロス・プレステス
「希望の騎士」と渾名された
1932年には新選挙法が制定されて婦人参政権が認められたが[91]、非識字者の投票権は認められなかった。1934年に新憲法が制定されると、従来州知事の管轄だった州兵の指揮権が連邦大統領に移管されるなど、様々な中央集権色の強い条項が盛り込まれた[91]。この1934年憲法では初めて秘密投票が制度化されたものの、依然としてブラジル国民の2/3を占めた非識字者は投票権を認められなかった。
また、この時期はブラジルにおいて初めて全国規模の政党が誕生することとなった[92]。すなわちブラジル共産党(1922年の創立以来非合法)と、ファシズム政党・ブラジル統合主義運動[注釈 19](アソン・インテグラリスタ・ブラジレイラ、略称AIB)である。ブラジル統合主義運動は、ブラジルの保守的価値観であるところの「神、祖国、家族」と反共を掲げていたことで、ヴァルガス側からの庇護を受けていた[92]。しかし、12月17日の政権議会によってヴァルガスが正式に大統領に選出されると、体制の権威主義的姿勢はより明確になった。
プレステスの反乱
1935年3月にはブラジル共産党を母体に、ソヴィエト連邦から帰国したルイス・カルロス・プレステスとエルコリーノ・カスカルド海軍大佐を中心にしてテネンテ、社会主義者、共産主義者、自由主義者の連合によって民族解放同盟(アリアンサ・ナシオナル・リベラドーラ、略称ANL)が結成された[93]。ANLは7月11日に解散させられ、弾圧されたため、プレステスはナタール、レシーフェ、リオデジャネイロでの反乱を指導したが、いずれも失敗に終わった。共産党は1936年9月30日に解党を命じられ、指導者の多くは投獄、追放された[94]。共産党が壊滅すると、ヴァルガスはインテグラリスタも体制にとって危険だと判断したために弾圧し、解散させた[95]。
エスタード・ノーヴォ体制の成立
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F9%2F9a%2FVargas_e_Roosevelt.jpg%2F220px-Vargas_e_Roosevelt.jpg)
1937年には1934年憲法体制化での初の大統領選挙が予定されていたが、ヴァルガスは自らクーデターを起こし、国会を解散して自ら制定した1934年憲法を破棄し、1937年憲法が制定した。この憲法によって、「イタリア・ファシズム」(ベニート・ムッソリーニ)やポルトガルの権威主義体制である「エスタード・ノーヴォ」(アントニオ・サラザール)などの、ヨーロッパの政治的潮流から強い影響を受けた、ブラジルにおける「エスタード・ノーヴォ」(新国家)体制が成立した[96]。
この時期にはナショナリズムの称揚が教育を通して行われ、ポルトガル語以外の外国語を初等、中等教育で行うことが禁じられ、移民国家ブラジルのアイデンティティが模索された。こうしたブラジル・ナショナリズムは、「ブラジリダーデ」(伯: brasilidadeブラジル魂、ブラジル性)という言葉に象徴された[97]。なお、移民のブラジル化政策は、同国において孤立的であったドイツ系コミュニティの消滅や、日系人コミュニティの同化をもたらした[98][99]。
また、この時期にサンパウロ州とリオデジャネイロ州を中心に工業化が大きく進み、1940年には最初の五ヵ年計画が発表され、1943年にサンパウロ州は全土の工業生産の内、約54%を占めるにまで至った。こうして生まれたプロレタリアートと中間層はヴァルガス時代に「上から」組織化され、体制に組み入れられた。ヴァルガスは労働者階級の支持を得るため、8時間労働制の採用や団体交渉権の許可、最低賃金制の導入など、当時のブラジル社会と照らし合わせると急進的な労働法の実施を行った。その反面、労働組合は許可制とされ、ストライキは禁止されるなど、労働者自身による自発的な労働運動は厳しく弾圧された[100]。一方、農村部においては大土地所有者の権力伸長がつづいた。また、この間、耕作地の拡大にともなう農業生産の拡大は見られたものの、生産性の向上や技術革新は鈍化した。これら第一次産業の諸問題は、1950年代の末には表面化することなった[101]。
第二次世界大戦
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、当初は政治体制の近い枢軸国側に好意的だったが、1941年12月8日に日本軍が真珠湾攻撃を行い、アメリカ合衆国が参戦すると、ヴァルガスは1942年8月31日にナチス・ドイツとイタリア王国に宣戦布告し、ブラジルも連合国側で参戦した。他のラテンアメリカの参戦諸国が形式的参戦に留めたのに対してヴァルガスはイタリア戦線にブラジル遠征軍(FEB)を派遣して、親連合国の姿勢を顕著にし、体制の維持を図った。しかし、ヴァルガスのファシズム体制を維持するためにファシズム国家と戦うという矛盾は隠しきれるものではなかった。終戦後、民主主義に影響を受けた派遣軍や政治犯たちの帰国は、反独裁・反ヴァルガスの動きをいっそう推し進めることとなった。国民的な独裁体制への批判が高まる中、ヴァルガスは民主社会党(PSD)とブラジル労働党(PTB)を創設して来るべき大統領選挙に備えたが、次第に軍との関係が悪化したために、ヴァルガスは終戦後の1945年10月13日に軍のクーデターにより失脚した[102]。
