ガートルード・ベル ガートルード・ベルの概要

ガートルード・ベル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 03:57 UTC 版)

彼女は、中東各地を旅して築いた部族の指導者たちとの関係から得た独自の視点で、イラクにおける近代国家の確立とその運営に大きな役割を果たした。彼女の生前はイギリス政府関係者から高く評価・信頼され、絶大な力を発揮した。彼女は「国王陛下の政府の代表でアラブの人々が愛情に似た物を覚えた数少ない一人」と評されている[6]

ガートルード・ベル (1909年)

生い立ち

ガートルード・ベルは、1868年7月14日、イングランドダラム・カウンティワシントン英語版にあるワシントン・ニュー・ホール(現在はデイム・マーガレット・ホールとして知られている)で進学や旅行を可能とする富に恵まれた裕福な家庭に生まれた[7]。彼女の性格はエネルギー、知性、冒険への志向が特徴で、それが彼女の人生の道を形作った。彼女の父方の祖父は、1870年代にイギリスの鉄鋼の3分の1を生産していたノーザンブリアに本拠を置くベル・ブラザーズの創業者・共同経営者の製鉄業者英語版で、ベンジャミン・ディズレーリ第2次政権時代に自由党国会議員を務めたアイザック・ロージアン・ベルであった。ロージアン・ベルはイギリスで最も繁栄した実業家のひとりであるだけでなく、ベッセマー金メダル英語版受賞者であり、王立協会会員の著名な科学者でもあった。彼のサロンの客にはチャールズ・ダーウィントーマス・ヘンリー・ハクスリー、社会改革家ジョン・ラスキン、芸術家ウィリアム・モリスなどがいた[8]。イギリスの政策決定における彼の役割は、若きガートルードを国際問題に触れさせ、世界に対する彼女の好奇心と後の国際政治への関与を道付けた可能性が高い[9]

ガートルード・ベルの父で第2代準男爵のヒュー・ベル英語版は、ロージアン・ベルの長男で、父と同様に徹底した教育を受けていた。 パリソルボンヌ大学で化学、ドイツでは有機化学と数学を学んだ。イギリスに帰国後の彼はロージアン・ベルの企業経営を徐々に引き継ぐ。政治的にも活躍し、当時の基準ではリベラルな姿勢をとり、特に教育や医療に力を入れた。ベルの母メアリー・シールド・ベル[10] とは1867年に結婚したが、1871年、息子のモーリス(後の第3代準男爵)英語版を出産中に没した[11]。ガートルード・ベルは当時3歳だったが、この死をきっかけに彼女の父と生涯にわたって親密な関係を築き[12]:33–34、生涯を通じて、様々な政府の役職に長年就いていた父親と政治的な相談をしていた。

エドワード・ポインターが描いた8歳のガートルード・ベルと父親、1876年

いくつかの伝記によれば、幼少期に母親を失った事がトラウマとなり鬱状態や危険な行動をとっていた時期があった事が明らかになっている。 しかし、父親はガートルードが7歳の時に再婚し、継母であるフローレンス・ベル英語版(旧姓オリフ)との間に3人の異母弟妹が生まれた。フローレンス・ベルは劇作家・童話作家であり、工場の労働者に関する研究の著者でもあった。彼女はガートルードに義務感や礼儀正しさの概念を植え付け、彼女の知的成長に貢献した。 フローレンス・ベルによるミドルスブラ近郊のエストン英語版にあったボルコー、ヴォーン英語版の工場労働者の妻たちとの活動が、後に義娘がイラク人女性の教育の推進に取り組む姿勢に影響を与えた可能性がある[13]

