ブラジルの歴史
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帝政時代
第一帝政(1822年-1831年)
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ブラジルの独立はイスパノアメリカ諸国の独立と比べると大きな混乱や政治的な対立を伴わずに達成され、植民地時代にブラジルを包括する原初的な国内市場が成立していたことと、ポルトガル王室のブラガンサ家が帝位に就いたために、イスパノアメリカ諸国のような分裂状態には陥らなかった。しかし、このことはイスパノアメリカ諸国が解放者シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティン、ミゲル・イダルゴらによって16年間続けられた独立闘争により、曲がりなりとも本国出身者から政治権力を奪取したのとは対照的に、ブラジルにおいては植民地時代の権力構造と大地主の支配がそのまま継続したことにも繋がった。
既に1808年のリオデジャネイロ遷都と共にイギリス資本に国内市場が解放され、イギリスから莫大な投資が流入し、イギリスへの経済的従属が始まった。
ペドロ1世のポルトガルへの執着
独立前夜のブラジルの人口は約380万人で、うち白人が約104万人、約276万人が有色人(パルド、黒人、インディオ)であったが[67]、独立後ペドロ1世は380万の人口のうち、約7割を占める有色人や、植民地生まれの白人を遠ざけ、ブラジル党よりもポルトガル党を優先してポルトガル人を重用する姿勢を採ったため、次第にブラジル人とペドロ1世の関係は険悪なものになっていった。ペドロ1世は1824年3月25日、皇帝の調整権(伯: poder moderador)が盛り込まれるなど親ポルトガル派(ポルトガル再併合派)の意向が強く出た欽定憲法を公布したが、この欽定憲法に対する民衆の反発は特に北東部で強く、この年にはペルナンブーコ県のレシーフェで共和制が宣言され、「赤道連邦の反乱」が起きた。ペルナンブーコに加え、マラニョン、バイーア、アラゴアス、パライーバ、リオ・グランデ・ド・ノルテ、セアラーがこの赤道連邦に参加し、アメリカ合衆国をモデルにした代議制の共和制国家の樹立が目指されたが、ペドロ1世はイギリスからの数百万ポンドの借款と傭兵の導入によって同年11月にこの反乱を鎮圧した。1824年憲法はこの先多くの共和制を求める反乱者の挑戦に遭ったが、1889年まで生き延びる長命な憲法となった。
独立後の外交面では、独立に際して君主制が樹立されたため、ヨーロッパにおいて絶対主義の維持を図る神聖同盟の一員となった[68] 。この傾向は独立以前のジョアン6世の治世中にペドロ王太子の后としてウィーン体制の中心だったオーストリア帝国のハプスブルク家からマリア・レオポルディナ・デ・アウストリアを皇室に迎えていたことによって強まった。そのため、周辺のコロンビアなどからは警戒感を持って見られた。ブラジルの独立にはイギリスが強く影響を及ぼしていたが、ブラジルを最初に承認した国はアメリカ合衆国であり、1825年にイギリスの仲介で旧宗主国のポルトガルが独立を承認した。ポルトガルに続き、翌1826年にイギリスが独立を承認した。
ウルグアイの独立
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さらにこの頃、独立直前の1821年に旧リオ・デ・ラ・プラタ副王領を二分した連邦同盟のホセ・アルティーガスが失脚してから大混乱に陥ったリオ・デ・ラ・プラタ連合州に侵攻し、ブラジルが併合したシスプラチナ(東方州)の解放を求める声がリオ・デ・ラ・プラタ連合州内で強まった。1825年末にアルティーガスの副官だったフアン・アントニオ・ラバジェハ将軍率いる33人の東方人が祖国に潜入してブラジルからの独立戦争と連合州との合邦を求め、連合州は内乱を終結させてこれを支援した。このため、激怒したペドロ1世は連合州に宣戦布告し、シスプラティーナ戦争が勃発したが、アルヘンティーナ(戦争中にリオ・デ・ラ・プラタから改名)軍はイツサンゴの戦い(葡: Batalha de Ituzaingó)で勝利すると、以降は優れた戦術でブラジル軍を破り続け、最終的には1828年にアルゼンチンの勢力が伸張することを恐れたイギリスの仲介によりモンテビデオ条約が結ばれ、イギリスの意向によって東方州(シスプラチナ)が緩衝地帯のウルグアイ東方共和国として独立することが認められた。
