ガダルカナル島撤収作戦 作戦準備

ガダルカナル島撤収作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/17 17:54 UTC 版)

作戦準備

増援輸送

1942年(昭和17年)12月11日のドラム缶輸送の失敗(秋月型駆逐艦照月沈没)から[47]、日本海軍は駆逐艦による輸送を中止していた。しかし、撤退までの軍の消耗を防ぎ、体力を回復させるために翌年1月2日よりドラム缶輸送を再開した[48]。この時、第二水雷戦隊司令官は田中頼三少将から小柳冨次少将に交代した[49][48]。また1月14日から3回に渡り増援部隊を揚陸させた。さらに12月9日から中止していた潜水艦による輸送も12月26日より再開し、ほぼ毎晩行われた[50]。 同時にコロンバンガラ島ニュージョージア島ムンダサンタイサベル島レカタ湾、パラレ、ブーゲンビル島ショートランド泊地ブカ島の各地に増援部隊を輸送、ムンダを筆頭に飛行場整備を急いだ。連合軍も巡洋艦戦隊を投入し、コロンバンガラ島などへ艦砲射撃をおこなった[51]。同島ビラ地区の飛行場は岩淵三次大佐(戦艦霧島沈没時の艦長)[52]指揮下で造成をおこない1月22日時点で九割ほど完成していたが、ウォルデン・L・エインズワース提督が率いる巡洋艦と駆逐艦の砲撃と空襲により使用不能になっている[53]。 また輸送作戦従事中の艦隊型駆逐艦が多数損傷する[54][55]。駆逐艦涼風(1月2日、空襲により損傷)、駆逐艦初風(1月10日、魚雷艇により大破)[56]、駆逐艦(1月15日、空襲により損傷)[57]、駆逐艦秋月(1月19日、潜水艦雷撃で大破)[58]、駆逐艦春雨(1月24日、潜水艦ワフーの雷撃で大破)[59]が戦線を離脱した。

1943年(昭和18年)1月7日、連合艦隊は連合艦隊命令作第27号をもって、ガ島撤収作戦の方針を示した[44]

(1) 主隊(連合艦隊司令長官)はトラックにあって全作戦を指導する。
(2) 前進部隊(第二艦隊司令長官)はトラックに待機し、機に応じて出動しガダルカナル島北方にあって撤収支援、第一航空戦隊の飛行機隊はラバウルに進出し、また一部艦艇で牽制作戦を実施する(牽制作戦については後述)。
(3) 南東方面部隊(南東方面艦隊司令長官)
(イ) 基地航空部隊(第十一航空艦隊司令長官)は南東方面に集中し、1月15日以降航空撃滅戦を強化し、駆逐艦の上空直衛をおこなう。
(ロ) 外南洋部隊(第八艦隊司令長官)はガダルカナル島に対する補給を継続しながら患者等を収容、また新規に歩兵一個大隊をガ島に揚陸し、ルッセル島を一時占領する。
(ハ) 外南洋部隊増援部隊(第十戦隊司令官木村進少将。麾下駆逐艦は、第十戦隊、第二水雷戦隊、第三水雷戦隊、その他部隊からの臨時編入艦)は駆逐艦22隻を集中して撤収輸送を実施する。
(4) 先遣部隊(第六艦隊司令長官)は潜水艦によるガダルカナル島への常続補給と患者収容を実施、ガ島南東海面において連合軍の偵察と増援阻止を実施、また一部艦によりフェニックス諸島カントン島を砲撃する。

1月8日、連合艦隊先任参謀黒島亀人海軍大佐(兵44期)はラバウルに出張した[60]。1月9日、連合艦隊と第八方面軍は作戦協定を結ぶ[60]。1月10日、南東方面部隊(指揮官草鹿任一海軍中将)は第八方面軍と現地作戦協定を結んだ[60]。1月11日、第八方面軍は隷下部隊にガダルカナル島撤収を命令した[注 7]