頭脳明晰だった彼女は、ロンドンのクイーンズ・カレッジ英語版で進んで初期の教育を受けた。これは当時としては珍しい一歩であった。当時、ベル家のような社会階層の女子教育はもっぱら個人的な家庭教師によって担われていた。さらに珍しい事に彼女の両親は17歳でオックスフォード大学レディ・マーガレット・ホール[14] に進んで、近代史(歴史学は、当時女性に課せられていた多くの制約のため、女性が勉強することが許されていた数少ない科目の一つであり、当時のメインストリーム的教養に属するラテン語ギリシャ語を専攻できるのは男性に限られていた)を学ぶ事を認めた。「私は少なくともひとつの事を知り、習得したいと考えています。私はこの素人勉強にうんざりしています。何かに没頭したい。」と彼女は父親に自分の願いを書いている[15]。彼女と同級生の女子は、通常はシャペロン英語版に付き添われて、聴講生として講義を受けた。弱冠20歳で最優等の成績英語版で卒業した最初の女性と言われているが、これは彼女がわずか2年で達成した偉業である[16]:41。記録ではこの年の卒業生11名の内9名が男性で2名がベルとアリス・グリーンウッド英語版であった[17]。しかし、女性である彼女らに学位は授与されなかった。オックスフォード大学が学位授与について男女を平等に取り扱う様になるのは1920年になってからである[18][19]

ヴィクトリア朝時代のイギリスでは女性の大学進学はごく稀であり、ベルは社交界にデビューはしたものの高学歴が災いして煙たがられ、3年経っても求婚者ひとりあらわれなかったという。ベルは生涯未婚であり子供もいなかった。彼女は1903年に弟のヒューゴとともにシンガポールを訪れた際、イギリスの植民地行政官フランク・スウェッテナム英語版と親しくなり、1909年まで文通を続けた[20]1904年にスウェッテナムがイギリスに引退した後、彼女は彼と「短いながらも情熱的な情事」を行った[21]。また、1913年から1915年にかけてラブレターを交わした既婚男性のチャールズ・ダウティ=ワイリー英語版少佐英語版とも不倫関係にあったが[22]:14–17、1915年に彼がガリポリの戦いで戦死した後、ベルは仕事に没頭した。

旅と執筆

ガートルード・ベルは1888/1889年の冬のシーズンを継母の義兄に当たるフランク・ラッセルズ英語版が公使として働くブカレストで過ごした[23]。ガートルード・ベルはブカレストでの外交晩餐会や舞踏会に参加し、ベルンハルト・フォン・ビューローや後にインド総督になるチャールズ・ハーディングなどに会った。また、ルーマニア国王カロル1世とその后であるエリサベタにも紹介された。ブカレストではヴァレンタイン・チロル英語版にも初めて出会い、生涯にわたる親しい友人になった[24]。彼女はコンスタンティノープルを経由してオリエント急行で帰国の途についた[25]

ルーマニアにも同行した義理の従兄弟のビリー・ラッセルズがベルの結婚相手の最有力候補のひとりだったが、ガートルード・ベルは数ヶ月後に彼に興味を失ってしまった[25]。彼女は他の候補者にも飽きていた[23]。彼女はブカレストやコンスタンティノープルに滞在した事で、国際性の点では他の男性を凌駕していた。ベルから継母への手紙で、自分が独身のままでは社会的に疎外された存在に押し込められる事を自覚し、苦しんだ事を証明している。手紙の最後は独身生活が続く事を暗示する言葉で締めくくっている。 "70年というのは本当に長いと思いません?[26][27]"