ヴァルガスの失脚後もブラジルの中央集権化は継続した。また、彼の打ち出したエスタード・ノーヴォの理念は、ヴァルガス本人の再選、そしてクビシェッキ政権とゴラール政権(後述)によって受け継がれることなる[103]。
文化
![]() | この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 |
文化面においては歴史家、社会学者、人類学者であるジルベルト・フレイレの『大邸宅と奴隷小屋』(1933)や、セルジオ・ブアルケ・デ・オランダの『ブラジル人とは何か』(1936)によって、植民地時代に進んだポルトガル人とインディオと黒人との混血性の中にブラジルの国民性の根源が求められた。この運動によってそれまで社会進化論や優生学によって科学的な認識とされていた白人至上主義と人種主義は多少なりとも相対化され、それまで国家政策の下で「白色化」され、消滅すべき存在とみなされていたムラートや黒人はブラジル内で新たな地位を与えられた。フレイレらの活躍によって第二次世界大戦後、ブラジルは「人種民主主義国家」であるという主張がなされ、国際連合教育科学文化機関などの機関で国際的に認められたが、一方で、これらの主張は現実のブラジル社会に存在する人種主義を覆い隠し、黒人やパルド、インディオを、白人に比べて相対的に劣等なものとして固定して扱う点においては、それまでの人種主義同様に有色人のアイデンティティを否定するものであるという主張も1960年代頃からフェルナンド・エンリケ・カルドーゾらによって提唱された。
文学では1920年代の南東部の「近代芸術週間」運動から距離を置いた地方主義文学も盛んになり[104]、『乾いた生活』で北東部を描いたグラシリアーノ・ラモス、バイーア出身で、『果てしなき大地』や『革命児プレステス 希望の騎士』で知られるジョルジェ・アマード、リオ・グランデ・ド・スル出身で『時と風』で知られるエリコ・ヴェリッシモ、詩人のカルロス・ドゥモン・デ・アンドラーデが活躍した[105]。エスタード・ノーヴォの末期には詩人ジョアン・カブラル・デ・メロ・ネト、ギマランイス・ローザ、小説家のクラリーセ・リスペクトールなど活躍した。
音楽ではサンバがブラジリダーデを掲げたヴァルガスによって国民音楽として評価され、黒人のマージナルな文化から国民統合の役割を果たすべき国民文化に位置づけられた。この時期にはアリー・バローゾ作曲の「ブラジルの水彩画」(1939)のような曲が生まれた。教育面では、それまでの諸学校をまとめた総合大学の設立が盛んになり、1934年には現在までブラジル最高学府となっているサンパウロ大学が、1938年にはリオデジャネイロ連邦大学が設立された。
注釈
- ^ ブラジルにおいては先カブラル時代(葡: pré-cabralina)と呼ばれる。
- ^ ブラジル高校歴史教科書は「現在のミナスジェライス州ラゴーアサンタ地方で発見された、石斧、石槌、水晶の破片、貝塚がその証拠である。」と書いている[7]。
- ^ 「インディオという用語自体、スペイン人が造り出したものであり、インディアス(アジア)に到達したという誤解の産物である。」[8]
- ^ 先住民の生活は、夫婦と子ども単位で暮らし、弓矢や石斧などの労働用具は個人の所有物であり、畑を耕したり、狩猟・漁労に頼っていた。およそ200人を限度とした小さい共同体において[9]、全員が働き、性別や年齢に基づいた分業が行われ、女性は料理したり、育児をしたり、畑で作物を栽培したりし、収穫時は男性も協力した。一方、男性は、戦争、狩猟、漁労、土地を開墾し畑用地を獲得することなどに従事した。伐採後の樹木は焼かれ、今日の「焼き畑」に相当し、現代も農村部で行われている。このような社会に社会階級はなく、競争はそれほど激しくなく、連帯を大切にし、村落の首長も労働は義務であった。老人の生き方についてはアーサー・ベンの映画『小さな偉人』(1970年)に表現されているという[10]。
- ^ 「真の十字架島」の意、ブラジルは最初島と考えられていた。後にマヌエル1世によって「サンタクルスの地」(聖なる十字架の地の意)と命名された。
- ^ スオウの一種、1501年に派遣された遠征隊の水先案内人アメリカコ・ヴェスプッチが「大西洋岸森林にこの木が自生しているのを発見した。バウ・ブラジルは、十字軍時代にアジアから持ち込まれて以来、イタリア・フランス・フランドルの織物業の補助的原料として使われていた。この木の名称が国名の由来になった。
- ^ 1492年のスペイン(西: Corona de Castilla)でのレコンキスタ達成の結果、追放されてポルトガルに移住し改宗したセファルディムの子孫である。