なお撤退作戦準備中の1月19日、第十戦隊旗艦の駆逐艦秋月ブーゲンビル島沖合でアメリカ潜水艦ソードフィッシュの雷撃により中破する[61]。第十戦隊旗艦は駆逐艦風雲に変更された[62]。また秋月被雷時に第十戦隊司令官木村進海軍少将が負傷したため、第二水雷戦隊司令官の小柳冨次海軍少将が21日附で第十戦隊司令官に横滑りした[63][64]。小柳少将は航空便でトラック泊地からラバウルへ移動し、風雲に将旗を掲げた[65]

航空支援

日本軍航空部隊は1月15日からガダルカナル島への夜間攻撃強化を企図、天候が回復した19日より撤収作戦終了までほぼ連夜に渡りガダルカナル島飛行場の爆撃を行った[66]。またポートモレスビーラビへの夜間爆撃も同時に実施した。

1月25日からはガダルカナル島のアメリカ軍飛行場に対し航空撃滅戦を実施。第一次となる25日、零戦72機が一式陸攻12機とともに侵攻するも、5機(零戦4機・一式陸攻1機)を喪失し撃墜戦果無しと一方的な敗北を喫した。一方で第二次の27日、海軍の要請によりソロモン方面へ進出していた陸軍航空部隊飛行第11戦隊飛行第1戦隊一式戦「隼」69機が飛行第45戦隊の九九双軽9機とともに侵攻。この空戦においてアメリカ陸軍航空軍第339戦闘飛行隊および海兵隊第112海兵戦闘飛行隊の戦闘機24機と交戦、一式戦「隼」は6機を喪失するも7機を撃墜(戦果内訳はP-38 2機・P-40 2機・F4F 3機)[67]

29日から30日にかけてレンネル島沖海戦が発生した[66]

31日、第11戦隊の一式戦「隼」はガダルカナル島西方海上で日本軍艦艇を攻撃中のSBDおよび、掩護の第112海兵戦闘飛行隊F4F 8機と交戦、2機を喪失するも2機を撃墜した[67]

イサベル島沖海戦

イサベル島沖海戦

駆逐艦ド・ヘイブン
戦争太平洋戦争
年月日:1943年2月1日
場所鉄底海峡サボ島沖(大本営発表ではイサベル島南方沖)
結果:日本軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
山本栄
戦力
艦上爆撃機13
戦闘機40
駆逐艦2
戦車揚陸艇2
損害
艦爆5、戦闘機3損失 駆逐艦1沈没、1損傷
ソロモン諸島の戦い

2月1日、アメリカ軍は駆逐艦ド・ヘイブンニコラスの護衛のもと高速輸送艦ストリングハム英語版 および6隻の戦車揚陸艇により、ガダルカナル島西岸部のベラヒュー地区に歩兵一個大隊を揚陸させた。これによりガダルカナル島の日本軍は東西から挟撃される形になった[68][69]。午後、上陸部隊は二手に分かれたが駆逐艦2隻(ド・ヘイブンニコラス)と2隻の戦車揚陸艇からなる部隊はサボ島沖で海軍の九九式艦上爆撃機13機に発見される。日本軍の艦爆隊はこれを巡洋艦2隻と駆逐艦3隻と誤認し攻撃、駆逐艦ド・ヘイブンを撃沈、駆逐艦ニコラスを損傷させた。直後に日本海軍の撤収部隊が近付いてきたためアメリカ軍の航空機や魚雷艇との間で戦闘が発生した(下記参照)[68]

2月4日、大本営イサベル島南方沖にて敵巡洋艦を攻撃し、1隻を撃沈、1隻を小破させたと発表した[70](実際には駆逐艦一隻を撃沈、一隻を小破である。また戦闘海域はイサベル島沖南方であるのは事実だが鉄底海峡の中である)。

