アーサー・ウェイリー アーサー・ウェイリーの概要

アーサー・ウェイリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 07:46 UTC 版)

Arthur Waley
アーサー・ウェイリー
CH CBE
ウェイリーの肖像画(レイ・ストレイチー画)
生誕 Arthur David Schloss
(1889-08-19) 1889年8月19日
イングランド ケント州タンブリッジ・ウェルズ英語版
死没 1966年6月27日(1966-06-27)(76歳)
イングランド ロンドン
墓地 ハイゲイト墓地
出身校 ケンブリッジ大学 (中退)
主な業績 中国・日本の文学作品の翻訳
配偶者
アリソン・グラント・ロビンソン (m. 1966)
プロジェクト:人物伝
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高い学識を持ちながらも学術的な役職に就くことを避け、一般向けの本を書くことが多かった。1910年代から1966年に亡くなるまで、中国や日本の文学作品の翻訳を続けた。1918年の"A Hundred and Seventy Chinese Poems"(漢詩百七十首)、1919年の"Japanese Poetry: The Uta"(日本の詩「歌」)のような詩の翻訳や、1925年から26年にかけての『源氏物語』の翻訳"The Tale of Genji"、1942年の『西遊記』の翻訳"Monkey: A Folk-Tale of China"などの小説の翻訳で知られる。また、中国哲学の紹介や翻訳、文学者の伝記の執筆、アジアと西洋の絵画への言及など、生涯にわたって活動を続けた。

最近の評価では、ウェイリーは「中国と日本の高度な文学を、英語を読む一般の人々に伝えた偉大な人物。20世紀前半における東洋から西洋への大使」と評され、また「独学でありながら、両言語ともに顕著なレベルの流暢さ・博識さに到達した。これは、他にはない業績であり、(後に彼自身が述べているように)当時だからできたことであり、二度と起こらないことだろう」とも述べられている[2]

生涯

アーサー・ウェイリーは、1889年8月19日イングランドケント州タンブリッジ・ウェルズ英語版で生まれた。父は経済学者のデイヴィッド・フレデリック・シュロス(David Frederick Schloss)であり、出生時の名前はアーサー・デイヴィッド・シュロス(Arthur David Schloss)だった。シュロス家は、ロスチャイルド家に連なるユダヤ系の名門である。

ラグビー校で教育を受け、奨学金を得て1907年ケンブリッジ大学キングズコレッジに入学し、古典学を専攻した。優秀な成績を収めたが、目の病気で勉強に支障をきたしたため1910年に退学した[3][注釈 1]

一時的に商社で働いた後、1913年より大英博物館に東洋版画・写本部門の学芸員として勤務した[3]。大英博物館での上司は詩人・学者のローレンス・ビニョンだった。ビニョンの指導のもとで、古典中国語古典日本語を独学で学んだ。また、語学交換教師として、当時ロンドン大学に留学していた八木秀次にも日本語を習っている[4]。しかし現代の中国語日本語を話せるようにはならず、生涯で中国や日本を訪れたこともなかった[3]

ウェイリーはアシュケナージ系ユダヤ人の血を引いている。1914年第一次世界大戦が勃発し、「シュロス」という名がドイツ系であることなどから警察によりスパイとの嫌疑をかけられたことがあったため、アーサーの提案により、一家で母の旧姓であるウェイリーに改姓した[5]。当時、他のドイツ系の姓を持つ多くのイギリス人も、イギリスで見られた反ドイツ的な偏見を避けるために姓を英語風のものに変えることが多かった[3]

1918年、イギリスのバレエダンサーで東洋学者、舞踊評論家・研究家のベリル・デ・ズーテ英語版と出会った。ズーテとは生涯にわたって交際したが、結婚には至らなかった[6]

1929年に大英博物館を退職した。以降は執筆と翻訳に専念し、第二次世界大戦中に情報省英語版に4年間勤務したほかは、定職に就くことはなかった[3]。1939年9月、ウェイリーは情報省の日本語検閲部門の責任者として採用された。オズワルド・タック英語版海軍大尉が補佐し、ロンドンに滞在している日本人ジャーナリストの日本語による通信文や私信、在英国日本国大使館からの外交信号などをチェックしていた[7]

ウェイリーはブルームズベリーに住んでおり、ブルームズベリー・グループには、学生時代からの友人が多くいた。ロナルド・ファーバンク英語版の才能を早くから認識していた一人であり、ファーバンクの作品集の初版に、オズバート・シットウェル英語版とともに序文を寄稿している。

