ブラジルの歴史
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年表
植民地時代
- 1500年 - ペドロ・カブラル、ブラジルに漂着し、ポルトガル領を宣言
- 1532年 - 最初の永続的居留地サン・ヴィセンテ創設
- 1549年
- カピタニア制廃止。総督政治の開始。
- 初代ブラジル総督トメ・ダ・ソウザ着任、植民地政府を創設。(首府サルヴァドール・ダ・バイア)
- 1558年 - フランスによる侵略軍を追放、リオ・デ・ジャネイロ市創設
- 1565年 - サンパウロ市創設
- 1570年
- インディオ奴隷化禁止令、黒人奴隷の輸入加速
- このころ「砂糖の時代」始まる
- 1580年 - リオデジャネイロ市創設
- 1580年 - スペイン国王フェリペ2世、ポルトガル王位を兼務
- 1624年 - オランダ、サルヴァドール占領(翌年奪還)
- 1628年 - バンデイランテスによるインディオ狩り本格化。ラポーゾ・タヴァレスがインディオ数万人を奴隷化
- 1630年 - オランダ、ブラジル北東部を占領
- 1640年 - ポルトガル、スペインの支配から離脱
- 1654年 - オランダ、ブラジルから撤退
- 1667年 - 移民制限を命じる、初の勅令
- 1692年 - ミナス・ジェライスで金発見、「金の時代」始まる
- 1727年 - コーヒー、ブラジルに導入される
- 1750年 - マドリード条約締結とトルデシリャス条約の破棄によって、ブラジル領土が拡大
- 1759年 - ボンパル公による、イエズス会追放
- 1763年 - ブラジル植民地首府をサルヴァドール・ダ・バイアからリオデジャネイロに移転
- 1789年 - 「ミナスの陰謀」[107]。ティラデンテスによる蜂起計画。ブラジルで初めてポルトガルからの独立への動きが起きる
- 1798年 - 「バイーアの陰謀」[108]。ブラジル初の平等主義的社会運動。
- 1808年 - ナポレオン軍を逃れてポルトガル宮廷、リスボンからリオ・デ・ジャネイロに遷都
- 1810年 - イギリスと通商条約締結
- 1812年 - ポルト・アレグレ創建
- 1821年 - ジョアン6世の宮廷リスボンに帰還
帝政時代
- 1822年 - 在ブラジルのポルトガル皇太子、独立を宣言し、皇帝ペドロ1世を称す
- 1824年 - 最初のブラジル憲法公布
- 1825年 - アルゼンチンとの戦争(-28年)
- 1826年 - ブラジル国民議会(のちの国民会議)開会
- 1831年 - ペドロ1世退位、ペドロ2世即位し、摂政制に。
- 1835年-1845年 - 共和派による反乱「ファラーポス戦争(葡: Guerra dos Farrapos)」または「ファホウピーリャ革命(葡: Revolução Farroupilha)」
- 1840年 - ペドロ2世親政開始
- 1850年 - 黒人奴隷の輸入禁止法令発布、奴隷貿易停止
- 1865年-1870年 - 三国同盟戦争(パラグアイ戦争)
- 1888年 - 奴隷制廃止
- 1889年 - 軍事クーデターにより帝政打倒、ペドロ2世亡命
共和政時代
- 1889年 - 共和制樹立
- 1890年 - 政教分離
- 1891年 - 共和国第1憲法公布
- 1894年 - 最初の文民大統領プルデンテ・デ・モライス就任。以後1930年まで、サンパウロ州とミナス・ジェライス州が交互に大統領を出す「カフェ・コン・レイテ」期が続く。
- 1896年 - カヌードスの反乱(~1897年)
- 1906年 - 第3回パン・アメリカン会議、リオデジャネイロで開催
- 1908年 - 日本人の移民始まる
- 1917年 - ブラジル、第一次世界大戦参戦
- 1920年 - ブラジル初の総合大学、リオデジャネイロ連邦大学が開校
- 1922年 - コパカバーナの反乱、テナンテ運動始まる
- 1924年 - イシドーロ革命
- 1930年 - リオグランデ・ド・スル州知事ヴァルガス、政権奪取
- 1932年 - サンパウロ州、ヴァルガス政権に対して反乱 (護憲革命)
- 1934年
- ヴァルガス、憲法制定議会で大統領に選出
- 外国移民入国制限法公布
- 新憲法公布
- 1935年 - 戒厳令布告
- 1936年 - 戒厳令、戦時令に改定
- 1937年 - 新国家(エスタード・ノーヴォ)宣言
- 1938年
- ヴァルガスによる労働法制定
- 移民同化政策が始まる
- 1942年 - ブラジル、第二次世界大戦に連合国側としてドイツ、イタリアに対し宣戦布告
- 1945年
- 日本に対して宣戦布告
- ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領辞任
- 1946年 - 新憲法公布
- 1947年 - 共産党活動停止、ソ連と国交断絶
- 1950年
- 初の民主的選挙によりヴァルガス大統領に再選
- 南米初のテレビ局開局
- 1950 FIFAワールドカップ開催
- 1954年 - ヴァルガス大統領自殺