陽動作戦

1月10日、連合艦隊は電令作第445号により1月15日付で東方牽制部隊を編成した[71]。第八戦隊司令官原忠一海軍少将(兵39期)を指揮官とする東方牽制部隊は、重巡洋艦利根[注 8]伊号第八潜水艦[72]802空、海軍東京通信隊、第4通信隊、第6通信隊をもって編成されていた[73]。潜水艦によりカントン島砲撃を、マーシャル諸島東方海面の適宜機動、飛行哨戒、偽電発信が任務であった[73]

利根(東方牽制部隊指揮官)は1月19日にトラック泊地を出発し、22日ヤルート環礁に進出して第22航空戦隊や第六根拠地隊との打ち合わせをおこなった[74]。23日にヤルートを出撃、25日よりカントン島西に進出し偽電を発信、27日にヤルートへ帰投した[75]。同様の作戦を2月2日から実施し、2月7日にトラック泊地に戻った[76]。 伊8潜は偽電を発しつつフィジー方面に進出し、1月23日[75]と1月31日[77]に、カントン島への夜間艦砲射撃を実施した[注 9]。また802空はカントン島方面で哨戒任務を行った[75]。通信部隊は連合軍の通信を分析した[75]。また偽電を発信したと思われるが、記録が無く不明。これらにより日本軍が攻勢をかけると思わせるような工作を行った。 ガ島撤収作戦の完了により、連合艦隊は2月8日の電令作第477号によって東方牽制部隊を解隊した[79]

艦艇支援

1月31日、連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将は「今次ノ作戦ハ至難ニシテ其ノ成否ハ戦局ニ影響スルコト極メテ大ナリ 各隊(艦機)ハ全力ヲ尽シテ本作戦ヲ完遂以テ聖旨ニ副イ奉ランコトヲ期セヨ」と訓示した[6]。 第二艦隊司令長官近藤信竹海軍中将を指揮官とする前進部隊は1月31日にトラックを出港、ガダルカナル島の北方約700海里、グリニッチ島の東方海域に進出し敵艦隊の出現に備えた。前進部隊の兵力は以下の通り。

また支援隊(熊野鳥海川内)がカビエンに警戒停泊していたが、両隊とも戦闘参加の機会は無く終わった。

矢野大隊

矢野大隊(長:矢野桂二少佐)は、撤収作戦援護の殿(しんがり)を任務として第38師団ラバウル残留各部隊から抽出されて臨時編成された。その編成は、歩兵1個中隊、機関銃1個中隊、山砲1個中隊(山砲3門)の兵員750名に有線・無線各1個小隊の150名がついた。兵員の多くは年齢30歳前後の未教育補充兵で、生還を期さない決死隊として撤収作戦であることは矢野少佐にも知らされていなかった[80]

駆逐艦5隻に分乗した矢野大隊と第八方面軍の井本熊男陸軍中佐は、1月14日エスペランス岬に上陸した[81]。15日、井本参謀は第十七軍司令部に立ち寄り、勅語と撤退命令を伝達した[82]。16日、百武司令官は撤退を決定した[35]。第十七軍司令部は、最前線に向かう矢野大隊を見送った[81]。18日、矢野大隊は最前線のコカンボナに布陣し、22日から陣地を転換しながらの遅滞戦闘をおこなった。アメリカ軍は迫撃砲による集中砲撃や戦車を先頭に攻撃したが、矢野大隊は肉攻班が破甲爆雷で対戦車攻撃をおこなうなど頑強に抵抗した。この間、日本軍は揚陸予定地点のエスペランス岬とカミンボへ後退していったが、行動不能の者は自決した[83]。日本軍は第一次撤収(2月1日)、第二次撤収(2月4日)を実施したがアメリカ軍はこれを察知することができなかった。

当初、矢野大隊の一部はガダルカナル島に残置させられる方針であったが、矢野少佐は(一部を残すくらいなら)大隊一丸で玉砕するとの覚悟であったため急遽命令が変更され、大隊は第三次撤収(2月7日)で駆逐艦に収容された。在島25日間で750名の兵力は300名に減っていた[80]

