ガートルード・ベル
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彼女は、中東各地を旅して築いた部族の指導者たちとの関係から得た独自の視点で、イラクにおける近代国家の確立とその運営に大きな役割を果たした。彼女の生前はイギリス政府関係者から高く評価・信頼され、絶大な力を発揮した。彼女は「国王陛下の政府の代表でアラブの人々が愛情に似た物を覚えた数少ない一人」と評されている[6]。
生い立ち
ガートルード・ベルは、1868年7月14日、イングランドのダラム・カウンティワシントンにあるワシントン・ニュー・ホール(現在はデイム・マーガレット・ホールとして知られている)で進学や旅行を可能とする富に恵まれた裕福な家庭に生まれた[7]。彼女の性格はエネルギー、知性、冒険への志向が特徴で、それが彼女の人生の道を形作った。彼女の父方の祖父は、1870年代にイギリスの鉄鋼の3分の1を生産していたノーザンブリアに本拠を置くベル・ブラザーズの創業者・共同経営者の製鉄業者で、ベンジャミン・ディズレーリの第2次政権時代に自由党の国会議員を務めたアイザック・ロージアン・ベルであった。ロージアン・ベルはイギリスで最も繁栄した実業家のひとりであるだけでなく、ベッセマー金メダル受賞者であり、王立協会会員の著名な科学者でもあった。彼のサロンの客にはチャールズ・ダーウィン、トーマス・ヘンリー・ハクスリー、社会改革家ジョン・ラスキン、芸術家ウィリアム・モリスなどがいた[8]。イギリスの政策決定における彼の役割は、若きガートルードを国際問題に触れさせ、世界に対する彼女の好奇心と後の国際政治への関与を道付けた可能性が高い[9]。
ガートルード・ベルの父で第2代準男爵のヒュー・ベルは、ロージアン・ベルの長男で、父と同様に徹底した教育を受けていた。 パリのソルボンヌ大学で化学、ドイツでは有機化学と数学を学んだ。イギリスに帰国後の彼はロージアン・ベルの企業経営を徐々に引き継ぐ。政治的にも活躍し、当時の基準ではリベラルな姿勢をとり、特に教育や医療に力を入れた。ベルの母メアリー・シールド・ベル[10] とは1867年に結婚したが、1871年、息子のモーリス(後の第3代準男爵)を出産中に没した[11]。ガートルード・ベルは当時3歳だったが、この死をきっかけに彼女の父と生涯にわたって親密な関係を築き[12]:33–34、生涯を通じて、様々な政府の役職に長年就いていた父親と政治的な相談をしていた。
いくつかの伝記によれば、幼少期に母親を失った事がトラウマとなり鬱状態や危険な行動をとっていた時期があった事が明らかになっている。 しかし、父親はガートルードが7歳の時に再婚し、継母であるフローレンス・ベル(旧姓オリフ)との間に3人の異母弟妹が生まれた。フローレンス・ベルは劇作家・童話作家であり、工場の労働者に関する研究の著者でもあった。彼女はガートルードに義務感や礼儀正しさの概念を植え付け、彼女の知的成長に貢献した。 フローレンス・ベルによるミドルスブラ近郊のエストンにあったボルコー、ヴォーンの工場労働者の妻たちとの活動が、後に義娘がイラク人女性の教育の推進に取り組む姿勢に影響を与えた可能性がある[13]。
頭脳明晰だった彼女は、ロンドンのクイーンズ・カレッジで進んで初期の教育を受けた。これは当時としては珍しい一歩であった。当時、ベル家のような社会階層の女子教育はもっぱら個人的な家庭教師によって担われていた。さらに珍しい事に彼女の両親は17歳でオックスフォード大学レディ・マーガレット・ホール[14] に進んで、近代史(歴史学は、当時女性に課せられていた多くの制約のため、女性が勉強することが許されていた数少ない科目の一つであり、当時のメインストリーム的教養に属するラテン語やギリシャ語を専攻できるのは男性に限られていた)を学ぶ事を認めた。「私は少なくともひとつの事を知り、習得したいと考えています。私はこの素人勉強にうんざりしています。何かに没頭したい。」と彼女は父親に自分の願いを書いている[15]。彼女と同級生の女子は、通常はシャペロンに付き添われて、聴講生として講義を受けた。弱冠20歳で最優等の成績で卒業した最初の女性と言われているが、これは彼女がわずか2年で達成した偉業である[16]:41。記録ではこの年の卒業生11名の内9名が男性で2名がベルとアリス・グリーンウッドであった[17]。しかし、女性である彼女らに学位は授与されなかった。オックスフォード大学が学位授与について男女を平等に取り扱う様になるのは1920年になってからである[18][19]。