- ^ しばしばフェルナン・デ・ノローニャ(葡: Fernando de Noronha)と誤表記される。
- ^ 16世紀のうちに、ブラジルの砂糖産業はマデイラ諸島やサン・トメ島といった、大西洋の島々における砂糖生産を圧倒し、同世紀末には世界随一の生産量となった。しかし、これらのプランテーションの整備は、資金面の問題でポルトガル人の農場主単体では行えず、ポルトガル系ユダヤ人やドイツ、イタリア、オランダの商人たちに頼ることとなった[22]。また、ブラジル砂糖産業の独占も、オランダが17世紀中葉に始めた西インド諸島の砂糖生産[23]によって崩れていくこととなる[24][25]。
- ^ このうち、イスラーム化したハウサ人は植民者に対し極めて反抗的であり、黒人奴隷の反乱の主体となることが多かった[26]。
- ^ スペイン語では西: Gaucho - ガウチョ
- ^ キロンボ・ドス・パルマーレスを南北アメリカ大陸初の共和制国家とみなす見解も存在する[35]。
- ^ スペイン領アメリカ政府は、1551年にリマ、メキシコでの大学新設を皮切りに、新大陸に20の大学を置いた。また、1535年にはメキシコで書物が初めて印刷、1539年には印刷所が開かれていた[45]。
- ^ ラブラドール葡: lavradorとも、小作農あるいは食客、農場主に依存・従属していた人々。
- ^ 本名アントニオ・フランシスコ・リスボア(葡: Antônio Francisco Lisboa)。アレイジャジーニョは「小さな障害者」の意。
- ^ Modinha、モジーニャ、モディーニャとも。
- ^ ただしこの叫びを裏付ける公式の記録は存在しない[66]。
- ^ サンパウロ州以外の諸州では、「サン・パウロの革命」または「1932年反革命」と呼称される[90]。
- ^ 1932年、作家のプリニオ・サルガードによって結成。
出典
- ^ “História do Brasil - Resumo da História do Brasil por Períodos” (ポルトガル語) (2016年11月23日). 2022年6月20日閲覧。
- ^ “História do Brasil: o desenvolvimento histórico da sociedade brasileira” (ポルトガル語). Brazil Escola. 2022年6月20日閲覧。
- ^ “História do Brasil. Seção História do Brasil” (ポルトガル語). Mundo Educação. 2022年6月20日閲覧。
- ^ 今西 1979, pp. 159–163.
- ^ 山田 1986, pp. 8–10.
- ^ 山田 1986, p. 22.
- ^ シッコ・アレンカール他著、明石書店 2003年 21ページ
- ^ シッコ・アレンカール他著 明石書店 2007年 21ページ[要文献特定詳細情報]
- ^ 山田 1986, p. 23.
- ^ シッコ・アレンカール他著 明石書店 2007年 23-25ページ[要文献特定詳細情報]
- ^ a b 増田編(2000:131)
- ^ a b 増田編(2000:58)
- ^ 増田編(2000:59)
- ^ 増田編(2000:130)
- ^ a b アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:35)
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:48)
- ^ ファウスト/鈴木訳(2008:24-25)
- ^ ファウスト/鈴木訳(2008:25-27)
- ^ 増田編(2000:134-135)
- ^ 増田編(2000:135)
- ^ 玉木 2014, p. 110.
- ^ a b 山田 1986, p. 34.
- ^ a b 山田 1986, p. 35.
- ^ a b 山田 1986, p. 33.
- ^ 玉木 2014, pp. 110–111.
- ^ a b c d e 山田 1986, p. 37.
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:54-58)
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:57-58)
- ^ 山田 1986, pp. 38–40.
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:70)
- ^ 増田編(2000:153)
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:75-76)
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:63)
- ^ 山田 1986, p. 38.