ラッセル諸島占領

万一、駆逐艦による撤退が不可能になった場合には舟艇機動によってラッセル諸島(ガダルカナル島の西方約50キロ地点)まで移動し、そこから駆逐艦で撤退することが計画された。また同時にアメリカ軍の占領を防ぎ、増援作戦に見せかける意図もあった。そこで占領部隊として「立岩支隊」(長:立岩新策大尉。総員約530名の陸海軍混成部隊)が編成され、1月28日に浦風浜風江風の駆逐艦3隻に輸送されラッセル諸島のバイシー島へ夜間上陸した。(警戒隊として時津風黒潮白雪の3隻が同行)途中航空機の攻撃を受けたが零戦の直掩もあり、艦艇に大きな被害はなく輸送は成功した。このとき撤収兵のための食料入りドラム缶も大量に輸送された。立岩支隊はその後10日間にわたりバイシー島を確保していたが、舟艇機動が予定されていた第三次撤収も駆逐艦によって行われたため、2月7日に島を撤収した(欠員なし)[84]


注釈

  1. ^ 草鹿任一海軍中将は、南東方面艦隊司令長官と第十一航空艦隊司令長官を兼務。南東方面部隊指揮官として、南東方面艦隊と第八艦隊を隷下に置く。
  2. ^ 第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将は、軍隊区分においては外南洋部隊指揮官であり、南東方面部隊の隷下で行動する。
  3. ^ 第二艦隊司令長官近藤信竹海軍中将指揮下の前進部隊、カビエン待機の重巡鳥海や軽巡川内など。
  4. ^ 撤収完了ニ方リ方面軍司令官電報[9] 二月八日 軍司令官宛 剛軍司令官
    至難ナル ケ号作戦ヲ完遂シ得タルハ偏ニ御稜威ノ下軍司令官閣下ノ大命尊奉ノ大義ニ徹シタル統率指導ノ賜ニ外ナラス/茲ニ深甚ナル敬意ヲ表スルト共ニ将兵ノ労苦ヲ深ク多トシ速カナル戦力ノ回復ヲ祈念シテ已マス 陣歿将兵ノ英霊ニ対シ謹テ敬弔ノ誠ヲ捧ク 第八方面軍司令官 
  5. ^ 日本側駆逐艦の損害は以下のとおり。第一次撤収作戦で駆逐艦巻雲が沈没し駆逐艦巻波が大破。第二次撤収作戦で駆逐艦舞風が中破。第三次撤収作戦で駆逐艦磯風が中破。
  6. ^ (1943年1月4日)勅語 「ソロモン」群島竝東部「ニューギニヤ」方面ニ作戦セル陸海軍部隊ハ長期ニ亙リ緊密ナル協同ノ下ニ連続至難ナル作戦ヲ敢行シ有ユル艱苦ヲ克服シ激戦奮闘屡々敵ニ打撃ヲ加ヘ克ク其ノ任ニ膺レリ  朕深ク之ヲ嘉尚ス 惟フニ同方面ノ戦局ハ益々多端ヲ加フ汝等愈々奮励努力陸海協戮ヲ以テ朕カ信倚ニソハムコトヲ期セヨ[24][25]
  7. ^ 撤収ニ関スル方面軍命令 剛方作命甲第八十一号 一月十一日〇八〇〇 ラバウル 第八方面軍命令[9]
    一、大命ニ依リ方面軍ハ海軍ト協同シ「ソロモン」群島及「ビスマルク」群島ノ各要域ヲ確保シ又「ニューギニア」ノ要域ヲ占領確保シテ同方面ニ於ケル爾後ノ作戦ヲ準備スルト共ニ現ニ「ガダルカナル」島ニ在ル部隊ヲ後方要域ニ撤収セシメラル/二、第十七軍司令官ハ海軍ト協同シテ「ガダルカナル」島ニ在ル部隊ヲ北部「ソロモン」群島ノ要地ニ撤収シ 爾後同群島ノ要域ヲ確保シ同方面ニ強固ナル戦略態勢ヲ確立スヘシ「ボーゲンヴィル」島ニ於テ第六師団ヲ其指揮下ニ入ラシムル予定/三、第六飛行師団長ハ海軍航空部隊ヲ協同シ 前項ノ作戦ニ協力スヘシ/四、船舶兵団長ハ第十七軍司令官ニ協力シ第二項ノ作戦ニ協力スヘシ 「ガダルカナル」島に派遣スル船舶部隊ハ同島到着ノ時ヨリ作戦終了迄第十七軍司令官ノ指揮下ニ入ラシムルモノトス/五、細部ニ関シテハ参謀長ヲシテ指示セシム(以下略)
