ブラジルの歴史
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民主主義への移行
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文民政権の誕生
新たに誕生したサルネイ政権は、軍政期に人権侵害に関わった軍人に特権が認められるなど完全ではないものの21年ぶりに誕生した文民政権であり、大きな期待を持って迎えられたが、社会改革や経済政策の面では不十分な成果しか残せず、進むインフレ対策のためのデノミネーションが行われた(クルザード計画)。1988年に新憲法が制定され、インディオの権利の保護、人種差別の禁止、非識字者の選挙権が認められた民主的な憲法が新たな憲法となった。外交面では、ジョゼ・サルネイ大統領は1986年7月にアルゼンチンのラウル・アルフォンシン大統領とアルゼンチン・ブラジル統合議定書に調印し、両国の長年に渡る敵対関係に終止符が打たれた。また、1987年にはキューバとの国交回復が実現した。中東のイラン・イラク戦争ではイラクを支持し、サッダーム・フセイン政権への兵器輸出が行われた。軍事政権期以来、国家主導でアマゾンの開発が進められていたが、このような開発運動はガリンペイロと呼ばれる無法者の集団をアマゾンに招き入れる結果となり、乱開発が行われた。乱開発の結果、熱帯雨林の乱伐や、それに伴うアマゾンの砂漠化が進み、そのような乱開発に反対していたシコ・メンデスは1988年に開発を推進していた集団の手先によって暗殺された。1989年9月にはアマゾンに領土を有する南米諸国により、アマゾン条約が締結された。サルネイ政権の末期には腐敗した政治が恒常化し、経済の混乱と共にサルネイは大きく評価を落として退陣した。
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新自由主義的政策を推進したフェルナンド・コーロル
だがインフレ対処に失敗し議会の弾劾によって罷免 -
コーロル罷免によって大統領に昇格したイタマール・フランコ
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インフレを収束させたフェルナンド・エンリケ・カルドーゾ
コロールの失態
1989年の大統領選挙により、1990年に国家再建党からフェルナンド・コーロルが大統領に就任した。コーロル政権は内政では新自由主義的な政策の下で赤字公社の民営化政策を進めたが、インフレ対処のための経済政策に失敗し、さらにコーロル自身の数々の奇行や汚職のために1992年に罷免された。しかし、アルゼンチンとの非核化協定を結び、また、1991年3月にアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイと共にアスンシオン条約を締結してメルコスールの設立が宣言されるなど、外交面での成功は大きかった。
急激に進むインフレ
コーロル罷免のため、1992年12月に副大統領のイタマール・フランコが大統領に昇格したが、コーロル時代のインフレは悪性のハイパー・インフレとなり、1992年のインフレ率は1,149%を記録した。このため、フランコ政権では経済相のフェルナンド・エンリケ・カルドーゾによってレアル計画が推進され、1994年7月には通貨がクルゼイロからレアルに置換された。この政策は功を奏し、後のカルドーゾ政権の下で、インフレが克服されるための布石となった。しかし、社会問題の解消は進まず、1993年7月には警官によってリオデジャネイロのストリートチルドレン8人が射殺される事件が起き(カンデラリア教会虐殺事件)、この問題の根深さが露わになった。
カルドーゾの成功
1994年の大統領選挙では保守派と結んだブラジル社会民主党のフェルナンド・エンリケ・カルドーゾが勝利し、1995年に大統領に就任した。内政ではかつて従属論の研究者だったカルドーゾは新自由主義者となっており、ネオリベラル的な民営化政策を推進し、リオ・ドセ社などが民営化された。カルドーゾは金融政策に成功し、1997年にはインフレはほぼ完全に鎮静化した。この功績によりカルドーゾは1998年に再選されたが、翌1999年にはアジア通貨危機から発したブラジル通貨危機によってブラジル経済は再び停滞した。また、カルドーゾ政権期には軍事政権以来の所得格差を背景にしたストリートチルドレンの問題や、治安の壊滅的な悪化など多くの社会問題が表出した。1996年には「土地なし農民の運動」(MST)が結成された。外交では、1995年1月にはブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイの四カ国によって南米南部共同市場(メルコスール)が正式に発足した。
穏健派のルーラ
2002年の大統領選挙により、既存の共産党やトロツキスト政党と連立を結んだ労働者党から ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァが大統領に就任した。北東部の極貧層の出身からサンパウロの自動車労組活動家、政治家に転身したルーラはブラジル史上初の労働者大統領となり、就任直後に貧困対策をパッケージ化した「飢餓ゼロ計画」を打ち出したが、企業に対する国有化政策や土地なし農民の運動に対する急速な農地分配などの社会主義的な政策は行わず、穏健な中道左派政権となった。PT政権は高い国民支持率を背景に積極的な政策を実現したが、2005年に与党労働者党の汚職が発覚すると、ルーラ政権には大きなダメージとなった。外交では、ルーラは2003年に世界社会フォーラムと世界経済フォーラムに立て続けに出席し、反グローバリゼーション運動とグローバリゼーションを共に重視する姿勢を打ち出した。ルーラ時代にはメルコスール発足の影響もあり、アメリカ合衆国主導の米州自由貿易地域(FTAA)構想は破綻した。ルーラ時代の2003年に、躍進する経済を背景にブラジルはロシア、中華人民共和国、インドと共に成長しつつある新興諸国BRICsの一角たる世界の大国として認められ、国際社会の新たな舞台に躍り出た。