ヴィクトリア朝時代のイギリスでは女性の大学進学はごく稀であり、ベルは社交界にデビューはしたものの高学歴が災いして煙たがられ、3年経っても求婚者ひとりあらわれなかったという。ベルは生涯未婚であり子供もいなかった。彼女は1903年に弟のヒューゴとともにシンガポールを訪れた際、イギリスの植民地行政官フランク・スウェッテナムと親しくなり、1909年まで文通を続けた[20]。 1904年にスウェッテナムがイギリスに引退した後、彼女は彼と「短いながらも情熱的な情事」を行った[21]。また、1913年から1915年にかけてラブレターを交わした既婚男性のチャールズ・ダウティ=ワイリー少佐とも不倫関係にあったが[22]:14–17、1915年に彼がガリポリの戦いで戦死した後、ベルは仕事に没頭した。
旅と執筆
ガートルード・ベルは1888/1889年の冬のシーズンを継母の義兄に当たるフランク・ラッセルズが公使として働くブカレストで過ごした[23]。ガートルード・ベルはブカレストでの外交晩餐会や舞踏会に参加し、ベルンハルト・フォン・ビューローや後にインド総督になるチャールズ・ハーディングなどに会った。また、ルーマニア国王カロル1世とその后であるエリサベタにも紹介された。ブカレストではヴァレンタイン・チロルにも初めて出会い、生涯にわたる親しい友人になった[24]。彼女はコンスタンティノープルを経由してオリエント急行で帰国の途についた[25]。
ルーマニアにも同行した義理の従兄弟のビリー・ラッセルズがベルの結婚相手の最有力候補のひとりだったが、ガートルード・ベルは数ヶ月後に彼に興味を失ってしまった[25]。彼女は他の候補者にも飽きていた[23]。彼女はブカレストやコンスタンティノープルに滞在した事で、国際性の点では他の男性を凌駕していた。ベルから継母への手紙で、自分が独身のままでは社会的に疎外された存在に押し込められる事を自覚し、苦しんだ事を証明している。手紙の最後は独身生活が続く事を暗示する言葉で締めくくっている。 "70年というのは本当に長いと思いません?[26][27]"
1892年、ガートルード・ベルの3度目の社交シーズンが終了したが、候補者の中で彼女に求婚した者も彼女が一過性以上の興味を持った者もいなかった。1892年の春、彼女は義理の伯母のメアリー・ラッセルと一緒にテヘランに向かった。その当時フランク・ラッセルズはブカレストからペルシャに移り、テヘランのナーセロッディーン・シャーの宮廷でイギリスの特命全権公使を務めていた[28][26][29]。1892年5月、彼を訪ねるためにペルシャを訪れた。彼女は1894年に刊行した初の随筆『ペルシャの情景』でこの旅の様子を記している。テヘラン滞在中の彼女の仲間の中にはイギリス公使館の外交官だったヘンリー・カドガンがいた。彼は知的な読書家であり熱心なスポーツマンで、ガートルード・ベルと同じく歴史に興味を持っていた。2人は惹かれあう様になり、求婚を受けた[30]。しかし、ヒューとフローレンスのベル夫妻は結婚に同意する事を拒んだ。カドガンはイギリス貴族のカドガン伯爵家の一員だったものの父親が破産寸前で、若手外交官としての俸給のみで生計を立てていた。さらにヒュー・ベルはカドガンに賭博癖があり、多額の借金を抱えている事も掴んでいた[31]。 ガートルード・ベルは両親の反対に屈したものの、カドガンが外交官としての十分なキャリアを早く築き、彼女の父親が求める生活水準を実現する事ができる様になるだろうと考えていた[31]。半年後、彼女は当初の約束通りイギリスに帰国した[32]。ロンドンで『ペルシャの情景』を執筆する事で、カドガンを待つ暇を潰し[33]、ペルシャの詩人ハーフェズの詩の翻訳を始めた。彼女によるハーフェズの英訳は現在でもその文学性を高く評価されている[34]。イギリスに帰国して9ヶ月後、彼女は、テヘランからヘンリー・カドガンが川に落ちて肺炎を起こし、しばらく後に死んだという知らせを受け取った[35]。