シスプラティーナ戦争後、勅選議員を多く含む上院が皇帝派となり、少数の共和主義者を含む下院が政府に批判的となった。下院はシスプラティーナ戦争の戦費支出に反対し、ウルグアイの独立をペドロの失政とみなした。政府に対する不満は全国的に広がり、とくにミナス・ジェライス県で反対が強く、ペドロは次第にポルトガル人の代表とみなされるようになった。そして1831年のペドロ1世の内閣改造に対してブラジル国内で様々な不満が噴出した。その後軍主導の反乱をきっかけに群衆が退位を求めた。ペドロ1世は7日に退位宣言を行い、5歳の皇子ペドロ2世を後継者に指名し、ポルトガルへ退去した。この際幼年のペドロ2世の後見人としてジョゼー・ボニファシオを任命した。
教育面では、1827年にサンパウロとオリンダ(後にレシーフェに移転)に法科大学が設立され、ブラジル出身の官僚や法律家を育てるのに寄与した。
摂政期(1831年-1840年)
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ペドロ1世の失脚後、皇帝は18歳以上ではなかったため、1824年憲法の規定にしたがって、上下両院総会が3人の摂政からなる摂政府によって政府を運営することを決定した。摂政には憲法起草者のホセ・カルメイロ・デ・カンポス、上院議員ニコラス・ペレイラ・デ・ヴェルゲイロ、フランシスコ・デ・リマ・エ・シルヴァ将軍が選出され、しばらく皇帝不在のまま摂政による統治が行われた。このため1831年から1840年までを摂政期と呼ぶ。
共和制を求める民衆
摂政期は共和制を求める反乱が各地で相次ぎ、既存の陸軍さえ中央政府にとっては信用できなくなった。そのため法務大臣ディエゴ・アントニオ・フェイジョーは1831年8月に「国民軍」(民兵隊)を創設した。国民軍の隊長(コロネル=大佐)には、各農村の既存のボスが任命され、民兵として農村の人間を動員する権利が与えられた。この国民軍はコロネルの私兵形成にとって有利に働くことになり、現在までブラジルの農村部でコロネリズモ(農村のボスによる支配)が続く直接の要因となっている。
北東部では1835年にはパラー県でバチスタ・デ・カンポスの率いるカバナージェンの反乱が勃発し、1835年にはイスラーム教国家を樹立しようとした黒人によるマレーの反乱(en:Malê Revolt)が、1837年には共和制を求めたサビナーダの反乱が、1838年にはバライアーダの反乱が勃発したが、いずれも連邦軍により大弾圧された。
一方、南部では1835年に最南部のリオ・グランデ・ド・スル県でファラーポス戦争(葡: Guerra dos Farrapos、Revolução Farroupilha - 「ファロウピーリャの反乱」とも)が勃発した。アルゼンチンやウルグアイからパンパが続くこの地域では牧畜経済が発達し、そのために前述の両国のようなガウーショ(ガウチョ)と呼ばれる人々が牧畜を担うようになっていたが、牧場主とガウーショの武力の連合はブラジル帝国軍を脅かした。1836年にはリオ・グランデ共和国の樹立が宣言され、イタリア人革命家のジュゼッペ・ガリバルディもが反乱軍側に参加した。1839年には反乱が波及したサンタ・カタリーナ県でジュリアナ共和国の樹立が宣言された。しかし、南部の牧場主はブラジル帝国からの独立ではなく、あくまでも自治の拡大を望んでいたのであったがために、ペドロ2世の即位後の1845年に恩赦と減税と引き換えに講和が結ばれ、この反乱は終結した[69]。
地方の反乱に対し、中央もまとまった政策はとれず、ペドロ1世帰還派の回帰派、自由主義穏健派、自由主義急進派の三勢力が争いを繰り広げた。1834年にポルトガルでペドロ1世が死去したのち回帰派は自由主義派に合流し、1835年に進歩党と回帰党が設立され、両党とその対立は後の自由党と保守党による二大政党制の原型となった。
このように各地で反乱が相次いだ結果、混乱を収めるために皇太子が皇帝として即位することが解決策として持ち出された。1840年7月23日にクーデターが勃発し、ペドロ皇太子の成人式が超法規的措置によって行われると、ペドロ皇太子はペドロ2世としてブラジル皇帝に即位した。
教育面では、エリート層の中等教育を担うコレジオ・ドン・ペドロ・セグンド(1837)が設立されたが、モデル校となったこの学校の成立は、中等教育を高等教育のための予備校としてしまう副作用をもたらした[70]。
第二帝政(1840年-1889年)