2006年の大統領選挙で、労働者党のルーラはブラジル社会民主党のジェラルド・アルキミンに僅差で勝利し、第二次ルーラ政権が成立した。外交では、2007年に南米諸国連合が発足した。
初の女性大統領
2011年には、共和制が始まって以来、初の女性大統領であるジルマ・ルセフが就任し、2014年に、FIFAワールドカップがブラジルで開催された。一方でルセフ政権の頃よりペトロブラスや国内外の様々な政治家を巻き込んだ南米最大の汚職事件およびその刑事捜査である洗車場作戦が大規模な社会問題となった。
ルセフ弾劾
2016年に、このような政党内での腐敗などを背景としてルセフは弾劾され、副大統領であるミシェル・テメルが大統領に就任した。同年、リオデジャネイロオリンピック開催。
ボルソナーロの当選
2019年、大統領選挙の結果右派のジャイール・ボルソナーロが大統領に就任した。
注釈
- ^ ブラジルにおいては先カブラル時代(葡: pré-cabralina)と呼ばれる。
- ^ ブラジル高校歴史教科書は「現在のミナスジェライス州ラゴーアサンタ地方で発見された、石斧、石槌、水晶の破片、貝塚がその証拠である。」と書いている[7]。
- ^ 「インディオという用語自体、スペイン人が造り出したものであり、インディアス(アジア)に到達したという誤解の産物である。」[8]
- ^ 先住民の生活は、夫婦と子ども単位で暮らし、弓矢や石斧などの労働用具は個人の所有物であり、畑を耕したり、狩猟・漁労に頼っていた。およそ200人を限度とした小さい共同体において[9]、全員が働き、性別や年齢に基づいた分業が行われ、女性は料理したり、育児をしたり、畑で作物を栽培したりし、収穫時は男性も協力した。一方、男性は、戦争、狩猟、漁労、土地を開墾し畑用地を獲得することなどに従事した。伐採後の樹木は焼かれ、今日の「焼き畑」に相当し、現代も農村部で行われている。このような社会に社会階級はなく、競争はそれほど激しくなく、連帯を大切にし、村落の首長も労働は義務であった。老人の生き方についてはアーサー・ベンの映画『小さな偉人』(1970年)に表現されているという[10]。
- ^ 「真の十字架島」の意、ブラジルは最初島と考えられていた。後にマヌエル1世によって「サンタクルスの地」(聖なる十字架の地の意)と命名された。
- ^ スオウの一種、1501年に派遣された遠征隊の水先案内人アメリカコ・ヴェスプッチが「大西洋岸森林にこの木が自生しているのを発見した。バウ・ブラジルは、十字軍時代にアジアから持ち込まれて以来、イタリア・フランス・フランドルの織物業の補助的原料として使われていた。この木の名称が国名の由来になった。
- ^ 1492年のスペイン(西: Corona de Castilla)でのレコンキスタ達成の結果、追放されてポルトガルに移住し改宗したセファルディムの子孫である。
- ^ しばしばフェルナン・デ・ノローニャ(葡: Fernando de Noronha)と誤表記される。
- ^ 16世紀のうちに、ブラジルの砂糖産業はマデイラ諸島やサン・トメ島といった、大西洋の島々における砂糖生産を圧倒し、同世紀末には世界随一の生産量となった。しかし、これらのプランテーションの整備は、資金面の問題でポルトガル人の農場主単体では行えず、ポルトガル系ユダヤ人やドイツ、イタリア、オランダの商人たちに頼ることとなった[22]。また、ブラジル砂糖産業の独占も、オランダが17世紀中葉に始めた西インド諸島の砂糖生産[23]によって崩れていくこととなる[24][25]。
- ^ このうち、イスラーム化したハウサ人は植民者に対し極めて反抗的であり、黒人奴隷の反乱の主体となることが多かった[26]。
- ^ スペイン語では西: Gaucho - ガウチョ
- ^ キロンボ・ドス・パルマーレスを南北アメリカ大陸初の共和制国家とみなす見解も存在する[35]。
- ^ スペイン領アメリカ政府は、1551年にリマ、メキシコでの大学新設を皮切りに、新大陸に20の大学を置いた。また、1535年にはメキシコで書物が初めて印刷、1539年には印刷所が開かれていた[45]。
- ^ ラブラドール葡: lavradorとも、小作農あるいは食客、農場主に依存・従属していた人々。
- ^ 本名アントニオ・フランシスコ・リスボア(葡: Antônio Francisco Lisboa)。アレイジャジーニョは「小さな障害者」の意。
- ^ Modinha、モジーニャ、モディーニャとも。
- ^ ただしこの叫びを裏付ける公式の記録は存在しない[66]。
- ^ サンパウロ州以外の諸州では、「サン・パウロの革命」または「1932年反革命」と呼称される[90]。
- ^ 1932年、作家のプリニオ・サルガードによって結成。
出典
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