その後の10年間の大半を世界各地を旅し、スイスで登山をし、考古学と言語の習得に情熱を注いだ。 彼女はアラビア語、ペルシャ語、フランス語、ドイツ語に堪能になり、イタリア語とオスマン語を話した。2度にわたって世界一周旅行を行い、旅行中の1899年と1903年には日本にも立ち寄っている。後に著書『シリア縦断紀行』でベルはシリア訪問時戦われていた日露戦争について、シリアの各地で質問攻めにされたと記述している。初の日本訪問の同年、ベルは再び中東を訪れ、アラビア語を学ぶためエルサレムに長期滞在するかたわら、 パレスチナとシリアを回り、1900年にはエルサレムからダマスカスへの旅で、エッドゥルーズ山地に住むドゥルーズと知り合いになった[36]。彼女はその後の12年間でアラビアを6度横断した[36]。
1899年から1904年までの間、彼女はラ・メイジュやモンブランなど、多くの山を制覇し、スイスのベルナー・アルプスで10の新登山道や初登攀を記録した。ベルナー・オーバーラントにある2,632mのゲルトルードシュピッツェ(Gertrudspitze)は、1901年に彼女と登山ガイドのウルリッヒとハインリッヒ・フューラーが初登頂した事から、彼女の名前が付けられた。しかし、彼女は1902年8月、フィンスターアールホルンの挑戦に失敗し、雪、ひょう、雷などの悪天候の中、ガイドと共に「ロープの上で48時間」を過ごす事を余儀なくされ、危うく命を落としかねない恐ろしい状況の中、岩壁にしがみついていた[37]。
考古学
登山と同時並行で考古学を学び、1905年、シリアを経てユーフラテス川をめぐる旅に出る。翌年から考古学雑誌にベルの紀行文が掲載されはじめるようになり、1907年には彼女の連載が「シリア縦断紀行」として単行本化された。この本の中で彼女はダマスカス、エルサレム、ベイルート、アンティオキア、アレクサンドレッタなどの大シリアの町や都市への旅について説明し、写真を撮り詳細に記している。ベルの生き生きとした描写はアラビアの砂漠を西欧世界に明らかにした。1907年3月、ベルはオスマン帝国に渡り、考古学者で新約聖書研究者のウィリアム・ミッチェル・ラムジーとの共同作業に着手した。彼らがビンビルキリーゼで行った発掘調査は A Thousand and One Churchesに記録されている[38]。
1907年、彼らはシリア北部のユーフラテス川上流の東岸、かつての川の谷間の急斜面に沿って遺跡の原野を発見した。 その遺跡の城壁をこのように描写した。「私のテントが張られていたムンバヤは、アラビア語では高地のコースだけを意味しているが、プトレマイオスの都市名リストにあるベルシバであろう。それは川岸に位置する二重の城壁で構成されている[39]。」
1908年、ガートルード・ベルは女性参政権の導入に反対して戦ったイギリスの反女性参政権運動「女性の全国反女性参政権連盟」の名誉秘書に選出され、1913年頃まで反サフラジェット運動に積極的に参加していた[40][41]。
1909年1月、ベルはメソポタミアに向けて出発した。 ヒッタイトの都市カルケミシュを訪れ、ウカイディールの遺跡の地図を作成した後、バビロン、ナジャフへと向かった。カルケミッシュに戻った彼女は現地の二人の考古学者に相談した。 その内のひとりはレジナルド・キャンベル・トンプソンの助手であるT・E・ロレンスであった。1910年、ベルはミュンヘンで行われていた展覧会「ムハンマド美術の傑作展」を訪れた。継母への手紙の中で、彼女が研究室を独り占めにして展覧会の民族誌部門に参加していたダマスカス出身のシリア人と話した事を述懐している[42]。
1913年、彼女はダマスカスから政治的に不安定なハーイルまで約1800マイルを旅し、アラビア半島を横断してバグダード経由でダマスカスに戻るという最後のそして最も困難なアラビアの旅を完遂した。彼女はレディー・アン・ブラントに次いでハーイルを訪れた2人目の外国人女性であり、特に不安定な時期に到着したため11日間拘束された[16]:218–219。
ベルが没した翌年の1927年、継母のフローレンス・ベルは第一次世界大戦前の20年間に書かれた2巻からなるガートルード・ベルの書簡集を出版した[10]。
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- 1 ガートルード・ベルとは
- 2 ガートルード・ベルの概要
- 3 第一次世界大戦と政治キャリア
- 4 晩年
- 5 伝記
- 6 関連事項
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