1892年、ガートルード・ベルの3度目の社交シーズンが終了したが、候補者の中で彼女に求婚した者も彼女が一過性以上の興味を持った者もいなかった。1892年の春、彼女は義理の伯母のメアリー・ラッセルと一緒にテヘランに向かった。その当時フランク・ラッセルズはブカレストからペルシャに移り、テヘランナーセロッディーン・シャーの宮廷でイギリスの特命全権公使を務めていた[28][26][29]1892年5月、彼を訪ねるためにペルシャを訪れた。彼女は1894年に刊行した初の随筆『ペルシャの情景』でこの旅の様子を記している。テヘラン滞在中の彼女の仲間の中にはイギリス公使館の外交官だったヘンリー・カドガンがいた。彼は知的な読書家であり熱心なスポーツマンで、ガートルード・ベルと同じく歴史に興味を持っていた。2人は惹かれあう様になり、求婚を受けた[30]。しかし、ヒューとフローレンスのベル夫妻は結婚に同意する事を拒んだ。カドガンはイギリス貴族のカドガン伯爵家の一員だったものの父親が破産寸前で、若手外交官としての俸給のみで生計を立てていた。さらにヒュー・ベルはカドガンに賭博癖があり、多額の借金を抱えている事も掴んでいた[31]。 ガートルード・ベルは両親の反対に屈したものの、カドガンが外交官としての十分なキャリアを早く築き、彼女の父親が求める生活水準を実現する事ができる様になるだろうと考えていた[31]。半年後、彼女は当初の約束通りイギリスに帰国した[32]。ロンドンで『ペルシャの情景』を執筆する事で、カドガンを待つ暇を潰し[33]、ペルシャの詩人ハーフェズの詩の翻訳を始めた。彼女によるハーフェズの英訳は現在でもその文学性を高く評価されている[34]。イギリスに帰国して9ヶ月後、彼女は、テヘランからヘンリー・カドガンが川に落ちて肺炎を起こし、しばらく後に死んだという知らせを受け取った[35]

その後の10年間の大半を世界各地を旅し、スイスで登山をし、考古学と言語の習得に情熱を注いだ。 彼女はアラビア語ペルシャ語フランス語ドイツ語に堪能になり、イタリア語オスマン語を話した。2度にわたって世界一周旅行を行い、旅行中の1899年1903年には日本にも立ち寄っている。後に著書『シリア縦断紀行』でベルはシリア訪問時戦われていた日露戦争について、シリアの各地で質問攻めにされたと記述している。初の日本訪問の同年、ベルは再び中東を訪れ、アラビア語を学ぶためエルサレムに長期滞在するかたわら、 パレスチナシリアを回り、1900年にはエルサレムからダマスカスへの旅で、エッドゥルーズ山地に住むドゥルーズと知り合いになった[36]。彼女はその後の12年間でアラビアを6度横断した[36]

1899年から1904年までの間、彼女はラ・メイジュ英語版モンブランなど、多くの山を制覇し、スイスのベルナー・アルプス英語版で10の新登山道や初登攀を記録した。ベルナー・オーバーラントにある2,632mのゲルトルードシュピッツェ(Gertrudspitze)は、1901年に彼女と登山ガイドのウルリッヒとハインリッヒ・フューラーが初登頂した事から、彼女の名前が付けられた。しかし、彼女は1902年8月、フィンスターアールホルン英語版の挑戦に失敗し、雪、ひょう、雷などの悪天候の中、ガイドと共に「ロープの上で48時間」を過ごす事を余儀なくされ、危うく命を落としかねない恐ろしい状況の中、岩壁にしがみついていた[37]

考古学

ベルがビンビルキリーゼ英語版で行った発掘調査の作業員、1907年

登山と同時並行で考古学を学び、1905年、シリアを経てユーフラテス川をめぐる旅に出る。翌年から考古学雑誌にベルの紀行文が掲載されはじめるようになり、1907年には彼女の連載が「シリア縦断紀行」として単行本化された。この本の中で彼女はダマスカス、エルサレム、ベイルートアンティオキアアレクサンドレッタなどの大シリアの町や都市への旅について説明し、写真を撮り詳細に記している。ベルの生き生きとした描写はアラビアの砂漠を西欧世界に明らかにした。1907年3月、ベルはオスマン帝国に渡り、考古学者新約聖書研究者のウィリアム・ミッチェル・ラムジー英語版との共同作業に着手した。彼らがビンビルキリーゼ英語版で行った発掘調査は A Thousand and One Churchesに記録されている[38]