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ペドロ2世の即位後、内政においては進歩党と回帰党が再編され、自由党と保守党の二大政党制が確立した。1844年にはペドロ2世の調整権によって自由党に政権を担当させ、ヨーロッパで1848年革命が始まるとその影響を恐れて同年に保守党に政権をさせたように、この時期は皇帝の調整権によって両政党に内閣が交代した。この措置を不満に思った自由党により、ペルナンブーコのレシーフェで1848年11月からヨーロッパの社会主義思想の影響を受けたプライエイラ革命(葡: Insurreição Praieira - 「プライエイラの反乱」とも)が勃発したが、1850年にこの反乱が鎮圧されると、第二帝政の政治的安定が訪れることになった[71]。
イギリス資本への従属
ペドロ2世時代の外交は、基本的にイギリス資本への従属(これは当時ごく僅かな例外を除いてラテンアメリカ全土に共通していた)と、領土拡張政策、そしてアルゼンチンの強国化の阻止によって特徴付けられていた。イギリスとの関係は1840年代には奴隷貿易の問題により大きく悪化したが、1845年のアバディーン法制定により1850年に奴隷貿易が廃止されると改善に向かった。奴隷制は1860年代に北米の南北戦争の影響を受けて大きく動揺するものの、基本的には帝政の支持基盤となっていた大地主は奴隷制の存続を望み、この問題はブラジルの大きな政治的課題となった。
領土拡張への野望
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領土拡張の当初の目標はかつてシスプラチナ県として領有していたウルグアイであり、これは大戦争をはじめとするウルグアイの内乱において、イギリス、フランスと敵対して貿易を保護し、大アルゼンチン(パラグアイ、ウルグアイとの合邦)の実現を図るフアン・マヌエル・デ・ロサスに対する牽制の意味を含めてコロラド党を支援することによって達成されようとした。事実、1851年にロサス派が勝利を目前にしたところでエントレ・リオス州知事フスト・ホセ・デ・ウルキーサを唆して介入したことにより、1852年2月3日にロサスはカセーロスの戦い(西: Batalla de Caseros)で敗れて失脚し、アルゼンチン・ウルグアイの合併という事態は回避された。また、ブラジルの南米における最大のライバルがアルゼンチンであることを強く認識させたのもこの戦争だった。
パラグアイ戦争
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ロペス父子が支配し、近代化政策を続けるパラグアイも標的となった。大戦争後もウルグアイの政治的帰属はアルゼンチン、パラグアイ、ブラジルの関係に複雑な影響を与えていたが、ウルグアイでの内乱がきっかけとなって、1864年にパラグアイのソラノ・ロペス大統領はウルグアイへの内政干渉を理由にブラジルに対して宣戦布告し、パラグアイ戦争(三国同盟戦争)が勃発した。ブラジル帝国が主体となったアルゼンチン、ウルグアイとの三国同盟とパラグアイのロペス政権との間で戦われたこの戦争では、南米で最大の軍隊を保有していたパラグアイの頑強な抵抗もあって激戦が続いたが、カシアス公によるブラジル軍の指揮もあり、1870年にロペスがセロ・コラーの戦いで戦死し、ラテンアメリカで最も凄惨な戦争となったこの戦争は終わった。敗戦により南米で最も先進的な経済制度を備えていたパラグアイの人口は半減し、アルゼンチンとブラジルに領土は分割され、自立的発展を遂げていた工業は崩壊し、国家は壊滅した。ペドロ2世にとってこの戦争はブラジル人のナショナリズムを奮い立たせる経験として肯定的に捉えられたが[72]、勝者となったブラジルも10万人の死傷者を出し、30万ドルに及ぶ戦費をイギリスからの債務で賄ったために戦争終結後に財政崩壊を起こした。さらに前線でアルゼンチン兵と行動を共にした帰還兵や、戦場で黒人と共に戦った軍人により、共和制思想や奴隷制廃止が大きく喧伝されるようになった。また、パラグアイ戦争は、ブラジルとアルゼンチンに両国の緩衝地帯の必要性を理解させることになった。
ヨーロッパからの移民
1844年に新関税法が導入されると、輸入関税の引き上げはブラジルの工業化の基礎条件を築いた。また、1840年代に南東部のリオデジャネイロ県でコーヒーの栽培が成功すると同時に、北東部での砂糖と綿花の栽培が衰退したため、以降コーヒーはブラジルの奴隷制プランテーション農業経済の主軸を担い、外貨をもたらすと共にファゼンダ制を強化した。コーヒー栽培には多量の労働力を必要とするが、1850年の奴隷貿易廃止によって黒人奴隷の新規流入が停止したために、1860年代からブラジルの白人化を目指していた当時の自由主義知識人や寡頭支配層の思惑と合致する形で、奴隷に代わる労働力としてヨーロッパから移民が導入されることになった。