- 1960年 - ジュセリーノ・クビチェック大統領、ブラジリア遷都
軍事政権
- 1964年 - 軍事クーデターでゴラール大統領失脚、軍事政権樹立
- 1977年 - 米カーター大統領の人権外交に抵抗、相互防衛協定(1952年)破棄
- 1978年 - 新憲法公布
- 1979年 - 多党制に移行
- 1980年 - 州知事直接選挙制復活[109]
民主主義の復活
- 1985年 - 文民政権復活
- 1988年 - 新憲法公布(八度目)。
- 1995年 - フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領就任
- 2003年 - 労働組合活動家出身のルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領就任
- 2011年 - 史上初の女性大統領にジルマ・ルセフが就任
- 2014年 - 2014 FIFAワールドカップ開催
- 2016年
- 2019年 - ジャイール・ボルソナーロ大統領就任
注釈
- ^ ブラジルにおいては先カブラル時代(葡: pré-cabralina)と呼ばれる。
- ^ ブラジル高校歴史教科書は「現在のミナスジェライス州ラゴーアサンタ地方で発見された、石斧、石槌、水晶の破片、貝塚がその証拠である。」と書いている[7]。
- ^ 「インディオという用語自体、スペイン人が造り出したものであり、インディアス(アジア)に到達したという誤解の産物である。」[8]
- ^ 先住民の生活は、夫婦と子ども単位で暮らし、弓矢や石斧などの労働用具は個人の所有物であり、畑を耕したり、狩猟・漁労に頼っていた。およそ200人を限度とした小さい共同体において[9]、全員が働き、性別や年齢に基づいた分業が行われ、女性は料理したり、育児をしたり、畑で作物を栽培したりし、収穫時は男性も協力した。一方、男性は、戦争、狩猟、漁労、土地を開墾し畑用地を獲得することなどに従事した。伐採後の樹木は焼かれ、今日の「焼き畑」に相当し、現代も農村部で行われている。このような社会に社会階級はなく、競争はそれほど激しくなく、連帯を大切にし、村落の首長も労働は義務であった。老人の生き方についてはアーサー・ベンの映画『小さな偉人』(1970年)に表現されているという[10]。
- ^ 「真の十字架島」の意、ブラジルは最初島と考えられていた。後にマヌエル1世によって「サンタクルスの地」(聖なる十字架の地の意)と命名された。
- ^ スオウの一種、1501年に派遣された遠征隊の水先案内人アメリカコ・ヴェスプッチが「大西洋岸森林にこの木が自生しているのを発見した。バウ・ブラジルは、十字軍時代にアジアから持ち込まれて以来、イタリア・フランス・フランドルの織物業の補助的原料として使われていた。この木の名称が国名の由来になった。
- ^ 1492年のスペイン(西: Corona de Castilla)でのレコンキスタ達成の結果、追放されてポルトガルに移住し改宗したセファルディムの子孫である。
- ^ しばしばフェルナン・デ・ノローニャ(葡: Fernando de Noronha)と誤表記される。
- ^ 16世紀のうちに、ブラジルの砂糖産業はマデイラ諸島やサン・トメ島といった、大西洋の島々における砂糖生産を圧倒し、同世紀末には世界随一の生産量となった。しかし、これらのプランテーションの整備は、資金面の問題でポルトガル人の農場主単体では行えず、ポルトガル系ユダヤ人やドイツ、イタリア、オランダの商人たちに頼ることとなった[22]。また、ブラジル砂糖産業の独占も、オランダが17世紀中葉に始めた西インド諸島の砂糖生産[23]によって崩れていくこととなる[24][25]。
- ^ このうち、イスラーム化したハウサ人は植民者に対し極めて反抗的であり、黒人奴隷の反乱の主体となることが多かった[26]。
- ^ スペイン語では西: Gaucho - ガウチョ
- ^ キロンボ・ドス・パルマーレスを南北アメリカ大陸初の共和制国家とみなす見解も存在する[35]。
- ^ スペイン領アメリカ政府は、1551年にリマ、メキシコでの大学新設を皮切りに、新大陸に20の大学を置いた。また、1535年にはメキシコで書物が初めて印刷、1539年には印刷所が開かれていた[45]。
- ^ ラブラドール葡: lavradorとも、小作農あるいは食客、農場主に依存・従属していた人々。
- ^ 本名アントニオ・フランシスコ・リスボア(葡: Antônio Francisco Lisboa)。アレイジャジーニョは「小さな障害者」の意。
- ^ Modinha、モジーニャ、モディーニャとも。
- ^ ただしこの叫びを裏付ける公式の記録は存在しない[66]。
- ^ サンパウロ州以外の諸州では、「サン・パウロの革命」または「1932年反革命」と呼称される[90]。
- ^ 1932年、作家のプリニオ・サルガードによって結成。
出典
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