1907年、彼らはシリア北部のユーフラテス川上流の東岸、かつての川の谷間の急斜面に沿って遺跡の原野を発見した。 その遺跡の城壁をこのように描写した。「私のテントが張られていたムンバヤ英語版は、アラビア語では高地のコースだけを意味しているが、プトレマイオスの都市名リストにあるベルシバであろう。それは川岸に位置する二重の城壁で構成されている[39]。」

1908年、ガートルード・ベルは女性参政権の導入に反対して戦ったイギリスの反女性参政権運動「女性の全国反女性参政権連盟英語版」の名誉秘書に選出され、1913年頃まで反サフラジェット運動に積極的に参加していた[40][41]

1909年1月、ベルはメソポタミアに向けて出発した。 ヒッタイトの都市カルケミシュを訪れ、ウカイディール英語版の遺跡の地図を作成した後、バビロンナジャフへと向かった。カルケミッシュに戻った彼女は現地の二人の考古学者に相談した。 その内のひとりはレジナルド・キャンベル・トンプソン英語版の助手であるT・E・ロレンスであった。1910年、ベルはミュンヘンで行われていた展覧会「ムハンマド美術の傑作展」を訪れた。継母への手紙の中で、彼女が研究室を独り占めにして展覧会の民族誌部門に参加していたダマスカス出身のシリア人と話した事を述懐している[42]

1913年、彼女はダマスカスから政治的に不安定なハーイルまで約1800マイルを旅し、アラビア半島を横断してバグダード経由でダマスカスに戻るという最後のそして最も困難なアラビアの旅を完遂した。彼女はレディー・アン・ブラント英語版に次いでハーイルを訪れた2人目の外国人女性であり、特に不安定な時期に到着したため11日間拘束された[16]:218–219

ベルが没した翌年の1927年、継母のフローレンス・ベルは第一次世界大戦前の20年間に書かれた2巻からなるガートルード・ベルの書簡集を出版した[10]


