自由劇場とは? わかりやすく解説

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じゆう‐げきじょう〔ジイウゲキヂヤウ〕【自由劇場】


自由劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/19 02:08 UTC 版)

自由劇場(じゆうげきじょう)は、作家・小山内薫歌舞伎俳優・二代目市川左團次が始めた新劇運動である。1909年(明治42年)から1919年(大正8年)にかけて9回の公演(試演)を行った。

概況

自由劇場は劇場や専属の俳優を持たない「無形劇場」で、年2回の公演を目標に、会員制の組織とした。イプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』、ゴーリキーの『夜の宿』、チェーホフの『犬』などの翻訳劇、森鷗外吉井勇秋田雨雀などの戯曲を上演した。自由劇場は前後して発足した坪内逍遥文芸協会とともに、新劇運動のはしりとなり、当時の知識人に好評で迎えられた。

小山内たちの運動のモデルになったのはヨーロッパの「自由劇場運動 (Théâtre Libreである。小山内はフランスの自由劇場について詳細に知らなかった[1]が、イギリスのグライン(J. T. Grein)の独立劇場(Independent Theatre Society)を真似たのである。独立劇場もフランス自由劇場の影響で成立したもの[2]だから、日本の自由劇場はフランスから始まる自由劇場(演劇運動)の影響を受けたことになる。

設立まで

二代目市川左團次は、はじめ市川莚升と名乗っていた。新演劇を始めた川上音二郎の演劇運動に興味をそそられ、影響を受ける[3]。先代から明治座を受け継ぎ、1906年に左團次を襲名するが、襲名披露の興行が大当たりで、収益を元に9か月の外遊に出かけた。劇作家の松居松葉とともに欧米各地を視察し、新しい演出法や興行法を見て刺激を受けた。帰国後、歌舞伎界の革新を志し、明治座で茶屋制度の廃止、女優の起用など改革を試みるがうまくゆかず、責任を取って松居は辞任した。

左團次は作家の小山内薫と意気投合し、翻訳劇を中心に上演する自由劇場を始めることになった。2人は同年代(左團次が1年上)で、ともに10代半ばで鶯亭金升の門に入り、雑俳を学んだ仲であった。

公演

小山内は岩村透島崎藤村らと演目について相談し、イプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を選び、翻訳を森鷗外に依頼した。誰も実際に『ボルクマン』の舞台を見ていないので、小山内は留学中の友人・大久保栄に問い合わせ、舞台の様子を書き送ってもらった[4]。台詞回し、しぐさ、演出などのすべてが手探り状態であった。

出演は左團次一座の若い歌舞伎俳優らで、女形に加え、女優もいた。ボルクマン役は左團次、フォルダル役は市川左升、エルハルト役は市川團子(後の猿之助)、グンヒルド役は澤村宗之助、エルラ役は市川莚若、ヰルトン夫人役河原崎紫扇(長十郎の伯母)、フリイダ役は市川松蔦(左團次の妹)が演じた[5]

第1回公演(試演)は1909年11月27日・28日、洋風劇場の有楽座で行われた。イプセン劇の本格的な上演は日本初であり、当時の知識人や若者に好評で迎えられた。その模様は、鷗外の小説『青年』に描かれている。

以後、自由劇場の公演は、第4回(1911年)まで有楽座、第5回以降は帝国劇場(1911年3月開場)で行われた。第5回までは公約通り年2回ペースであったが、6回以降は年1回、1915年から1918年の間は中断し、第9回(1919年)が最後になった。

第3回(1910年)に小山内訳の『夜の宿』(ゴーリキーの『どん底』)を採り上げた。その後、小山内は1912年から1913年に演劇研究のためヨーロッパ各国を訪問し、ロシアでモスクワ芸術座による同作(『どん底』)の舞台を観た。帰国後の第7回(1913年)にその成果を生かして再び『夜の宿』を上演した。この時期が自由劇場の最も充実した時期であったようである。

各公演の演目

第1回-4回・8回は有楽座、他は帝国劇場。

参考文献

  • 小山内薫・市川左団次『自由劇場』(自由劇場事務所、1912)(国立国会図書館デジタルコレクション[1]
  • 水品春樹『小山内薫』(時事通信社、1961)(国立国会図書館デジタルコレクション[2]

注釈

  1. ^ 小山内・左団次著『自由劇場』(1912年)参照
  2. ^ 毛利三彌『イプセンの世紀末 後期作品の研究』(白凰社 1995)
  3. ^ 井上理恵『川上音二郎と貞奴』(社会評論社)
  4. ^ 大久保は帝国大学医学部出身。在学中は森鷗外の家に寄宿していた。1906年に大学卒業後、文部省留学生としてドイツ、フランスへ留学した。当時はミュンヘンにおり、現地でボルクマンの舞台を見ていた。小山内は大久保からの手紙を『読売新聞』(1909年12月19日付)で紹介している。なお、大久保は帰国直前の1910年6月、腸チフスに罹り、留学先で客死した。
  5. ^ これより先に(1908年1月)明治座で改革を行った際、市川翠扇と旭梅(団十郎の娘)、紫扇、松蔦の4人を起用し、翠扇が『袈裟と盛遠』の袈裟、旭梅が『ヴェニスの商人』のポーシャを演じた。これが日本の女優の始めとされる。『明治大正新劇史資料』p.53。

関連項目

外部リンク


自由劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 09:42 UTC 版)

市川左團次 (2代目)」の記事における「自由劇場」の解説

左團次は松居松葉とともに欧米視察に出かけ、海外新し演出法や興行法見て大きな刺激受けた歌舞伎界の革新志して帰国明治座改良しようとするが、周囲反対失敗その後小山内薫意気投合し会員制の自由劇場を始めた。 自由劇場は1909年明治42年11月有楽座第1回公演行った演目イプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』(森鷗外訳)で、ボルクマンには左團次が扮し、他に左團次一座の若い歌舞伎役者出演した鷗外の『青年』に自由劇場初演様子描かれている。 以後、自由劇場は第9回まで行われ前後して発足した坪内逍遥文芸協会とともに新劇運動のはしりとなった。自由劇場は当時知識人新鮮な感動与えた

※この「自由劇場」の解説は、「市川左團次 (2代目)」の解説の一部です。
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