コロンビアの歴史 ボゴタ暴動、コロンビア内戦

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コロンビアの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/16 01:40 UTC 版)

ボゴタ暴動、コロンビア内戦

ボゴタ暴動によってボリバル広場で炎上する路面電車

1946年以降の十数年間はラ・ビオレンシア(暴力)の時代と謂われ、争いが頂点に達した。

1946年に保守党政権が誕生すると、徐々に保守党派が自由党派に対するテロを繰り広げるようになった。1948年の選挙はこのような状況の中で行われることになったが、同年開催されたボゴタでのOEA会議最中に、当選確実といわれた自由党党首ガイタンが暗殺されると、自由党派の市民と保守党派の市民が衝突し、ボゴタ暴動(ボゴタソ)が勃発した。ポプリスモ的なカリスマだったガイタンが暗殺されたことによりこの暴動を収める能力を持った政治家はおらず、この一連の暴動によりコロンビアは19世紀のような「暴力」の時代を迎えた。1946年から1950年代末までの「暴力」の時代の死者は、全て併せると20万人にも及ぶと推測される。1950年に保守党から就任した超保守派のラウレアーノ・ゴメス大統領は、事態を収拾するためと称して教会の政治的権利の復活などを骨子とした独裁を激しくしていき、それに伴い暴力も拡大して行った。しかし、この内戦の中でも工業生産は増加した。また、この不安定な情勢の中でもゴメスは反共を示して共産党系と自由党系のゲリラを弾圧する傍ら、朝鮮戦争にもラテンアメリカで唯一軍隊を派遣した。

軍事政権を率いたグスタボ・ロハス・ピニージャ

地方での暴力が拡大し、ゴメスの独裁が自由党だけではなく、保守党や支配層からも受け入れがたいものになっていくと、事態を収拾するために両党が軍部に介入を要請した。このため、1953年6月14日に軍事クーデターにより朝鮮戦争の英雄 グスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が政権を握り、コロンビア史上三度目の軍事政権が発足した。

ロハスはカリスマを発揮して民兵の武装解除を行い、部分的に「暴力」を収めることに成功したが、 1955年ロハスが人民弾圧をおこなった地主達に恩赦をかけたために農民が蜂起し(ビジャリカ戦争)、1956年ロハスに敬意を示さなかったという理由で多数の市民が虐殺される「牛の首輪」虐殺事件の発生などにより、次第に民衆の間でも反ロハス感情が強まって行った。また、ロハスは労働者保護に努める中で、次第に自由党、保守党から離れてアルゼンチンフアン・ペロンのような独自のポプリスモ的支持基盤を労働者に持とうとしたため、両党の寡頭支配層も反ロハス感情を抱いていった。こうして反ロハス勢力が結集したため、1957年にロハスは大統領を辞職しスペインへ亡命した。

1958年には、寡頭支配層によって自由・保守両党による「国民戦線」体制が成立した。これは両党間で4年毎に政権を交替するという「たらいまわし」連立政策であった。背景にはロハスのような自由党と保守党の特権を侵しかねない政権の成立を寡頭支配層が恐れたことがあるが、しかし、これに反対する自由党系農民の蜂起が相次いだ。

1959年のキューバ革命の影響を受けて、1961年にアメリカ合衆国のケネディ大統領主導によって「進歩のための同盟」が発足すると、コロンビアは同盟のモデル国家となったが、社会問題の根本的解決には至らずゲリラ活動は活発化し、1966年にはコロンビア革命軍(FARC)が発足した。1968年にメデジン公会議で解放の神学が誕生した。1970年の大統領選挙では亡命先から帰ったロハスが独自に国家人民同盟(ANAPO党)から出馬し政界復帰を目指すものの、不正選挙で敗北すると学生を中心とした左翼ゲリラ4月19日運動(M-19)が生まれた。

1974年「国民戦線」体制終了。通常選挙が執り行われる。1978年に就任した自由党のフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ大統領は、高まる反政府活動を戒厳令を布告して弾圧し、多くの活動家が秘密警察による拉致拷問を受け、その多くが失踪した。1982年に就任した保守党のベリサリオ・ベタンクール・クァルタス大統領はFARCなど左翼ゲリラ勢力と和平を実現し、1985年にはFARCが合法政党である愛国同盟(UP)を創設、国政に参加したが、議員や関係者は次々に暗殺され、1994年には政党資格を消失した。また85年には左翼ゲリラM-19によるコロンビア最高裁占拠事件ネバド・デル・ルイス火山の噴火(死者・行方不明者25000人以上)など災難が相次ぎ、ベタンクール大統領は「社会・経済非常事態宣言」を発令した。1986年に就任した自由党のビルヒリオ・バルコ大統領により、麻薬取締まり作戦が実行。1989年メデジン・カルテルとの大規模ゲリラ戦闘「麻薬カルテル戦争」が勃発し、麻薬カルテルの本拠地がメデジンからカリに移った。

1990年、大統領に就任した自由党のセサル・ガビリア・トルヒージョは野党を含む挙国一致内閣を組閣し、1991年に1886年憲法が全面改正され、新憲法が公布された。1993年にはメデジン・カルテルの最高幹部パブロ・エスコバルが治安部隊に射殺され、1995年には第二の麻薬カルテルカリ・カルテルの幹部オレフエラ兄弟が逮捕されるなど、麻薬密売組織はほとんど壊滅状態に追い込まれたが、1994年に就任した自由党のエルネスト・サンペール・ピサノ大統領が選挙期間中にカリ・カルテルから選挙資金を受け取っていたことが "narco-cassettes" から発覚し、「ナルコ・ゲート事件スペイン語版英語版」として大問題に発展した。議会はサンペール大統領を弾劾する構えを見せ、アメリカ政府もサンペールの入国ビザの発給を拒否するなど外交問題に発展した。1998年Quebrada El Billarの戦いスペイン語版フランス語版3月1日 - 3月5日)。8月7日に就任した保守党のアンドレス・パストラーナ・アランゴ大統領は、対米関係重視の政策をとり、翌1999年1月にはFARCとの和平対話を開始するも、2002年初頭のFARCによるテロを受け、和平プロセスを中止。2月21日es:Retoma de la zona de distensiónEl Caguán DMZを奪還。es:Operación Alcatraz。同夏自由党系の新政党「コロンビア・ファースト」から就任したアルバロ・ウリベ大統領は治安回復を重点課題とし、左翼ゲリラや右翼の「コロンビア自警軍連合」(AUC)などの民兵組織対策に力を注ぐ。2006年5月、ウリベは大統領に再選した。2007年es:Operación Emmanuel2008年es:Operación Jaquees:Operación Fénixes:Operación Dinastía2009年 - 2010年)。2010年es:Operación Camaleónes:Operación Sodoma2011年es:Operación Odiseo







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