  1. ^ Meyer, Karl E.; Brysac, Shareen B. (2008), Kingmakers: The Invention of the Modern Middle East, New York: W.W. Norton & Co., p. 162
  2. ^ Wallach, Janet (1996). Desert Queen. Bantam Doubleday Dell. p. 6. ISBN 978-0-307-74436-4.
  3. ^ ウォラック 2006, p. 22.
  4. ^ Bell, Gertrude Lowthian (October 2000). O'Brien, Rosemary. ed. Gertrude Bell: The Arabian Diaries, 1913-1914. ISBN 9780815606727. https://books.google.com/books?id=yfQYdOJpaDMC&q=gertrude+bell+spy&pg=PA11 
  5. ^ "Bell, Gertrude Margaret Lowthian". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/30686 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  6. ^ Meyer, Karl E.; Brysac, Shareen B. (2008), Kingmakers: The Invention of the Modern Middle East, New York: W.W. Norton & Co., p. 162 
  7. ^ Del Testa, David W., ed (2001). “Bell, Gertrude”. Government Leaders, Military Rulers, and Political Activists. Westport, Connecticut: Oryx Press. p. 20. https://www.questia.com/read/106890738/government-leaders-military-rulers-and-political  (要購読契約)
  8. ^ Howell, 2008. p4
  9. ^ O'Brien, Rosemary, ed. (2000), Gertrude Bell: The Arabian Diaries, 1913–1914, Syracuse, NY: Syracuse University Press 
  10. ^ a b Bell, Gertrude (1927). Bell, Florence. ed. The Letters of Gertrude Bell. London. https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.173485 
  11. ^ Bell (Gertrude) Archive - Archives Hub”. 2021年7月28日閲覧。
  12. ^ a b c d e f g Howell, Georgina (2008). Gertrude Bell: Queen of the Desert, Shaper of Nations (Paperback ed.). Farrar, Straus and Giroux. ISBN 978-0-374-53135-5. https://archive.org/details/isbn_9780374531355 
  13. ^ O'Brien, pp. 5–6
  14. ^ LMH, Oxford - Prominent Alumni”. 2015年5月20日閲覧。
  15. ^ Bell: Ich war eine Tochter Arabiens. 1993, S. 12.
  16. ^ a b Howell, Georgina (2007). Queen of the Desert: The Extraordinary Life of Gertrude Bell (Paperback ed.). Pan Macmillan. ISBN 978-1-4472-8626-4 
  17. ^ "Greenwood, Alice Drayton". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/59037 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  18. ^ Sultan, Mena (8 Octber 2019). “October 1920: Women granted full membership of Oxford University”. ガーディアン. 2020年12月2日閲覧。
  19. ^ Judge, Ben (2020年10月7日). “7 October 1920: Oxford University allows women to graduate”. マネーウィーク英語版. 2020年12月2日閲覧。
  20. ^ Barlow, Henry S. (1995). Swettenham. Kuala Lumpur: Southdene. pp. 654–5 
  21. ^ Barlow, Henry S. (1997). “Malaysia: Swettenham's Legacy”. Asian Affairs 28 (3): 333. doi:10.1080/714857151. 
  22. ^ a b Lukitz, Liora (3 March 2006). A Quest in the Middle East: Gertrude Bell and the Making of Modern Iraq. I.B.Tauris. ISBN 978-1-85043-415-3. https://books.google.com/books?id=rkUiCaYQLyYC 2013年9月23日閲覧。 
  23. ^ a b 田隅 2005, p. 42.
  24. ^ 田隅 2005, pp. 44–45.
  25. ^ a b 田隅 2005, p. 46.
  26. ^ a b ウォラック 2006, p. 72.
  27. ^ Janet Wallach: Königin der Wüste. Das außergewöhnliche Leben der Gertrude Bell. Neuausgabe, Goldmann, München 2015, ISBN 978-3-442-15889-8, S. 66.
  28. ^ 田隅 2005, p. 54.
  29. ^ Janet Wallach: Königin der Wüste. Das außergewöhnliche Leben der Gertrude Bell. Neuausgabe, Goldmann, München 2015, ISBN 978-3-442-15889-8, S. 67.
  30. ^ 田隅 2005, pp. 60–61.
  31. ^ a b 田隅 2005, p. 62.
  32. ^ 田隅 2005, pp. 62–63.
  33. ^ 田隅 2005, pp. 63–64.
  34. ^ 田隅 2005, pp. 72–79.
  35. ^ 田隅 2005, p. 65.
  36. ^ a b Gertrude Bell and the Birth of Iraq”. theava.com (2011年11月15日). 2004年10月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年12月6日閲覧。