  8. ^ 第八戦隊は利根型重巡洋艦2隻編制だが、姉妹艦筑摩南太平洋海戦で大破して内地修理中であった。
  9. ^ 当時の伊号第八号潜水艦長は、これがガ島撤収の陽動作戦であることを知らされておらず、3月10日のトラック泊地帰投時に初めて判明したと回想している[78]
  10. ^ 二水戦・第31駆逐隊は駆逐艦3隻(長波、巻波、大波)編制で、長波は応急修理中、大波は前進部隊として行動。
  11. ^ 第十戦隊・第4駆逐隊は駆逐艦4隻(嵐、萩風、野分、舞風)編制で、萩風と野分は修理中、嵐は前進部隊として行動。
  12. ^ 二水戦・第24駆逐隊は駆逐艦3隻(海風、江風、涼風)編制で、海風は損傷修理中、涼風は前進部隊として行動。
  13. ^ 二水戦・第15駆逐隊は駆逐艦3隻(陽炎、黒潮、親潮)編制だが、親潮は損傷修理のため内地所在、陽炎は前進部隊として行動。
  14. ^ 三水戦・第11駆逐隊は駆逐艦2隻(白雪、初雪)編制で、初雪は前進部隊として行動。
  15. ^ 第十戦隊司令官を木村進海軍少将とする資料があるが、既述のように撤収作戦直前に小柳冨次海軍少将に交代していた[63]。また本来の第十戦隊旗艦阿賀野は陽動部隊として行動した。
  16. ^ 第十戦隊・第16駆逐隊は駆逐艦4隻(雪風、天津風、時津風、初風)編制で、天津風と初風は損傷修理のため不参加。
  17. ^ 第四水雷戦隊・第8駆逐隊は駆逐艦4隻(朝潮、大潮、満潮、荒潮)編制で、満潮はショートランド泊地で航行不能。朝潮は内地に帰投しており不参加。
  18. ^ 宮崎参謀長の陣中日誌では「浜風」と記述しているが[99]、実際には「磯風」であった。昭和31年の回想では「磯風」に訂正した[100]
  19. ^ (昭和18年2月6日記事)[103](中略)正午前「ブイン」飛行場ニ次長及剛参謀長ヲ送ル(以下略)
  20. ^ 『戦史叢書66、大本営陸軍部<6>』による2月15日報告では、海軍兵749名とする[11]
  21. ^ 部隊名/ガ島上陸人員数/ケ号作戦撤収人員数の順番で記述[114]。軍司令部/192/142、第二師団/10,318/2,647、第三十八師団/7,646/2,473、歩兵第35旅団および歩兵124連隊/3,545/618、一木支隊/2,108/264、軍直属部隊/4,248/1,666、兵站部隊/815/480、陸軍総計(船舶兵除く)/28,872/8,290、船舶部隊2,486(船員318)/1,527、海軍部隊/(不明)/848、ケ号作戦撤収兵合計10,665。
  22. ^ 第一次撤収作戦に参加した駆逐艦巻雲機雷により損傷、自沈処分。
  23. ^ 第一次撤収作戦で駆逐艦巻波大破。第二次撤収作戦で駆逐艦舞風中破。第三次撤収作戦で駆逐艦磯風中破。

出典

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