矢野大隊
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矢野大隊(長:矢野桂二少佐)は、撤収作戦援護の殿(しんがり)を任務として第38師団のラバウル残留各部隊から抽出されて臨時編成された。その編成は、歩兵1個中隊、機関銃1個中隊、山砲1個中隊(山砲3門)の兵員750名に有線・無線各1個小隊の150名がついた。兵員の多くは年齢30歳前後の未教育補充兵で、生還を期さない決死隊として撤収作戦であることは矢野少佐にも知らされていなかった。 駆逐艦5隻に分乗した矢野大隊は、1月14日エスペランス岬に上陸した。18日最前線のコカンボナに布陣し、22日から陣地を転換しながらの遅滞戦闘をおこなった。アメリカ軍は迫撃砲による集中砲撃や戦車を先頭に攻撃したが、矢野大隊は肉攻班が破甲爆雷で対戦車攻撃をおこなうなど頑強に抵抗した。この間、日本軍は第一次撤収(2月1日)、第二次撤収(2月4日)を実施したがアメリカ軍はこれを察知することができなかった。当初、矢野大隊の一部はガダルカナル島に残置させられる方針であったが、矢野少佐は(一部を残すくらいなら)大隊一丸で玉砕するとの覚悟であったため急遽命令が変更され、大隊は第三次撤収(2月7日)で駆逐艦に収容された。在島25日間で750名の兵力は300名に減っていた。
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矢野大隊
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「ガダルカナル島撤収作戦」の記事における「矢野大隊」の解説
矢野大隊(長:矢野桂二少佐)は、撤収作戦援護の殿(しんがり)を任務として第38師団のラバウル残留各部隊から抽出されて臨時編成された。その編成は、歩兵1個中隊、機関銃1個中隊、山砲1個中隊(山砲3門)の兵員750名に有線・無線各1個小隊の150名がついた。兵員の多くは年齢30歳前後の未教育補充兵で、生還を期さない決死隊として撤収作戦であることは矢野少佐にも知らされていなかった。 駆逐艦5隻に分乗した矢野大隊と第八方面軍の井本熊男陸軍中佐は、1月14日エスペランス岬に上陸した。15日、井本参謀は第十七軍司令部に立ち寄り、勅語と撤退命令を伝達した。16日、百武司令官は撤退を決定した。第十七軍司令部は、最前線に向かう矢野大隊を見送った。18日、矢野大隊は最前線のコカンボナに布陣し、22日から陣地を転換しながらの遅滞戦闘をおこなった。アメリカ軍は迫撃砲による集中砲撃や戦車を先頭に攻撃したが、矢野大隊は肉攻班が破甲爆雷で対戦車攻撃をおこなうなど頑強に抵抗した。この間、日本軍は揚陸予定地点のエスペランス岬とカミンボへ後退していったが、行動不能の者は自決した。日本軍は第一次撤収(2月1日)、第二次撤収(2月4日)を実施したがアメリカ軍はこれを察知することができなかった。 当初、矢野大隊の一部はガダルカナル島に残置させられる方針であったが、矢野少佐は(一部を残すくらいなら)大隊一丸で玉砕するとの覚悟であったため急遽命令が変更され、大隊は第三次撤収(2月7日)で駆逐艦に収容された。在島25日間で750名の兵力は300名に減っていた。
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