  37. ^ Berry, Helen (2013年9月). “Gertrude Bell: adventurer, diplomat, mountaineer and anti-suffragette”. BBC History Magazine (BBC). http://d2trsf8ycppbwn.cloudfront.net/article/feature/gertrude-bell-facts-life-anti-suffragette 2017年5月16日閲覧。 
  38. ^ Cohen, Getzel M.; Sharp Joukowsky, Martha (2006). Breaking Ground: Pioneering Women Archaeologists. University of Michigan Press. p. 167. ISBN 978-0-472-03174-0. https://books.google.com/books?id=WRqqcOMUkz8C&q=binbirkilise&pg=PA167 
  39. ^ Alfred Werner Maurer. Mumbaqat 1977 report on the resources of the University of Saarbrücken, undertaken by the German Oriental Society excavation. Philologus Verlag, Basel, 2007.
  40. ^ 田隅 2005, pp. 89–95.
  41. ^ British Anti-Suffrage and the Emancipation of Women in Iraq: The Case of Gertrude Bell. In: Arab World English Journal (AWEJ) Special Issue on Literature, Nr. 4, Oktober 2016, S. 4–19, hier S. 8
  42. ^ Gertrude Bell on the 1910 Masterpieces of Muhammadan Art Exhibition in Munich”. 2020年11月27日閲覧。
  43. ^ Bell, Gertrude (1927年). “To Herbert Baker, Basrah, June 25, 1916”. The Letters of Gertrude Bell, Volume 1 (London): p. 379. "彼は私に彼のオフィスの一室を与えてくれる事になっており、私は週に2、3日、朝にそこに行く事になっています...その他の日はGHQで働き続ける事になります....サー・パーシーのオフィスは25分の位置にあります。" 
  44. ^ Bell, Gertrude (1927). Bell, Florence. ed. “To Florence Bell, August 27, 1916”. The Letters of Gertrude Bell, Volume 1 (London): 386. "彼は私に彼のオフィスの一室を与えてくれる事になっており、私は週に2、3日、朝にそこに行く事になっています...その他の日はGHQで働き続ける事になります....サー・パーシーのオフィスは25分の位置にあります。" 
  45. ^ Townshend, Charles (2011). Desert Hell: The British Invasion of Mesopotamia. Cambridge, Massachusetts: Belknap Press. p. 494. ISBN 978-0674061347 
  46. ^ Rich, Paul J., ed (2008). Iraq and Gertrude Bell's The Arab of Mesopotamia. Lanham: Lexington Books. p. 144. ISBN 978-1461633662. https://books.google.com/books?id=AQeyAAAAQBAJ 
  47. ^ Fisk, Robert (2005). The Great War for Civilisation: the Conquest of the Middle East. London: Alfred Knopf. p. 327. ISBN 1-84115-007-X. https://archive.org/details/greatwarforcivil00fisk_0 
  48. ^ Zur strategischen Bedeutung von Information im Krieg siehe John Keegan英語版, Intelligence at war. Pimlico 2004, ISBN 0-7126-6650-8, S. 1–29.
  49. ^ ウォラック 2006, p. 328.
  50. ^ Janet Wallach: Königin der Wüste. Das außergewöhnliche Leben der Gertrude Bell. Neuausgabe, Goldmann, München 2015, ISBN 978-3-442-15889-8, S. 307.
  51. ^ Sobel, Andrew; Sheth, Jagdish (2001). Clients for Life Clients for Life: How Great Professionals Develop Breakthrough Relationships (Reprint ed.). Simon and Schuster. p. 64. ISBN 9780743215091 
  52. ^ Medals and Awards, Gold Medal Recipients” (PDF). Royal Geographical Society. 2016年11月26日閲覧。
  53. ^ a b c Wallach, Janet (1996). Desert Queen. Bantam Doubleday Dell. p. 6. ISBN 978-0-307-74436-4. https://books.google.com/books?id=4SR0ObjiLLYC 
  54. ^ a b c d "Letters from Baghdad" documentary (2016) Directors: Sabine Krayenbühl, Zeva Oelbaum.
  55. ^ "Miss Bell's Lines in the Sand", Guardian, 12 March 2003 https://www.theguardian.com/world/2003/mar/12/iraq.jamesbuchan Retrieved 10 December 2019.
  56. ^ Bell, Gertrude (2009年5月20日). “Friday July 8. [8 July 1921]”. The Letters. Gertrude Bell Archive, Newcastle University. 2009年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月8日閲覧。