エズラ・パウンドの尽力により、ウェイリーの最初の翻訳がアメリカの文学雑誌『リトル・レビュー英語版』に掲載された。しかし、パウンドからのウェイリーの評価は様々であった。1917年7月2日、パウンドは『リトル・レビュー』の編集者マーガレット・C・アンダーソン英語版に宛てた手紙の中で「ウェイリーによる白居易の翻訳をようやく手に入れた。いくつかの詩は素晴らしい。ほぼ全ての翻訳が、彼のまずい英語と不完全なリズムによって損なわれている...。なにか良いものを買って、彼に下手な仕事を取り除いてもらおうと思っている(彼はロバや「学者」のように頑固だ)」 と書いている。ウェイリーは『老子道徳経』の翻訳"The Way and its Power"の序文で、現代の西洋の読者にとって意味がより重要であると合理的に考えられる翻訳では、文章の形式よりも意味の方を優先するように気をつけたと説明している。

1966年5月にアリソン・グラント・ロビンソン(Alison Grant Robinson)と結婚したが、その1か月後の6月27日にウェイリーは死去した。遺体は、ハイゲイト墓地の西側の、彫刻家ジョセフ・エドワーズ英語版の墓の前にある無銘墓英語版に埋葬されている[8]

芸術批評家のサシェヴェレル・シットウェル英語版は、ウェイリーのことを、自分が知りうる限りで最も偉大な学者であり、人間のあらゆる芸術を最も理解している人物だったと評した。シットウェルは、ウェイリーの最期について次のように書いている。

彼は腰の骨折と脊椎の癌で瀕死の状態にあり、非常に大きな痛みを感じていたが、いかなる薬物や鎮静剤の投与も拒否した。彼は、最期の瞬間に意識を保っていたいと思っていたので、あえてそのようにしたのだ。天賦の才能は衰え、消えつつあり、それは二度と手に入れることはできない。彼は数日間、ハイドンの弦楽四重奏曲を聴き、好きな詩を読んでもらった。そして彼は死んだ[9]

業績

ジョナサン・スペンスは、ウェイリーの翻訳について次のように書いている。

[ウェイリーは]中国と日本の文学の宝石を選び、それを自身の胸に静かに留めた。そのようなことは、それまでに誰もしなかったし、これからも誰もしないだろう。彼よりも中国語や日本語の知識が豊富な西洋人はたくさんいるし、おそらく両方の言語を扱える人も何人かはいるだろう。しかし、彼らは詩人ではないし、ウェイリーよりも優れた詩人たちは、中国語や日本語を知らない。また、この衝撃が再び訪れることはないだろう。ウェイリーが翻訳した作品の多くは、西洋ではほとんど知られておらず、それに故にその衝撃は驚くほどのものだったからである[10]

生涯に多数の日本や中国の文学の翻訳や、それに関する著作を残した。その中には、"A Hundred and Seventy Chinese Poems"(漢詩百七十首、1918年)、"Japanese Poetry: The Uta"(日本の詩「歌」、1919年)、"The No Plays of Japan"(日本の能楽、1921年)、"The Tale of Genji"(『源氏物語』、1921年 - 1933年)、"The Pillow Book of Sei Shōnagon"(『枕草子』、1928年)、"Kutune Shirka"(『クトネシリカ』、1951年)、"Monkey"(『西遊記』の要約、1942年)、"The Poetry and Career of Li Po"(李白の詩と経歴、1959年)、"The Secret History of the Mongols and Other Pieces"(元朝秘史とその他の作品、1964年)などがある。『論語』や『老子道徳経』などの古典の翻訳や、中国古典哲学の解釈書"Three Ways of Thought in Ancient China"(古代中国の三つの思想、1939年)は、現在も出版されている。

ウェイリーの詩の翻訳は、それ自体が詩として広く評価されており、"Oxford Book of Modern Verse 1892–1935"、The Oxford Book of Twentieth Century English Verse"、Penguin Book of Contemporary Verse (1918–1960)"などの多くのアンソロジーにウェイリーが翻訳した詩が掲載されている。ウェイリーの翻訳や解説書の多くは、ペンギン・クラシックスやワーズワース・クラシックスなどで再版され、今なお幅広い読者を獲得している。

作曲家ベンジャミン・ブリテンは、ウェイリーの1946年の中国の詩の翻訳"Chinese Poems"の中から6つの詩に曲をつけ、1957年に歌曲集『中国の歌英語版』(Songs from the Chinese)として発表した。

