ブラジルの歴史 ポプリズモ時代

ブラジルの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 09:20 UTC 版)

ポプリズモ時代

民主主義の時代

エウリコ・ガスパール・ドゥトラ

ヴァルガスが失脚すると、1946年1月にエウリコ・ドゥトラ将軍が民主社会党(PSD)から大統領に就任した。ドゥトラは民主化政策を採り、1946年に三権分立と大統領直接選挙を定めた新憲法が制定された。また、五ヵ年計画も実施された。

1950年12月の選挙では、PSDとPTBの共通候補となったヴァルガスが勝利し、ブラジル史上はじめて直接国民から選ばれた大統領は、元独裁者のヴァルガスとなった。ヴァルガスはかつてのファシズム的な政権運営とは違ってポプリズモ的な左翼ナショナリズム路線を強め、反帝国主義と経済の国民化を訴え、1953年10月には経済的独立のために国営石油公社ペトロブラスが、翌1954年には国営電力企業エレトロブラス英語版が設立され、その他にも鉄鋼企業リオ・ドセ、通信企業エンブラテル、航空企業エンブラエルなどの国有企業が設立された。ヴァルガス政権の労働大臣だったジョアン・ゴラールは当時のアルゼンチンのフアン・ペロン政権の影響を受けていた。しかし、権威的な政権運営や共産党と結ぶ傾向を見せつつあったことに対する保守派からの批判が高まり、軍がヴァルガスを見限ったために1954年8月25日にヴァルガスは自殺した。ヴァルガスの活躍した1930年代から1950年代までにかけてブラジルの社会は大きく変わり、大学の設立などが進んだこともあって教育、運輸、ジャーナリズムが大きく発展した。

1955年の大統領選挙では、PSDとPTBの統一候補として擁立されたジュセリーノ・クビシェッキが当選した。1956年に就任したクビシェッキは「五十年の進歩を五年で」という標語を掲げて外国資本の流入を中核にした開発計画を推進し、外国企業への投資の便宜が図られた。さらに1957年に内陸部のゴイアス州に、新首都ブラジリアを建設した。1960年4月12日にブラジリアへの遷都がなされたが、反面このことによる対外債務の膨張と財政赤字の増大は後の悪性のハイパー・インフレの要因ともなった。

ゴラール就任への軍部と民衆の軋轢

1960年の大統領選挙では国民民主同盟から都市中間層の支持を背景にジャニオ・クアドロスが勝利したものの、副大統領にはPSDとPTBの共通候補だったジョアン・ゴラールが選ばれた。翌1961年にクアドロスが大統領に就任するとクビシェッキの残したインフレの対応のために緊縮財政をとったが、これは国民の不満を招いた。クアドロスはクビシェッキ時代に、資本進出を通して更に緊密になったアメリカ合衆国との距離を置くために、ヨーロッパ諸国や東側諸国、そしてキューバ革命以来ラテンアメリカで孤立していたキューバとの関係を深め、ブラジリアに招かれたアルゼンチン出身のキューバの閣僚チェ・ゲバラには最高位の南十字星勲章が贈られた。しかし、クアドロスは同年8月25日に突如辞任し、副大統領だったゴラールが昇格した。

クアドロスが辞任したときゴラールは中華人民共和国を訪問していたが、軍部にとっては、「ジャンゴ」と呼ばれて民衆から親しまれ、左翼的な傾向を持つゴラールの大統領就任は認められず、陸海空三軍は全力でゴラールの大統領就任を阻止しようとした。しかし、最終的には、ポルト・アレグレでのレオネル・ブリゾーラ州知事の蜂起によって軍部のクーデターは失敗し、大統領の権限を縮小する妥協により、1961年9月7日にゴラールは大統領に就任した。ゴラールは経済学者のセレソ・フルタードを経済企画相に登用し、フルタードは外資導入による経済成長と農地改革などの社会改革を両立する三カ年計画を立案したが、ゴラールの大統領就任後も前政権以来のインフレはますます進み、さらに国際収支の赤字が増大し、社会は大きく混乱した。保守派はゴラールの退陣を主張し、ゴラールの計画していた農地改革やその他の社会改革は一歩も進まなかった。

クーデター

ブラジル・クーデターを起こしたカステロ・ブランコ将軍
政権掌握後は、親米反共の軍事独裁を実行した

ゴラールは国民投票に訴えようとしたが、1964年3月31日に保守派と結んだカステロ・ブランコ将軍は機先を制してクーデターを実施した。アメリカ海軍空母を含む艦隊がリオデジャネイロ沖で演習を行い、いざとなれば介入する意向を示していた。左翼勢力からの反撃はほとんどなく、4月4日にゴラールはウルグアイに亡命した。