  57. ^ Mowla, Khondakar Golam (2008). The Judgment Against Imperialism, Fascism and Racism Against Caliphate and Islam. 1. AuthorHouse. p. 255. ISBN 978-1438910956. https://books.google.com/books?id=IX02RSLJrcoC&q=%22to+ignite+fires+in+cold+rooms%22&pg=PA255 
  58. ^ Howell, Georgina (2008). Gertrude Bell: Queen of the Desert, Shaper of Nations (Paperback ed.). Farrar, Straus and Giroux. ISBN 0-374-53135-8. :413–419
  59. ^ "Miss Bell's Lines in the Sand", Guardian, 12 March 2003
  60. ^ Johnson, Daniel (2006年9月3日). “Putting the dons on their mettle”. The Telegraph. 2020年11月30日閲覧。
  61. ^ Howell, Georgina (2006). Gertrude Bell: Queen of the Desert, Shaper of Nations. Farrar, Straus and Giroux. p. 353. ISBN 978-1-4299-3401-5. https://books.google.com/books?id=ekb4b0Js98EC 
  62. ^ How Gertrude Bell caused a desert storm”. The Telegraph (2014年2月21日). 2016年6月10日閲覧。
  63. ^ 田隅 2005, pp. 417–420.
  64. ^ 田隅 2005, pp. 327, 427.
  65. ^ 田隅 2005, pp. 423–424.
  66. ^ 田隅 2005, p. 430.
  67. ^ 田隅 2005, p. 431.
  68. ^ ウォラック 2006, p. 583.
  69. ^ Buchan, James (2003年3月12日). “Miss Bell's lines in the sand”. The Guardian. 2009年8月29日閲覧。
  70. ^ 田隅, p. 430.
  71. ^ H.D.G. (1926). “Obituary: Gertrude Lowthian Bell”. The Geographical Journal 68 (4): 363–368. JSTOR 1783440. 
  72. ^ a b c Stewart, Rory (2007-10-25). “The Queen of the Quagmire”. New York Review of Books: 1. http://www.nybooks.com/articles/archives/2007/oct/25/the-queen-of-the-quagmire/ 2013年4月21日閲覧。. 
  73. ^ a b c Stewart, Rory (2007-10-25). “The Queen of the Quagmire”. New York Review of Books: 2. http://www.nybooks.com/articles/archives/2007/oct/25/the-queen-of-the-quagmire/?page=2 2013年4月21日閲覧。. 
  74. ^ Queen of the Desert”. Metacritic (2015年2月10日). 2015年5月20日閲覧。
  75. ^ Letters from Baghdad”. Between the Rivers Productions (2016年). 2017年4月2日閲覧。
  76. ^ Letters from Baghdad”. IMDb.com. International Movie Database. 2017年4月2日閲覧。
  77. ^ Pevsner, Nikolaus (1966). The Buildings of England: Yorkshire: The North Riding. Vol. 30. Penguin 
  78. ^ pictures of the memorial in East Rounton Church”. Flickr.com (2009年3月26日). 2011年12月6日閲覧。
  79. ^ Engel, Michael; Alqarni, Abdulaziz; Shebl, Mohamed; Thomas, Jennifer (2019). “New genera of meliturguline bees from Saudi Arabia and Persia, with notes on related genera (Hymenoptera: Andrenidae)”. Journal of Hymenoptera Research 69: 1–21. doi:10.3897/jhr.69.32561. 
  80. ^ Yale, Pat (2016年8月9日). “Gertrude of Arabia: the great adventurer may finally get her museum”. The Guardian. https://www.theguardian.com/culture/2016/aug/09/gertrude-of-arabia-gertrude-bell-home-museum-redcar 
  81. ^ UNESCO celebrates archive of a remarkable woman”. Newcastle University. 2019年10月5日閲覧。
  82. ^ The Gertrude Bell Archive”. UNSECO. 2019年10月5日閲覧。
  83. ^ Gertrude Bell Comics: Archeologist, Writer, Explorer”. Newcastle University. 2021年2月3日閲覧。
  84. ^ Wysocki, Lydia; Jackson, Mark; Miers, John; Webster, Jane; Coxon, Brittany (5 September 2019). “Making the invisible visible: hyperlinked webcomics as alternative points of entry to the digitised Gertrude Bell Archive”. International Journal of Heritage Studies 26 (5): 480–497. doi:10.1080/13527258.2019.1663236. https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/13527258.2019.1663236 2021年2月3日閲覧。. 


「ガートルード・ベル」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ガートルード・ベル」の関連用語

ガートルード・ベルのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ガートルード・ベルのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのガートルード・ベル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS