アポロ12号 主要な任務

アポロ12号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/04 07:49 UTC 版)

主要な任務

着陸船から月面に降り立つコンラッド
コンラッドに撮影されたビーン飛行士 (ヘルメットに写っているのがコンラッド)
12号の銘板の複製品

発射から月遷移軌道まで

ケネディ宇宙センターから発射される12号。1969年11月14日

12号は暴風雨の中、ケネディ宇宙センターから予定通りの時刻に発射された。発射場には現職の大統領であるリチャード・ニクソン (Richard Nixon) が駆けつけていたが、これは史上初めてのことであった。発射から36.5秒後、機体をが直撃した。電流ロケットの排煙を伝わり、地面に放電された。機械船燃料電池ブレーカーはこのとき誤って過負荷を検知し、三つの電池すべてと司令・機械船の機器のほとんどを遮断させた。さらに52秒後にも二度目の落雷を受け、「8ボール」式の姿勢指示器が停止してしまった。管制センターに送られてくる遠隔測定のデータは完全に混乱してしまったが、サターン5型ロケットに搭載されている自動飛行制御装置は影響を受けなかったため、ロケットは正常に飛行を続けた。

燃料電池が3つとも停止したことで宇宙船は完全に緊急用電池に頼らざるを得なくなったが、これは平常時の28ボルト電圧を発射時の75アンペアという高負荷に保たせることができるものではなかったため、インバータの一つが停止した。この電源トラブルにより計器盤のすべての警告灯が点灯してしまい、ほとんどの機器が「故障」したとの表示がされた。

NASAの伝説的な古参の管制官で、宇宙船への電力酸素の供給の監視を担当する、「鋼鉄の目を持つミサイル[4]」の異名を持つジョン・アーロン (John Aaron) はこのとき、アポロ計画の初期に行われたある試験の結果をおぼえていた。その試験とは、信号調整装置 (Signal Conditioning Equipment, SCE) に電力が送られなくなった状況を再現するものであった。SCEとは、機器から送られてくる一連の信号を宇宙船の計器盤や遠隔測定の符号器に表示するため、標準の電圧に変換するものである[5]

アーロンは「SCEを補助に切り替えろ」と無線で呼びかけた。これはSCEの電源を予備のものに切り替える操作だったが、かなり分かりづらいものであったため、飛行主任のジェラルド・グリフィン (Gerald Griffin)、宇宙船通信担当官 (Capsule communicator, CAPCOM) のジェラルド・カー (Gerald Carr)、船長のコンラッドらは、すぐにその意味を理解することができなかった。その中で司令船のいちばん右端の席に座っていた着陸船操縦士のビーンだけは、同じような状況を再現した一年前の訓練で、SCEの切り替え操作をしたことをおぼえていた。アーロンの素早い対応と、ビーンが対処方法を記憶していたことにより、緊急脱出用ロケットを作動させて飛行を中止する事態に陥るのは免れることができた。その後ビーンが燃料電池を再起動させ、遠隔測定のデータも復帰したため、発射は無事に続行した。待機軌道に乗ると、飛行士たちは遷移軌道投入のためのサターンロケット第三段S-IVBの再点火に備えて、宇宙船を念入りに点検した。落雷は結局、宇宙船には何ら深刻なダメージを与えてはいなかった。

実はこのとき管制室では、落雷で司令船のパラシュート展開装置の一部が誤って点火してしまったのではないかと懸念していた。もしそうなっていたら、パラシュートを開くための爆発ボルトが作動しなくなり[要出典]、司令船は太平洋に叩きつけられ三人の飛行士は間違いなく即死することになる。だがこの時点においては本当に点火したのかどうかを確かめる手段はなく、また点火していたと確認できたとしても対処の方法があるわけでもないため、管制室はこの懸念を飛行士には伝えないことに決定した。結局、パラシュートは飛行の最後に正常に展開し、飛行士たちは無事太平洋に着水した。

第三段S-IVBは着陸船を切り離した後、 太陽を周回する軌道に投入されることになっていた。地上からの指令で補助推進装置に点火し、タンク内に残った燃料を放出して速度を落とし、月の後縁を通り過ぎるように軌道が変更された (アポロ宇宙船は常に前縁を通る軌道で月に接近していた)。これによって月の重力によるスイングバイ効果を受けて速度が上昇し、太陽を回る軌道に乗るはずだったのだが、このときロケットの自動飛行制御装置の中で状態状態ベクトルに小さなエラーが発生した。その結果、月面を通過するときの高度が予定よりも高くなりすぎてしまい、地球脱出速度に到達することができなかった。最終的にS-IVBは1969年11月18日に月を通り過ぎた後、暫定的な地球周回軌道に残ることになった。1971年に一時地球周回軌道から脱出したが、31年後の2002年には再び地球の重力にとらえられた。同年9月3日香港出身のアマチュア天文学者楊光宇 (William Kwong Yu Yeung) によって発見され人工物であることが確認されるまでは、暫定的にJ002E3小惑星番号が与えられていた[6][7]

月面着陸

月上空を飛行する着陸船
ルナ・オービター3号が撮影した、月面の高解像度画像。画面中央付近が12号の着陸地点。写真で示されている部分の大きさは、およそ1.75×1.75km
ルナー・リコネサンス・オービター2011年に撮影した12号の着陸地点付近

着陸船「イントレピッド」は1969年11月19日嵐の海に着陸した。この地点にはそれ以前にも、ルナ5号、サーベイヤー3号、レインジャー7号などいくつかの無人探査機が到達していた。国際天文学連合はこの地域を「既知の海 (Mare Cognitum)」と命名した。着陸地点の月面座標は南緯3.01239°、西経23.42157°で[8]、その後月面地図には「Statio Cognitum」と登録されることになっていた。コンラッドとビーンは自分たちが降り立った場所に公式に名前を与えることは特にしなかったが、コンラッドは着陸地点を個人的に「ピートの駐車場 (Pete's Parking Lot)」と呼んでいた。

12号のこの二度目の月面着陸は、今後のアポロ計画で必要となるであろう「目標地点への正確な到達」の演習でもあった。降下のほとんどは自動で行われ、コンラッドが操作したのは最後の数百フィートの操縦だけだった。11号では着陸地点に大きな岩が散在していたため、ニール・アームストロング (Neil Armstrong) 船長はコンピューターが目標に定めていた予定飛行経路に着陸船を合わせるため手動で制御しなければならなかったが、12号は当初に目標に定めていた地点に着陸することに成功した。そこは1967年4月に探査機サーベイヤー3号が降り立った地点から、歩いて行けるほどの距離だった[9]。人類がかつて打ち上げた探査機と地球以外の世界で「再会」するのは、後にも先にもこれが唯一の例であった。

イントレピッドが着陸したのは、実際には「ピートの駐車場」よりも580フィート (177メートル) 手前の地点だった。これは目標地点の凹凸が予想よりも激しいように見られたため、コンラッドが最終段階で急遽着陸地点を変更したからであった。当初イントレピッドは、降下用エンジンの排気ガスで巻き上げられた月面の砂がサーベイヤー3号を覆ってしまうことを防ぐため[10]1,180フィート (360メートル) 離れた地点に着陸することになっていたのだが、コンラッドの操作により実際の距離は600フィート (183メートル) に縮まり、3号は高速度の砂埃に吹きさらされることになった。後に判明したところでは、この砂埃はむしろサーベイヤーを覆っていた塵を吹き飛ばす結果になった。最初に飛行士が観測したとき、3号はもともと薄い塵の層に覆われていたため薄褐色に見えていた。その後飛行士が近づいて見てみると、着陸船の排気ガスにさらされた部分は塵が吹き飛ばされ、元の色である白に近くなっていたのである[11]

船外活動

コンラッドが月面に降り立ったときの第一声は、「ウヒョー! (Whoopie!)、ニールにとっては小さな一歩だったかもしれないが俺にとっては大きな一歩だぜ!」であった[12][9][13]。これは即興で言った発言ではなかった。彼はジャーナリストのオリアーナ・ファラーチと、月面に立った瞬間にこの発言をするかどうかで500ドルの賭けをしていたのである。ファラーチは11号のニール・アームストロング船長の「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という発言があまりにも優等生すぎるとして、NASAが事前にそう言うように指示していたのではないかと疑っていた。コンラッドの発言は、大柄なアームストロングと身長160cm台の自分とを掛けたジョークでもあった。コンラッドが後に語ったところによると、彼はついにファラーチから賭け金を取ることはできなかった[14][15]

12号では月面からの映像の質を向上させるために、11号で使われたようなモノクロではなくカラーのテレビカメラを持って行った。船体に取り付けられたこのカメラは着陸からコンラッド達が月面に降り立つ姿もしっかり捉えたが、着陸後にビーンが予定の設置場所である着陸船の近くにカメラを移動させ置こうとしたとき誤ってレンズを太陽に向けたため、撮像管が壊れてしまった。当初は画面の端で僅かに映像は捉えられていたが、あろう事かビーンはこれを叩いて直そうとしたため完全にとどめを刺す形になってしまった。結果、月面からのカラー中継というこの計画の最大の眼目は、開始直後に頓挫してしまうこととなった[16]。余談だが、着陸後この事件が起こるまでの間にこのカメラが捉えていた中継映像にはコンラッドが適当に発したスキャットのような鼻歌が入り込んでいる。

12号はサーベイヤー3号まで歩いて行けるほどの距離に着陸することに成功し、コンラッドとビーンは3号の機器の一部を取り外して分析のために地球に持ち帰った。このときストレプトコッカス・ミチス (Streptococcus mitis) というバクテリアが発射前に3号のカメラに偶然付着し、月面での過酷な環境を2年半も生き延びて再び地球に持ち帰られたと言われている[17]が、これはいまだ検証されていない。

コンラッドとビーンは岩石を採取するとともに、月の地震の頻度・太陽風の流量・磁場などを測定する機器と、地球との中継器などを月面に設置した。それらの機器は12号ではじめて飛行士によって設置された「アポロ月面実験装置群 (Apollo Lunar Surface Experiments Package, ALSEP)」と呼ばれるもので、原子力によって作動し、月面での観測結果を長期間にわたって地上に送信するものである。11号でも観測機器は月面に置かれたが、長期間作動するようには設計されていなかった。飛行士たちはまた写真撮影も行ったが、ビーンは誤ってフィルムの何巻かを月面に置き忘れてしまった。一方で司令船「ヤンキー・クリッパー」で月を周回していたゴードンは、マルチスペクトルカメラで月面を撮影した。

着陸船イントレピッドの下降段に取りつけられていた銘板は、いくつかの点でアポロの他の飛行のものに比べて独特なものだった。まず (a) 地球に関する記述がなかった、そして (b) 構成が違っていた (他の飛行のものでは光沢のあるステンレスの地に黒字で文字が書かれていたのに対し、12号では地の板を平らに磨き上げた上に光沢のあるステンレスで文字が書かれていた)、という点である。

帰還

USSホーネットに回収される12号

イントレピッドの上昇段はコンラッドとビーンが軌道上で待機する司令船と再ドッキングした後、(通常の手順に従い) 意図的に高度を落とされ、1969年11月20日に月面上南緯3度56分 西経21度12分 / 南緯3.94度 西経21.20度 / -3.94; -21.20に激突した。飛行士たちが月面に設置した地震計は、この衝撃で1時間以上にわたって振動が続くのを記録した。

彼らはその後さらに1日ほど月の上空を周回し続け、月の写真を撮った。月面での総滞在時間は31.5時間、軌道上での総滞在時間は89時間だった。

地球への帰還の途中で12号の飛行士たちは日食を目撃し、その写真を撮影した。これは地球が太陽を覆い隠すことによって発生した現象であった。

着水

司令船「ヤンキー・クリッパー」は1969年11月24日20:58UTC米東部標準時3:58、ハワイ・アリューシャン標準時10:58)、太平洋上アメリカ領サモア東方約500マイル(800キロメートル)に帰還した。着水の際、16mmフィルムのカメラが収納庫から崩れ落ちてビーンの額を直撃した。彼は後で6針縫う裂傷を負い[18] 、軽い脳震盪を起こして一瞬気を失った。飛行士たちは空母USSホーネットに回収された後は式典のためにサモア諸島タフナ (Tafuna) のパゴパゴ国際空港に送られ、その後はC-141輸送機ハワイに送還された。