『源氏物語』

1925年から1933年にかけて6巻に分けて出版された『源氏物語』の翻訳"The Tale of Genji"は、同書の世界初の英語全訳である。詩的で美しい英語といわれ、出版されるとたちまちベストセラーとなった(ただし数ページの第38帖「鈴虫」は訳出していない)。「ここにあるのは天才の作品」「忘れられた文明が(……)いずこでも追従をゆるさない配列の美しさをもって蘇ってくる」「日本の黄金時代の古典 東洋最高の長編小説」等々、『タイムズ』紙などで絶賛された。またその訳文は「感情の優雅さと純粋な言葉の巧みさのどれだけが紫式部(レディ・ムラサキ)のもので、どれだけ翻訳者のものかわからない」と英文学としても高く評価された。「現代作家でもここまで心情を描ける作家はいない」と絶賛するなど、現在世界的に紫式部の評価が高いのは、紹介したウェイリーの功績と言える。また同書に触発され、日本研究を志し大成したドナルド・キーンなどの日本学者も多い。更に源氏物語を起点に他のウェイリーの訳著『The 'No' Plays of Japan』を読み、初めて〈〉に興味を持った人も多く、日本文化に対するその後の国際的評価の高まりを考えるに、直接のみならず間接を含む影響は極めて大きい。なお『The Tale of Genji』はその後、イタリア語ドイツ語フランス語などに二次翻訳された。現在でも在日外国人記者などが、来日前に上司に薦められる書とも言われ、日本の歴史伝統を理解するための必読書とされる。

影響

ドナルド・キーンはウェイリー訳の『The Tale of Genji』を読み「『源氏物語』がもたらした光明が忘れられぬ」、「源氏物語の英訳(全訳)は米国人のサイデンステッカー訳など四種類あるが、ウェイリーが最高」とインタヴューで答えている。その他、日本研究家・中国研究家、翻訳家、文壇、文化人らに多数影響を与えた。音楽の世界においてはビートルズのメンバー(当時)だったジョージ・ハリスンの「The Inner Light」はウェイリー訳『老子道徳経』の一節(第四七章)から引用された、との指摘もある。また、他の音楽家においても、コンスタント・ランバート李白の詩を元に作曲し、マーチン・ダルビーがウェイリー訳に基づいて中国(風の)曲を作曲した。直接か間接的な影響かは不明ながらコーネリアス・カーデュー孔子の詩に曲付けを試みるなど、世代に関係なく様々な影響を西洋にもたらしたとされ、「ウェイリー版源氏物語」を愛読した人物として、ユルスナールレヴィ=ストロースエドワード・ゴーリーバルテュスなどが知られている。


注釈

  1. ^ 平川祐弘『アーサー・ウェイリー「源氏物語」の翻訳者』には、「卒業試験の際、初歩的な誤りをして、大学に残るという望みは断たれた」とある。
  2. ^ 直接会ったことのあるドナルド・キーンは『わたしの日本語修行』(白水社p.168f)で「日本の古文、文語を詠めるようになるには三か月あればいい、三か月で誰にでもできるはずだ」と書いていることを紹介し、日本語も中国語も自由に読めるが話すことはできなかったと話している。ただ、「日本語は、話せないというより、決して話そうとしなかったという印象です」だと答えている。
  3. ^ 川口久雄 『敦煌よりの風6 敦煌に行き交う人々』(明治書院、2001年)「第1章」に、詳しい研究回想がある。
  4. ^ なお評伝を著した宮本昭三郎は、『源氏物語に魅せられた男 アーサー・ウェイリー伝』のあとがきで、アリスンの著作はフィクション色が強く、参照は必要最小限しか行なわなかったと述べている。

出典

  1. ^ Johns (1983), p. 179.
  2. ^ E. Bruce Brooks, "Arthur Waley", Warring States Project, University of Massachusetts.
  3. ^ a b c d e Honey (2001), p. 225.
  4. ^ 『源氏物語』とアーサー・ウェイリー 井原眞理子”. 筑波大学. 2022年4月29日閲覧。
  5. ^ 宮本昭三郎『源氏物語に魅せられた男』新潮社、1993年。ISBN 4106004348 
  6. ^ Papers of Beryl de Zoete”. Rutgers University. 2004年6月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月22日閲覧。
  7. ^ Peter Kornicki, Eavesdropping on the Emperor: Interrogators and Codebreakers in Britain's War with Japan (London: Hurst & Co., 2021), pp. 31-32.
  8. ^ Obituary of Arthur Waley”. Cambridge University Press. 2018年4月17日閲覧。
  9. ^ Sacheverell Sitwell. For Want of the Golden City (New York: John Day, 1973) p. 255
  10. ^ Jonathan Spence. "Arthur Waley," in Chinese Roundabout (New York: Norton, 1992 ISBN 0393033554) pp. 329-330
  11. ^ a b Nienhauser, William H. "Introduction." In: Nienhauser, William H. (editor). Tang Dynasty Tales: A Guided Reader. World Scientific, 2010. ISBN 9814287288, 9789814287289. p. xv.
  12. ^ 別訳に少部数での刊行で、『袁枚伝』(松本幸男訳、彙文堂書店、1992年)がある


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