ペドロ2世への民衆の失望
また、パラグアイ戦争後、陸軍士官学校の数学教官だったベンジャミン・コンスタンによって1850年代にブラジルに導入されたオーギュスト・コントの実証主義と共和主義が融合し、実証主義は次第に奴隷制と帝政に対する批判を帯びた運動になっていった。1865年に南北戦争の結果としてアメリカ合衆国で奴隷制が廃止され、1870年にスペイン領キューバで奴隷の暫定的解放を達成するモレ法が可決されると、ブラジルのみが西半球で唯一奴隷制に固執する国家となったがために、実証主義者により帝政廃止と奴隷制廃止を求める共和党が結成された。さらに1878年に自由党政権が成立するとジョアキン・ナブーコや詩人のカストロ・アルヴェスに代表される知識人は奴隷制廃止を公然と要求するようになり、ベンジャミン・コンスタン大佐は陸軍の青年将校(テネンテ)に実証主義教育を行い、次第に軍全体が実証主義を信奉するようになっていった。
奴隷解放
ペドロ2世はこうした声に対処するために、1871年9月28日にはモレ法にならった出生自由法を制定した。1888年5月13日には皇女のイザベラが黄金法に調印してブラジルにおける奴隷制が最終的に廃止されたが、このことによって王室は大地主達の支持を失った。しかし、奴隷は解放されたものの、解放に際して経済的な裏づけとなる土地や財産の分配はなされなかったため、結局黒人の社会的立場に大きな変化は見られなかった。植民地時代から奴隷制廃止までにブラジルに連行された黒人奴隷の数は350万人から1000万人に上ると推測されている。
1870年代にカトリック教会と対立したことにより、帝政は教会からの支持をも失っていたが、1880年に軍部帝政派の重鎮だったカシアス公が死去したことをきっかけに、皇帝への支持は教会のみならず、軍部からも失われた。そして1888年の奴隷制廃止によって帝政は国内の全ての層から支持を失うことになった。中間層の利害を代表し、国家の近代化を求める軍部の青年将校はこの好機を逃さず、1889年11月15日にベンジャミン・コンスタンの計画により、デオドロ・ダ・フォンセカ元帥によって率いられた軍部によって宮殿は包囲された。オーロプレト子爵アフォンソ・セルソ首相は逮捕され、ペドロ2世は退位してイギリスに亡命した。こうして無血革命により帝政は崩壊し、ブラジルは共和制に移行した。そしてこの時に軍が果した大きな役割はその後ブラジルの政界における軍部の発言力を保障することにもなった。実証主義知識人はアメリカ合衆国を模範としていたが、11月15日に導入されたブラジル新国旗は余りにもアメリカ合衆国の国旗に似ていたために拒否され、11月19日に制定されたブラジル合衆国の新国旗には、天球の帯に実証主義知識人の合言葉だった標語「秩序と進歩」が記された。
経済
第二帝政時代は経済面では、19世紀後半にはマウアー子爵が実業家として大成功し、彼の手によってブラジル資本による鉄工所、造船所、鉄道などが造営されたが、1875年から1878年の恐慌で破産すると、彼の財産はほとんど何も残らなかった。また、アマゾン川流域でのゴム・ブームによりマナウスなどの都市の開発が進められた。
文化
文化面では、帝政前期は、文学においてロマン主義がゴンサルヴェス・デ・マガリャンイスの『詩的吐息と感情』(1836)によってもたらされた。ブラジルのロマン主義はインディオを理想化することをよしとし、インディアニズモの潮流が生まれた。この時期の文学者としてはゴンサルヴェス・ディアスや、『イラセマ』、『グアラニー』のジョゼ・デ・アレンカールなどが挙げられるが、全体としてヨーロッパの模倣の域を出なかった。また、ブラジル国民の理想的原型としてインディオを称揚するインディアニズモの潮流がありながらも、実際にインディオへの迫害が止むことはなかった。音楽ではほとんどがヨーロッパの模倣だったが、アレンカールの『グアラニー』をオペラ化したカルロス・ゴメスなどが活躍した。美術では、1816年に到来したフランスの文化使節団の影響を受け、「ブラジル最初のミサ」(1861)のヴィトル・メイレレスや「独立か死か」(1888)のペドロ・アメリコなどの画家が活躍した。
一方、帝政後期は写実主義が隆盛を見せ、『ブラス・クーバス死後の回想』や『ドン・カズムーロ』のマシャード・デ・アシスや『スラム街』のアルイジオ・アセヴェード 、後期ロマン主義詩人のカストロ・アルヴェスといった文学者を生みだし、さらに地方主義の萌芽も見られた。また、歴史研究も進んだ。さらに、音楽ではショーロとマシーシェが流行した。ショーロは1870年にシルヴァ・カラードによって生み出され、レコードの普及と共にピシンギーニャによって大衆化した。マシーシェはシキーニャ・ゴンザーガによって大衆化した。また、スポーツでは後に国民的スポーツとなるサッカーがもたらされた。