- ^ ジョアン・マノエル・リマ・ミラ1995、及び『新版世界各国史26 ラテンアメリカ史II』2000 p.156
- ^ ジョアン・マノエル・リマ・ミラ/小林ちえみエレナ:訳「黒人家族と奴隷制度 ブラジルの場合」『ラテンアメリカ家族と社会』三田千代子、奥山恭子:編、新評論 1992/12
- ^ ジョアン・マノエル・リマ・ミラ/子安昭子、高木綾子:訳「ラテンアメリカにおけるアフリカ系文化」『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄、三田千代子:編、新評論 1995/10
- ^ NippouBrasil (2023年9月15日). “「黒人意識の日」がサンパウロ州祝日に=黒人奴隷解放の英雄ズンビー讃え”. 南米の鼓動をキャッチ! ブラジル日報. 2023年11月20日閲覧。
- ^ 増田編(2000:138)
- ^ 増田編(2000:157-158)
- ^ 増田編(2000:158,166)
- ^ 山田 1986, pp. 257–258.
- ^ 黒澤(2002:178)
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:83-86)
- ^ a b c 山田 1986, p. 61.
- ^ a b c d 黒澤直俊「ブラジルの言語」『ブラジル学を学ぶ人のために』富野幹雄、住田育法:編、2002/07
- ^ a b c d e 三田千代子「ブラジルの家父長制家族の形成と展開」『ラテンアメリカ家族と社会』三田千代子、奥山恭子:編、新評論 1992/12
- ^ 山田 1986, pp. 35–36.
- ^ 佐野 2013, p. 63.
- ^ 山田 1986, p. 36.
- ^ 増田編(2000:142-145)
- ^ 山田 1986, p. 51.
- ^ 山田 1986, p. 52.
- ^ a b 山田 1986, p. 54.
- ^ ガレアーノ/大久保訳(1986:118)
- ^ 金七(2009:61-63)
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:126)
- ^ a b 山田 1986, p. 59.
- ^ 山田 1986, p. 60.
- ^ 増田編(2000:168-169)
- ^ 増田編(2000:169-170)
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:159-161)
- ^ 山田 1986, p. 62.
- ^ 山田睦男、鈴木茂『ブラジル史』山川出版、2022年10月20日、62頁。ISBN 9784634423916。
- ^ “ブラジル独立記念日特集=皇帝ペドロ1世と二人の女性=独立の陰の功労者、不幸な皇后=平等に扱われた嫡子と庶子”. ブラジル知るならニッケイ新聞WEB. (2009年9月10日) 2020年11月30日閲覧。
- ^ 加茂(1978:162)
- ^ 増田編(2000:274)
- ^ 金七(2009:105)
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:241-242)
- ^ a b c 田所清克「社会史の窓から見たブラジルの教育」『ブラジル学への誘い その民族と文化の原点を求めて』田所清克、世界思想社、2001/09
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:249-252)
- ^ 増田編(2000:292)
- ^ ファウスト/鈴木訳(2008:198)
- ^ a b c 山田 1986, p. 114.
- ^ 山田 1986, p. 115.
- ^ 伊藤ほか 2022, p. 195.
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:414-419)
- ^ RothchildArchive, With a little help from their friends: the maintenance of Brazilian credit, 1889–1898 checked on 2016/10/16
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:419-420)
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:420-421)
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:421-422)
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:412-414)
- ^ 増田編(2000:370)
- ^ 山田 1986, pp. 117–118.
- ^ 増田編(2000:364)
- ^ 山田 1986, p. 118.
- ^ a b c 山田 1986, p. 121.
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:460-461)
- ^ アレンカール、ヴェニイオ・リベイロ、カルピ/東、鈴木、イシ訳(2003:461)
- ^ a b c d e 山田 1986, p. 136.
- ^ a b 山田 1986, p. 137.
- ^ a b 伊藤 2015, p. 145.
- ^ 伊藤 2015, p. 146.
- ^ 山田 1986, pp. 139–140.
- ^ 山田 1986, p. 141.
- ^ 山田 1986, p. 140.
- ^ 住田 1979, p. 59.
- ^ 山田 1986, p. 145-146.
- ^ 山田 1986, pp. 270–271.
- ^ アンドウ 1983, pp. 281–282.
- ^ 佐野 2013, pp. 64–65.
- ^ 山田 1986, p. 152.
- ^ 山田 1986, p. 153.
- ^ a b 住田 1979, p. 75.
- ^ 住田 1979, pp. 73–74.
- ^ 増田編(2000:471)
- ^ 山田 1986, pp. 65–67.
- ^ 山田 1986, pp. 67–68.
- ^ 山田 1986, ブラジル史略年表.
- ブラジルの歴史のページへのリンク