  1. ^ Orloff, Richard W. (September 2004) [First published 2000]. “Table of Contents”. Apollo by the Numbers: A Statistical Reference. NASA History Series. Washington, D.C.: NASA. ISBN 0-16-050631-X. LCCN 00-61677. NASA SP-2000-4029. http://history.nasa.gov/SP-4029/Apollo_00g_Table_of_Contents.htm 2013年6月12日閲覧。 
  2. ^ アポロ12号 今夜半に打つ上げ『朝日新聞』昭和44年(1969年)11月14日夕刊、3版、1面
  3. ^ Williams, David R.. “Apollo Landing Site Coordinates”. National Space Science Data Center. NASA. 2011年11月7日閲覧。
  4. ^ Lovell & Kluger, Lost Moon, 1994, p. 157
  5. ^ Kranz, Eugene F.; Covington, James Otis (1971) ["A series of eight articles reprinted by permission from the March 1970 issue of Astronautics & Aeronautics, a publication of the American Institute of Aeronautics and Astronautics."]. “Flight Control in the Apollo Program”. What Made Apollo a Success?. Washington, D.C.: NASA. OCLC 69849598. NASA SP-287. http://history.nasa.gov/SP-287/ch5.htm 2011年11月7日閲覧。  Chapter 5.
  6. ^ Paul Chodas and Steve Chesley (2002年10月9日). “J002E3: An Update”. nasa.gov. http://neo.jpl.nasa.gov/news/news136.html 2013年9月18日閲覧。 
  7. ^ Jorgensen, K.; Rivkin, A.; Binzel, R.; Whitely, R.; Hergenrother, C.; Chodas, P.; Chesley, S.; Vilas, F. (May 2003). “Observations of J002E3: Possible Discovery of an Apollo Rocket Body”. Bulletin of the American Astronomical Society 35: 981. https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2003DPS....35.3602J/abstract. 
  8. ^ Landing Sites”. The Apollo Program. National Air and Space Museum. 2011年11月7日閲覧。
  9. ^ a b c d e Chaikin 1995
  10. ^ “1969 Year in Review: Apollo 11”. UPI.com (United Press International). (1969年). http://www.upi.com/Audio/Year_in_Review/Events-of-1969/Apollo-11/12303189849225-2/ 2011年11月7日閲覧。 
  11. ^ Immer, Christopher A.; Metzger, Philip; Hintze, Paul E. et al. (February 2011). “Apollo 12 Lunar Module Exhaust Plume Impingement on Lunar Surveyor III”. Icarus (Amsterdam: Elsevier) 211 (2): 1089–1102. Bibcode2011Icar..211.1089I. doi:10.1016/j.icarus.2010.11.013. http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S001910351000432X 2013年6月23日閲覧。. 
  12. ^ 原文:Whoopie! Man, that may have been a small one for Neil, but that's a long one for me.
  13. ^ "Apollo 12 First Steps" - YouTube
  14. ^ Chaikin 1995, p. 261
  15. ^ Sawyer, Kathy (1999年7月10日). “Conrad: Pioneer of the Final Frontier”. The Washington Post: p. C1. http://www.washingtonpost.com/wp-srv/national/daily/july99/conrad10.htm 2011年11月7日閲覧。 
  16. ^ One Small Step”. Apollo 11 Lunar Surface Journal. NASA (1995年). 2011年11月7日閲覧。 Note at 109:57:55.
  17. ^ Noever, David (1998年9月1日). “Earth Microbes on the Moon”. Science@NASA. NASA. 2011年11月7日閲覧。
  18. ^ Apollo 12 Mission Report” (PDF). Apollo 12 Lunar Surface Journal. NASA (1970年3月). 2013年6月23日閲覧。
  19. ^ Cuff Checklists” (PDF). Apollo 12 Lunar Surface Journal. NASA. 2011年11月7日閲覧。
  20. ^ Jardin, Xeni (2007年1月13日). “Playboy Playmates pranked into Apollo 12 mission checklists”. Boing Boing. 2011年11月7日閲覧。
  21. ^ Rowe, Chip (2007年1月10日). “On Buckeyes, Nanotechnology and Playmates in Space”. The Playboy Blog. Playboy Enterprises. 2007年3月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年11月7日閲覧。
  22. ^ “NASA Memorabilia Auction”. Alternative Investing (CNBC). http://www.cnbc.com/id/40640800/NASA_Memorabilia_Auction?slide=3 2011年11月7日閲覧。 
  23. ^ Playmate Flashback: DeDe Lind Circles the Moon”. Playmate of the Year. Playboy Enterprises (2011年1月4日). 2011年11月7日閲覧。
  24. ^ Allen, Greg (2008年2月28日). “The Moon Museum”. greg.org: the making of. greg.org. 2011年11月7日閲覧。
  25. ^ Cain, Fraser (2008年6月12日). “How Many Moons Does Earth Have?”. Universe Today. 2011年11月7日閲覧。
  26. ^ Apollo 12 and Surveyor 3”. NASA (2009年9月3日). 2011年11月7日閲覧。
  27. ^ NASA Spacecraft Images Offer Sharper Views of Apollo Landing Sites”. NASA (2011年9月6日). 2011年11月7日閲覧。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アポロ12号」の関連用語

アポロ12号のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アポロ12号のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアポロ12号 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS