桃山虔一とは? わかりやすく解説

桃山虔一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/26 01:14 UTC 版)

桃山 虔一(ももやま けんいち、1909年隆熙3年)10月28日 - 1990年平成2年)12月21日)は、植民地時代の朝鮮公族帝国陸軍軍人。陸士42期・陸大51期。最終階級は陸軍中佐。勲等は大勲位勲一等。


注釈

  1. ^ 父の胖が易学や姓名学を趣味としていたため、戸籍名が誠子となってからも普段自分の名を佳子と表記していた[15]

出典

  1. ^ 黄玹「梅泉野録」隆煕3年11月1日条に「義親王・李堈の宮で、皇孫が生まれた。その母は宮人である」日本語訳636頁。
  2. ^ a b c 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 132 / 51%.
  3. ^ 坂本辰之助「皇室及皇族」大正元年版(奥付は「大正二年一月一五日増訂改版印刷」)「朝鮮王公二族御實記」22頁には義王李堈公「王子は側室日本婦人に出来させたる男子一人あらせらる」とあるのが李勇吉と思われる。不敬罪と検閲制度がある時代であり、しかも大逆事件直後の本なので可能性は高いと思われるが真偽は不明。
  4. ^ a b c 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 132-133 / 51%.
  5. ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 131 / 51%.
  6. ^ 桃山虔一『わが青春の車たち-二つの大戦の間の自動車ー』株式会社 内山工房、8月18日 平成8年。 
  7. ^ 李鍵公のエッセイや遺稿集「わが青春の車たち-二つの大戦の間の自動車-」、取材を受けた高橋紘・高橋邦彦「天皇家の密使たち〔秘録〕占領と皇室」との間には相互に矛盾があるので取捨選択した上で判断すべきだが、今となってはどれが正しいのかは不明な個所が多々ある。極端な例が『文藝春秋』昭和26年(1951年)12月号に寄稿した「運命の朝鮮王家-もと李鍵公殿下の記録-」であり、「私を生んだ母がゐないことは、早くから知つていた。一度も顔を見たことがないばかりか、名前さへ知らない。一度、これが母親だといつて寫眞を見せられたことはあるが、それは父の正妻で私を養つてくれた人の腰元であつた朝鮮人である」(100頁)とあるが、107頁では「生母の悲惨な生涯を憐んでゐるからであり」となっている。これは1950年(昭和25年)に発表された張赫宙の「李王家悲史 秘苑の花」の存在自体を知らないか、あるいは「秘苑の花」と記述が酷似した個所がある1975年(昭和50年)刊の「三代の天皇と私」、1984年(昭和59年)刊の「流れのままに」(1968年(昭和43年)刊の「動乱の中の王妃」を改題して手直ししたもの)、1984年に韓国の『京郷新聞』に連載されて1987年(昭和62年)に日本語訳が出た「歳月よ王朝よ」のみを使って英王李垠方子女王について書くのと似ている。
  8. ^ 新城道彦『朝鮮王公族-帝国日本の準皇族』中央公論新社、3月 平成27、125頁。 
  9. ^ 東幼史編纂委員会編集・東幼会発行「東京陸軍幼年学校史・わが武寮」559頁参照。なお853頁には第27期「第一学班(独語)」に「李鍵公子」とある。
  10. ^ 毎日新聞社刊「旧皇族・華族秘蔵アルバム・日本の肖像11」12~13頁に陸軍幼年学校時代の李勇吉が映っている写真が掲載されている。
  11. ^ 「文藝春秋」昭和40年12月号掲載の「李鍵公(桃山虔一)」名義の「朝鮮王朝の末裔-日韓併合と日韓条約の谷間で-」132頁より。
  12. ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 133 / 51%.
  13. ^ 「昭和天皇実録」昭和5年6月18日条の「李鍵公参内朝見の儀」の記述中に「去る十二日、大勲位李堈公は勅許により隠居し、長子李鍵が公系を継ぐ」。
  14. ^ 王公家規範が成立する大正15年まで李勇吉(李鍵)の身分は確定せず、また陸軍士官学校が朝鮮人に門戸を開くのは奇しくも李鍝公が入学した45期からなので、「超特別待遇」と言える。
  15. ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 136 / 52%.
  16. ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 137 / 53%.
  17. ^ 松原慶治 編『終戦時帝国陸軍全現役将校職務名鑑』戦誌刊行会、1985年、1712頁。 
  18. ^ 昭和天皇実録昭和20年8月12日条には「宣仁親王崇仁親王恒憲王邦壽王朝融王守正王春仁王鳩彦王稔彦王盛厚王恒徳王」とある。
  19. ^ 昭和天皇実録」昭和20年8月12日条に「皇族会議」ではなく「お召し」となっているのは、王族の李王垠と公族の李鍵公が出席したためと思われる。
  20. ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 219 / 85%.
  21. ^ a b c d e 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 225 / 88%.
  22. ^ この時に李鍵公が木戸幸一宛に出した書簡は新城道彦「天皇の韓国併合・王公族の創設と帝国の葛藤」312~315頁に紹介されている。
  23. ^ 韓国人・朝鮮人が日本国籍を喪失したのは1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効による。それ以降に韓国人・朝鮮人が日本国籍を取得した例として、昭和27年に取得した「秘苑の花」の作者張赫宙と、彼の知人で李王家の秘書格だったことがある趙重九元男爵がいる。