教育
教育面では、私立の高等専門学校の整備が進んだが、隣国アルゼンチンがドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント政権の下で初等教育に力を注いだのとは対照的に、ブラジルでは初等教育の整備が遅れた。1872年に初めて行われたセンサスによればブラジルの総人口は990万人だったが、そのうち自由人の非識字率は80%、奴隷の非識字率は99.9%に達していた[73]。
注釈
- ^ ブラジルにおいては先カブラル時代(葡: pré-cabralina)と呼ばれる。
- ^ ブラジル高校歴史教科書は「現在のミナスジェライス州ラゴーアサンタ地方で発見された、石斧、石槌、水晶の破片、貝塚がその証拠である。」と書いている[7]。
- ^ 「インディオという用語自体、スペイン人が造り出したものであり、インディアス(アジア)に到達したという誤解の産物である。」[8]
- ^ 先住民の生活は、夫婦と子ども単位で暮らし、弓矢や石斧などの労働用具は個人の所有物であり、畑を耕したり、狩猟・漁労に頼っていた。およそ200人を限度とした小さい共同体において[9]、全員が働き、性別や年齢に基づいた分業が行われ、女性は料理したり、育児をしたり、畑で作物を栽培したりし、収穫時は男性も協力した。一方、男性は、戦争、狩猟、漁労、土地を開墾し畑用地を獲得することなどに従事した。伐採後の樹木は焼かれ、今日の「焼き畑」に相当し、現代も農村部で行われている。このような社会に社会階級はなく、競争はそれほど激しくなく、連帯を大切にし、村落の首長も労働は義務であった。老人の生き方についてはアーサー・ベンの映画『小さな偉人』(1970年)に表現されているという[10]。
- ^ 「真の十字架島」の意、ブラジルは最初島と考えられていた。後にマヌエル1世によって「サンタクルスの地」(聖なる十字架の地の意)と命名された。
- ^ スオウの一種、1501年に派遣された遠征隊の水先案内人アメリカコ・ヴェスプッチが「大西洋岸森林にこの木が自生しているのを発見した。バウ・ブラジルは、十字軍時代にアジアから持ち込まれて以来、イタリア・フランス・フランドルの織物業の補助的原料として使われていた。この木の名称が国名の由来になった。
- ^ 1492年のスペイン(西: Corona de Castilla)でのレコンキスタ達成の結果、追放されてポルトガルに移住し改宗したセファルディムの子孫である。
- ^ しばしばフェルナン・デ・ノローニャ(葡: Fernando de Noronha)と誤表記される。
- ^ 16世紀のうちに、ブラジルの砂糖産業はマデイラ諸島やサン・トメ島といった、大西洋の島々における砂糖生産を圧倒し、同世紀末には世界随一の生産量となった。しかし、これらのプランテーションの整備は、資金面の問題でポルトガル人の農場主単体では行えず、ポルトガル系ユダヤ人やドイツ、イタリア、オランダの商人たちに頼ることとなった[22]。また、ブラジル砂糖産業の独占も、オランダが17世紀中葉に始めた西インド諸島の砂糖生産[23]によって崩れていくこととなる[24][25]。
- ^ このうち、イスラーム化したハウサ人は植民者に対し極めて反抗的であり、黒人奴隷の反乱の主体となることが多かった[26]。
- ^ スペイン語では西: Gaucho - ガウチョ
- ^ キロンボ・ドス・パルマーレスを南北アメリカ大陸初の共和制国家とみなす見解も存在する[35]。
- ^ スペイン領アメリカ政府は、1551年にリマ、メキシコでの大学新設を皮切りに、新大陸に20の大学を置いた。また、1535年にはメキシコで書物が初めて印刷、1539年には印刷所が開かれていた[45]。
- ^ ラブラドール葡: lavradorとも、小作農あるいは食客、農場主に依存・従属していた人々。
- ^ 本名アントニオ・フランシスコ・リスボア(葡: Antônio Francisco Lisboa)。アレイジャジーニョは「小さな障害者」の意。
- ^ Modinha、モジーニャ、モディーニャとも。
- ^ ただしこの叫びを裏付ける公式の記録は存在しない[66]。
- ^ サンパウロ州以外の諸州では、「サン・パウロの革命」または「1932年反革命」と呼称される[90]。
- ^ 1932年、作家のプリニオ・サルガードによって結成。
出典
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