文化

文化面では、クビシェッキ時代に進んだ開発の熱狂が文化にも大きな影響をもたらした。音楽ではジョアン・ジルベルトが「想いあふれて」(1959)を録音したことをきっかけにボサノヴァが生まれ、アントニオ・カルロス・ジョビンヴィニシウス・ヂ・モライスアストラッド・ジルベルトマルコス・ヴァーリワルター・ワンダレイセルジオ・メンデスらの活躍により、ボサノヴァはアメリカ合衆国市場でも成功を収めた稀有なポピュラー音楽となった。映画では、イタリアのネオレアリズモとフランスのヌーヴェルヴァーグに影響を受けたシネマ・ノーヴォ運動が盛んになり、「リオ40度」(1955)のネルソン・ペレイラ・ドス・サントス、「黒い神と白い悪魔」(1964)、「狂乱の大地」(1966)のグラウベル・ローシャルイ・ゲーラのような映像作家が主導してブラジル独自の映画運動が進んだ。文学では、『ガブリエラ、丁子と肉桂』のジョルジェ・アマードや、『大いなる奥地』のギマランイス・ローザ、『トウガラシ、七面鳥、金持ち』(1963)のジョアン・アントニオらが活躍した。その他にも南米屈指のコレクションを誇るサンパウロ美術館(1947)や、サンパウロ近代美術館(1948)などの文化施設が設立された。教育面では、民衆の識字教育理論を体系化したパウロ・フレイレが現れ、ゴラール政権の支援を得てクーデターまでの間、非識字者への識字教育が進んだ。スポーツでは、1950年にブラジルで開催された第四回FIFAワールドカップでブラジルは決勝にまで上り詰めたが、決勝でブラジル代表ウルグアイ代表に逆転負けし、優勝を逃した。この事件はエスタジオ・ド・マラカナンの観客4人の死者を出す「マラカナンの悲劇」と呼ばれる事件に発展したように、ブラジルのサッカーはこの時点では前途は多難だった。ブラジルの快進撃が始まるのは、1958年のスウェーデン大会での優勝からであり、その次の1962年のチリ大会でもブラジル代表は優勝した。


注釈

  1. ^ ブラジルにおいては先カブラル時代ポルトガル語版: pré-cabralina)と呼ばれる。
  2. ^ ブラジル高校歴史教科書は「現在のミナスジェライス州ラゴーアサンタ地方で発見された、石斧、石槌、水晶の破片、貝塚がその証拠である。」と書いている[7]
  3. ^ インディオという用語自体、スペイン人が造り出したものであり、インディアスアジア)に到達したという誤解の産物である。」[8]
  4. ^ 先住民の生活は、夫婦と子ども単位で暮らし、弓矢や石斧などの労働用具は個人の所有物であり、畑を耕したり、狩猟・漁労に頼っていた。およそ200人を限度とした小さい共同体において[9]、全員が働き、性別や年齢に基づいた分業が行われ、女性は料理したり、育児をしたり、畑で作物を栽培したりし、収穫時は男性も協力した。一方、男性は、戦争、狩猟、漁労、土地を開墾し畑用地を獲得することなどに従事した。伐採後の樹木は焼かれ、今日の「焼き畑」に相当し、現代も農村部で行われている。このような社会に社会階級はなく、競争はそれほど激しくなく、連帯を大切にし、村落の首長も労働は義務であった。老人の生き方についてはアーサー・ベンの映画『小さな偉人』(1970年)に表現されているという[10]
  5. ^ 「真の十字架島」の意、ブラジルは最初島と考えられていた。後にマヌエル1世によって「サンタクルスの地」(聖なる十字架の地の意)と命名された。
  6. ^ スオウの一種、1501年に派遣された遠征隊の水先案内人アメリカコ・ヴェスプッチが「大西洋岸森林にこの木が自生しているのを発見した。バウ・ブラジルは、十字軍時代にアジアから持ち込まれて以来、イタリア・フランス・フランドルの織物業の補助的原料として使われていた。この木の名称が国名の由来になった。
  7. ^ 1492年スペイン英語版西: Corona de Castilla)でのレコンキスタ達成の結果、追放されてポルトガルに移住し改宗したセファルディムの子孫である。
  8. ^ しばしばフェルナン・デ・ノローニャ(: Fernando de Noronha)と誤表記される。
  9. ^ 16世紀のうちに、ブラジルの砂糖産業はマデイラ諸島サン・トメ島といった、大西洋の島々における砂糖生産を圧倒し、同世紀末には世界随一の生産量となった。しかし、これらのプランテーションの整備は、資金面の問題でポルトガル人の農場主単体では行えず、ポルトガル系ユダヤ人やドイツ、イタリア、オランダの商人たちに頼ることとなった[22]。また、ブラジル砂糖産業の独占も、オランダが17世紀中葉に始めた西インド諸島の砂糖生産[23]によって崩れていくこととなる[24][25]
  10. ^ このうち、イスラーム化したハウサ人は植民者に対し極めて反抗的であり、黒人奴隷の反乱の主体となることが多かった[26]
  11. ^ スペイン語では西: Gaucho - ガウチョ
  12. ^ キロンボ・ドス・パルマーレスを南北アメリカ大陸初の共和制国家とみなす見解も存在する[35]
  13. ^ スペイン領アメリカ政府は、1551年にリマ、メキシコでの大学新設を皮切りに、新大陸に20の大学を置いた。また、1535年にはメキシコで書物が初めて印刷、1539年には印刷所が開かれていた[45]
  14. ^ ラブラドール: lavradorとも、小作農あるいは食客、農場主に依存・従属していた人々。
  15. ^ 本名アントニオ・フランシスコ・リスボア(: Antônio Francisco Lisboa)。アレイジャジーニョは「小さな障害者」の意。
  16. ^ Modinha、モジーニャ、モディーニャとも。
  17. ^ ただしこの叫びを裏付ける公式の記録は存在しない[66]
  18. ^ サンパウロ州以外の諸州では、「サン・パウロの革命」または「1932年反革命」と呼称される[90]
  19. ^ 1932年、作家のプリニオ・サルガードポルトガル語版によって結成。

出典

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