  24. ^ 李鍵公が「桃山虔一」名で『文藝春秋』昭和26年(1951年)9月号に寄稿した「運命の朝鮮王家-もと李鍵公殿下の記録-」99~100頁には「ラジオの朝鮮語放送を聴いてみると、七、八分は意味が判るけれども、喋るほうは絶対にダメである。発音と抑揚がダメになったら、相手に通じない。ただ今でも読むことだけは出来る」とある。京城帝大で教えた経験があり、朝鮮人を養子にしていたレジナルド・ブライスと共著で1951年に"A First Book of Korean"という英語圏の国連軍将兵向けに韓国語入門書を書いたことがある英王李垠や、陸軍幼年学校時代に朴賛珠とハングルで文通をしていた李鍝公ほどではないにしろ、多少は使えた可能性はあるが、詳細は不明。「倉富勇三郎日記」大正11年10月27日条には「李埈公妃は是非漢書を教授すへき旨を主張せらるるに付、先日選定したる某(元群守朝鮮人)を朝鮮語の噺相手として上京せしむることゝなれり」「李鍝公か李勇吉の如く朝鮮語を忘れさる為、朝鮮語を噺すことゝしたら宜しかるへき旨を記載し居れり」とある。
  25. ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 231 / 90%.
  26. ^ a b c d e f 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 231 / 91%.
  27. ^ 新城道彦, p. 222.
  28. ^ 「昭和天皇実録」昭和22年5月3日条には「仮称を使用」。
  29. ^ 「昭和天皇実録」、田島道治「昭和天皇拝謁記」及び田島日記を元にした加藤恭子「昭和天皇と田島道治と吉田茂」の記述には李王家と李鍵公家(桃山家)には一定額の生活費を賜っていた形跡があるが、具体的には不明。
  30. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、366頁。NDLJP:1276156 
  31. ^ 1982年(昭和57年)に刊行された『昭和新修 華族家系大成』上巻には「のち再び韓国籍となって本姓に戻った」とあり、「李鍵」で立項されていて「桃山虔一」は別名扱いされている。
  32. ^ a b 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 139 / 53%.
  33. ^ a b c 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 234 / 92%.
  34. ^ 新城道彦「朝鮮王公族」224頁の記述は「運命の朝鮮王家-もと李鍵公殿下の記録-」を元にしているのは明らかだが、自身が123~124頁で出典を明記した上で引用している個所と矛盾している。
  35. ^ 新城道彦, 2015 & Kindle版、位置No.全266中 233 / 91%.
  36. ^ 李鍵公(桃山虔一)と松平佳子の離婚は1951年(昭和26年)であり、サンフランシスコ講和条約発効による韓国人・朝鮮人の日本国籍が喪失する前年であったこと、帰化手続きによって李鍵公と3人の子女が日本国籍を取得して戸籍を作成したのが1955年(昭和30年)であったことが関係があったと思われる。
  37. ^ 小田部雄次「李方子」223頁には、2006年(平成18年)に第1王子の李沖(桃山忠久)が故人となった時に実母である松平佳子が「相続人となるのだが、その親子関係が証明できない」という手紙が著者に届き、「当時の新聞記事や日記類」を先方に送り「果たしてそれが証拠になったかどうかは不明だが、問題は解決し」たとある。おそらく1951年(昭和26年)に佳子は離婚した時に単独で実家に復籍したか戸籍を作成したが、離婚に際して李沖を引き取った時に何故か一緒に戸籍に入れなかったので、サンフランシスコ講和条約発効に際して日本国籍の喪失を経て1955年(昭和30年)に父および弟妹と共に日本国籍を取得した時に佳子とは別に戸籍を作成したのが原因と思われるが、確実な事は不明。あるいは離婚後に佳子の元に赴いた李沃子も1955年に日本国籍を取得した時点で母とは独立した戸籍となっている可能性がある。
  38. ^ 河原敏明『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』講談社2004年
  39. ^ ただし三笠宮崇仁親王伝記刊行委員会編「三笠宮崇仁親王」の年表には該当個所なし。
  40. ^ 『官報』第849号、「叙任及辞令」1929年10月28日。p.672
  41. ^ 『官報』第1149号、「叙任及辞令」1930年10月27日。p.642
  42. ^ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
  43. ^ 『官報』第4150号、「叙任及辞令」1940年11月5日。p.167
  44. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  45. ^ 「Korea Today 今日の韓国」平成11年(1999年)12月号に掲載された金英達「王公族-日帝下の李王家一族・第4話・日本政府の王公族政策」に官報へ公示された昭和30年3月1日付で朝鮮籍から「日本国に帰化」した李鍵、李沖、李沂、李沃子の4人の記事の写真版が掲載されている。ここで4人の名前は「李鍵(桃山虔一)」という具合に朝鮮名に日本名の通名(仮称)が添えられている。
  46. ^ 小田部雄次『皇族に嫁いだ女性たち』角川学芸出版2009年
  47. ^ 平成新修旧華族家系大成上p234
  48. ^ 『文藝春秋』昭和40年(1965年)12月号「朝鮮王朝の末裔」132頁
  49. ^ 同137頁
  50. ^ 李建志 (平成26年). “歌会始と李王の和歌”. 比較文學研究 第九十九號: 68-85. 
  51. ^ 西宮一民 編『住吉大社遷宮記念出版 新年御歌会始歌集』住吉大社社務所、1月1日 昭和38。 
  52. ^ 本馬恭子「徳恵姫」はただの一言も触れていないが、多胡吉郎「空の神様けむいので・ラスト・プリンセス徳恵翁主の真実」にあるように、徳恵翁主は少女時代には日本語の童詩を書き、京城に住んだことがある宮城道雄が曲をつけていた。


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